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窓と僕

 窓から黒猫が入ってきたときも、僕は何も言わなかった。

 ひょっとしたら、窓には網戸をしていたのではなかったかと考えたり、窓枠から机の方までやって来るのではないかと不安に感じたりしたかもしれない。しかし、それも僕にとってはそれほど重要なことではなかった。だから僕は、それらを考えることを一瞬にとどめて、すぐにまた机に広げた問題用紙に目を落とした。

 時計は刻々と動いている。アナログ時計なので、あと何分でこの問題のために与えられた時間が終わるのかも一目で分かる。それが、今の僕の全てであって、それ以外の全てのものは、所詮「それ以外」にすぎないのである。

 生き抜くために。


 私立中学の受験に失敗したことは、母親にとってまるで予想もしていないことだったらしい。

 僕はどちらかというと、母のそれまでの言葉を信じて「受かったら儲けもの」と考えていた。落ちたら、それまでのクラスメイトと一緒に公立中学に行けばいいだけであって、そうすればそれなりに学校を楽しんで、ひょっとしたらテニス部を続けて、そしてまたひょっとしたら生徒会と名を変えた児童会に入って活動できるかもしれない。それも、僕にとっては非常に価値のある物事だった。

 母は間違っていた、と思う。私立校に入ったからその後の人生は明るい、なんて考えるのはナンセンスなことで、そこだけに情熱を注ぎ込むのはおかしい。入学したらいよいよ勉強漬けになるのは目に見えたことで、それは僕にとって決して楽しいことではないと、僕は考えていた。

 けれど、僕も間違っていた。

 私立校に入ったら明るい生活を送れるわけではない。ところが、公立校では明るい生活など決して望めないのだ。

 僕の家から自転車で十数分のその公立校は、それなりに活気があって、それなりに進学率がよくて、けれどそれなりに荒れていた。進学率の向上に貢献しているような連中は皆、教室の中で起きていることにまるで無頓着で、それ以外の連中もまるで仕組まれたようにレベル別に集まって、閉鎖的な社会を形成していた。それは何度か覗いたテニス部でも同様で、頭のいい面々はそれなりの能力をそれなりに消化することに勤めていて、そうでない面々はその日の遊びに熱中しては常に騒ぎ立てていた。

 当初、僕の周辺には頭のいい連中が集まってきた。それなりに会話をして、雑誌の貸し借りをして、けれど塾だ何だといって放課後にはあっという間に散ってしまう不思議なグループの中で、僕はまるで楽しいことを見つけ出すことが出来なかった。

 かといって別のグループに機会を見つけて首を突っ込んでみると、とたんに先生への悪口やクラスメイトのよからぬ噂話に淘汰され、学校全てが恐ろしくなるような目にあった。おまけにその一幕が別のグループに知れて、僕には三年間消えそうにない「変な奴」の名が刻まれることになった。


 そんな中で僕がそれなりに過ごすための、唯一の簡単な方法は、トップクラスの成績を維持することだった。

 そうする事で、僕は隙を見せずに生活することが出来て、目立ちはしないが無視されもしない「クラスの一員」としての小さな空間を確保することが出来た。


 時計の長針が終了時刻とまだ60度以上の角を成している状態で、ぼくはその問題を片付けた。もともと小問集合系の問題だったので、やり方さえ確認できればあとは素早く終わったのだ。

 顔を上げると、黒猫はまだ窓枠に座っていた。僕はそのとき初めてまともに驚いて、椅子から立ち上がった。

「お前、どこから来たんだ?」

 手を差し伸べてみるが、別段反応も無い。飼い猫なのだろうか……それなら、人の家に堂々と入り込む度胸があってもおかしくない。ちらりと見てみるが、やはり網戸を閉め忘れていたようだ。飼い猫にしては痩せている気がするが、こういう黒猫ならありえなくはない。毛並みもいいし、目も澄んでいる。 ちょうど辺りは夕暮れで薄暗くなってくる頃で、窓枠の影が壁を這うように長く伸びていて、猫もその中にいた。それは、そこそこ絵になる光景で、けれどあまり嬉しいものではなかった。

「……でもお前、首輪してないんだな」

 その僕の言葉は単に今気付いた事柄に関する独り言だったのだが、まるで空気にも無視されたかのように小さく聞こえた。しかし猫はそれに小さな顔を上げて、そして、僕にこう言った。


