君を待ってる
―影猫?
「そうよ。産まれなかった猫の影だけが、一人歩きをしているの」
―どうして猫は産まれなかったの?
「七つの命を使う前に、生きることをやめてしまったの」
* * *
君はてきぱきと歩み寄って、その老女と少女の間に割って入る。
「やめてください、シスター・アンジー。リリィが恐がってるじゃないですか」
そして少女を奪うようにして手を引っ張ると、しゃがんでお説教を始める。
「いいわねリリィ、今は皆で遊ぶ時間なの。一人だけでこんな寒いところにいちゃ駄目じゃない。さあ、行くわよ」
君は立ち上がると、再び老女と向き合った。
「シスター・アンジー。貴方のことは尊敬していますわ。だけど……そろそろ引退なさったほうがよろしいんじゃなくて?」
「さあ、とっくに引退したようなものよ」
君は少女と一緒に、鬱蒼とした教会の林を歩いていく。今日は太陽も出ていなくて、湿り気のある風は人のいる空間だけを周りから切り離していくようだ。
「ねえ……あの、シスター?」
「どうしたの、リリィ」
「影猫って、本当にいるの?」
「そんなもの、いないわよ。怖い事なんかないわ」
「ううん、もし影の中に住むんなら……ここで飼えるかな、って」
君はあからさまなため息をつく。
「いいわね、リリィ。影猫も妖精も、本当はいないのよ。神様はそんなものをお造りになっていないわ。そうでしょう? 分かったら返事して」
「……はい、シスター」
少女が頷くので、君は満足そうに笑ってみせる。
「いい子ね。さ、戻ってみんなと遊びましょう。今日はお絵かきをしているわ」
木々がさわさわと揺れている。君が揺らす黒いベールは、本当に綺麗だ。
少女は下を向いて、足を止めがちになる。
「お絵かきなんて、したくない……メルダが私の絵にいたずらするの」
「あなたの絵に隙間がたくさんあるからよ」
「だって、あれは魔法使いのお庭なんだもん……お姫様を描かれるのは嫌」
「いい加減になさい、リリィ」
君はどうして、薔薇園が嫌いなんだろう。
君のところの子どもが入り込みでもしない限り、君は決してそこに近寄ろうとしない。
皆、安らぐと言ってお茶会の場所に使っているのに、君は参加しようともしない。
君を待っているのに。
* * *
「ティム! ドロシー! 喧嘩はやめなさい!」
君は今日も大声で、取っ組み合った子ども達を引き剥がす。
「今日は皆で感謝祭の準備をするんじゃなかったの? どうして花束も作れないの!」
その怒声に、ポニーテールの少女は火がついたように泣き出した。それを見た子ども達が、一斉に君へ説明を始める。
「あのね、ティムが崖の上でクロッカスを探してきたから、ドロシーが一本頂戴って言ったのよ」
「違うよ、ドロシーはいきなり取り上げたんだよ。それでティムが怒って……」
「それはティムが意地悪して、あげないって言ったからだよ」
「ドロシー達は皆で大きい花束が作りたかったのよ」
「でも、最初はティムのこと仲間はずれにしてたんだよ」
「ティムだってカレンの桜草を一本もらったのに……」
「もうおやめなさい!」
君はまた大声で、その場を鎮める。
「分かりました。ティム、クロッカスは何本見つけたの?」
「……三本だよ」
「どうして一本ドロシーにあげなかったの?」
「ドロシーが三本とも欲しいって言ったんだ」
「そうなの、ドロシー?」
「だって、……メルダとデビーも、欲しい、って、言ったから……」
君はまたため息をつく。
「仕方ないわね。いい事、ドロシー? 今度から、頼み事をするときには無茶を言わないの。ティムだってクロッカスを使いたいことくらい、分かるでしょう?」
「でも、でもメルダが……」
「人のせいにしないの! 分かった?」
「……はい、シスター」
一仕事を終えた君は、満足げに周囲を見回す。ところが、問題はまだ終わっていない。
「あの、シスター」
「どうしたの、カレン?」
「それが……ティムが棒を振り回したから、リリィの花束は壊れちゃったの」
目を向けると、ひときわ小さな少女は震えながら、君の方へばらばらになったピンクの花を手渡そうとする。君はしかし、少女の目を見ないままで言う。
「本当、とろいんだから」
君はそれほど、世界全てに嫌気が差しているの?