「首輪って猫によって好き嫌いが分かれるらしいぜ?」


 あまりのことに、僕は息をつめて猫をじっと見ていた。猫の方は平気なように前足を舐めて、再び僕の方を見る。

「そんな顔するなよ。あんたが気に入ったから話しかけたのにさ」

 そんな事を言われても、僕はどう反応していいのか分からない。猫の方を見たり、周囲に視線を送ったりしていたが……不意に、光景の違和感に気がついた。

 窓枠の影は長く伸びている。ところが、猫の影らしきものが存在しないのである。


 とりあえず、この猫が何か不思議なものであることは分かった。しかし、一体どうすればいいんだろう。

 僕は深呼吸してから、問いかけた。

「何しにきたの?」

 猫はゆっくり伸びをしてから、眠そうな目で言った。

「いや、最初はここの影が気に入っただけなんだけど……あんたと話したくなって」

「えっ?」

「あんたの影、いい感じに濃いからさ」

 僕はまた反応に困って、ゆっくり首をかしげた。猫の方はすっかり部屋に慣れたように、ぴょんっと跳んで机の上までやって来てしまう。

「“影猫”にとって、人の濃い影っていうのはすごく嬉しいんだ。住み場所としては最高だから」

「どういう意味?」

「こういう事さ」

 言うと、黒猫はまた跳んで、僕の胸を駆け上ると背中側に回りこんだ。慌てて僕は体をよじるが、猫の姿は見当たらない。はっと振り返って部屋の扉を見たが、いつも通りきっちり閉まっている。

 猫は、跡形もなく消えてしまった。


 僕はちょっと気が抜けてしまって、しばらくそこに立っていた。

 一体、僕は今どうしていたのだろう。猫と会話して、その猫は僕の背中からあっという間に消えてしまう……こんなにリアルな猫の感触がなければ、寝ぼけていたと結論付けるに違いない。

 ところが。


 立っていられないほどの強烈な倦怠感に襲われたのは、その直後だった。


 肩にいきなり重しが乗ったように、まるで力が入らない。大気圧に負けるようにして、僕はそのままベッドに転がった。

 仰向けになると、自然と目が閉じてくる。視界が黒に包まれて、夕闇が少しずつ暗くしていく部屋の中で眠りに落ちかける。

 それは、決して不快なことではなかった。


「あんたの影、ほんとに濃いな」

 そんな僕が再び聞いたのは、あの黒猫の声だった。

「俺が加わっただけで立てなくなるなんて……もう限界、だぞ。いい加減、よく寝て楽しいことしろよ。こっちが罪悪感覚えてりゃ世話無いぜ、全く」

 次の瞬間、倦怠感はすっと軽くなった。

 目を開けた僕が仰向けのままで見たのは、黒い猫がこちらを気にしながら窓を出て、影の無い体で何処かへ行ってしまう様子だった。


 机のスタンドが点けっぱなしだったが、そんなことはどうでもよかった。

 僕は再び目を閉じた。視界が黒く塗りつぶされる。

 僕の背中に出来ているはずの、どこまでも真っ黒な僕の影が、ゆっくりと僕の全身を包み込んでいくような錯覚に襲われた。

 真っ黒い布団。漆黒のゆりかご。そしてやはりそれは、決して不快な感覚ではなかった。


 僕は、ここから起き上がることが出来るのだろうか。僕はそんな事を考えた。

 あと三十分ほどは、誰も僕の事を気にしない。しかしそれから後に、僕がずっと部屋にいたなら、おそらく母は様子を見に来るに違いない。ひょっとしたら、夕飯の支度が出来たといいながら。

 それも、おそらく部屋の前で声をかけるだけになるだろう。僕の部屋には鍵がついている。無理に開けるようなことを母はしない。

 もし、それでも僕が起き上がらなかったら……一体、母はどうするだろう。病気を疑ってドアをこじ開けるだろうか。父の帰りを待つだろうか。

 もし、誰がなんと言おうと僕が起き上がらず、反応もせず、ずっと眠ったままだったら……一体、どうなるのだろうか。

 さて、それが楽しいことならばそうするのも悪くないだろう。

 とりあえず様子を見ることにして、僕はうつ伏せになると本格的に眠り始めた。

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