君がそう思うなら、早く来てよ。
君を待っているから。
* * *
「シスター・アンジーの薔薇園には入るなって、何度言ったら分かるの!」
君が怒鳴ると、小さな少女は小さな声で言う。
「でも、あたし……」
「口答えするのはやめて!」
乾いた音が響く。
少女がおびえた目をしているのが、君には気に入らない。
「すぐに戻りなさい!」
「でも……」
「でもじゃないの!」
「……でも、鞠を落としてきちゃったの」
そしてまた、大きなため息。
「……仕方ないわね。私が取ってくるから、もうお戻り」
薔薇園は林の真ん中にぽつりとあって、蔓薔薇の垣根に覆われている。湿った薄緑の木々の中で、赤い花だけが妙に毒々しい。君は錆びた門を開けて、狭い空間に足を踏み入れる。
「あら、いらっしゃい」
「リリィの鞠を見ていません?」
「さあね……持っていたのは知ってるけど、どうしちゃったのかしら?」
老女の緩慢な笑みも、君を苛立たせるらしい。
「あの子なら、鞠がなくなったことをいつまでも気にしたりしないわ。見つかるときには出てくるものだから……それより、貴方も疲れてるみたいじゃない。座っていく?」
「冗談じゃないわ」
君は叩きつける様にそう言う。それでも老女が怒らないのを、君は喜ばない。
「貴方は私の最後の生徒だったわね。薔薇園の手入れもよくやってくれたじゃない」
「忘れました、そんなこと」
「……そう。
ああ、思い出したわ。リリィ、ここを出るときには鞠を持ってたのよ。きっと、転んだか何かして林に落としたんじゃないかしら?」
「そうですか。それは、どうも」
君は林の中を進んでくる。
時々茂みをかき分けては、赤い鞠を捜して動き回っている。
赤い鞠。綺麗な鞠。
君はそれで遊んだことがある。
「きゃっ!!」
足を滑らせたのだろうか。
君は道から大きく外れて、鬱蒼とした茂みの中に落ちて来る。張り巡らされた木々の枝は太陽を覆い隠し、地面の湿気を保ち、君に暗い影を落とす。
「どうなってるのよ、もう……」
君は足を押さえて、そしてこちらを向いた。
はじめまして。
「黒猫……?」
やっと君に会えたね。
ずっと、ここで待っていたんだ。
「う……っ、嘘でしょ!? 何、あれ!?」
君は元々青白い顔をもっと薄い色にして、じっとこちらを見ながら震える声で言う。
ずっと、遊び相手が欲しかったんだよ。
覚えている顔は、君だけだったんだ。
だから、君だけを待っていたんだよ。
「そ……そんな……私を、恨んでる、って言うの?」
そんなつもりは、なかったんだけどな。
だって、君のおかげで影猫になれたんだから。自由に動けるんだから、普通に猫の影になるよりずっと面白いよ。
君とも、二人っきりで遊べるし。
「許してよ……そんなつもりじゃ、なかったのよ……」
知ってるよ。
そのときは影にもなっていなかったけど、君がそんなつもりじゃなかったのは知ってる。
ただ君は、薔薇園に入ってきた黒猫に、花をあげようとしたんだよね。
でも、猫があんまり嫌がるから、ちょっと怒っただけなんだ。
鞠を投げつけたのだって、それで猫の気を惹けないかと思っただけで。
それで猫が頚を折って死ぬなんて、少しだって想像しなかったんだ。
そして君は猫の死骸をここに埋めて、薔薇園に行かなくなってしまった。
だから、それからずっと、ここで待っていたんだ。
影の外には出られなくて、君の顔しか、覚えていなくて。
「やめて……」
おびえている君の傍に、そっと降りる。黒猫の姿も好きだったけれど、君と一緒にいられるなら喜んで捨ててしまえる。
影猫の姿は君の黒い影に混ざり合って、そしてすっかり失われた。
「いっ、いや……動けない……私の影、こんなに黒く……」
君はもう動けない。
影猫の入った濃い影は、君にとっては重すぎるのだ。
「いやああああっ!!」
それほど濃くない影を持つ影猫もいるらしいのに、どうしてこんなに濃くなったんだろうね。
それとも、やっぱり死んだ猫の方は、君を恨んでいるのだろうか。
どうだろうね……あ、別に答えてくれなくてもいいよ。
ずっと、一緒だから。