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私とドルシェ・後編

 その日は、嫌な雨が降っていた。

 風こそないものの、重たい雨粒がばらばら落ちてきて、軒という軒から水が滴り落ちている。

 放課後だった。

 私は最近新しくした青色の傘をなるべく体に密着させて、早足で帰っていた。私の家は学校からそこそこ遠くて、皆と一緒に学校を出ても、この辺りまで来ると一人になってしまう。

「……ドルシェ?」

 雨の日、私の影はほとんど見えない。そういうとき、ドルシェは大抵いつも私の足の真下から出てこないし、ぴくりとも動かない。

 けれどその日、ドルシェは急に目を覚ました。

「どうしたの?」

 目を覚ましたとはいえ、私の影はないも同然なのだから、いつものように飛び出してきて足首にじゃれ付くようなことはない。


「……俺、なんか、すごく恐いんだ」


「え?」

 私が立ち止まって聞き返すと、ドルシェは足の下からひどく震えた声で訴えかけた。

「その辺の路地裏から……すごく嫌なにおいがする」

「どうしちゃったのよ」

「恐いんだよ……なんか、感じるんだ」

 ともかく、私に出来るのは、ドルシェが不安に潰される前にさっさと家に帰ることだ。すぐに乾いた場所まで行けば、いつも通りドルシェも元気になるはずだ。

 ところが、私が歩き出そうとしても、ドルシェが動こうとしない。そうすると私は影が地面にくっついたようなものなので、足がほとんど動けない。

 そんなことは、今までに一度もなかった。


「ちょっと……ドルシェ?」

「何かが、あるんだよ。わかんねーか?」

 ドルシェは確実に、何かを感じ取ったようだった。

「でも、何かって……」

 仕方なく私は口を閉じ、周囲を見回してみた。

 雨は一向に収まる気配もなく、ざあざあという音が絶え間なく耳に流れ込んでくる。街は全体的に薄暗い。少し裏道に入ったら、ほとんど真っ暗になってしまうだろう。そういえばドルシェは路地裏が恐いと言っていた……なんだか、おかしい。ドルシェは暗いところが大好きなのだ。

 ……目に付く一番近い路地は、向かいに見えている。雑居ビルの合間にある、幅が一メートルないような細い道だ。そこに目を向けたとき、


 …………ぁ


 確かに、何か聞こえた。

 とめどない雨音の隙間に、なにかもっと柔らかくて、細くて、本当にかすかな、


…………みぁ


「……猫!」

 その言葉に反応して、ドルシェが体を起こした。

 私は、幸いにも車の気配がなかった道を一気に駆け抜け、路地に飛び込んだ。


 一歩入った電信柱の後ろ側には、ごみの袋や空き瓶が無造作に並んでいた。それから青いゴミバケツが二つ、それからその奥に……段ボール箱が、ひとつ。雨水を吸い、しわがよってあちこち折れ曲がったその箱は……蓋が、それでも閉まっていた。

「開けて……くれるか?」

 暗闇を伝って背中に登ってきたドルシェが、息せき切って言う。私はもとよりそのつもりだった。

 よれよれになったボール紙を一枚めくると、

「やっぱり……」

 捨て猫だった。

 まだ生まれて何週間もたっていないのだろう。白猫らしいが、長い毛はばさばさに汚れていて、辛うじて空いている目も両方とも濁ってしまっている。

 私が手を伸ばしても、もう抵抗する力もないらしい。かすかに、「みぅ」と鳴いた。

「どうするんだよ?」

 ドルシェが聞いた。むしろ私は、そのドルシェの言葉で決断できたようなものだった。

「動物病院まで、走れば五分かからないよ」

 抱き上げた猫は思ったよりずっと小さくて、軽くて、それでも確かに暖かかった。

 肩越しに猫を見て、ドルシェは私に問いかけた。

「で……病院連れて行って、どうするんだ?」

 それを、私が考えなかったわけではない。私の両親はどちらかというと寛大だが、猫を飼うことに賛成してくれるかどうかは分からない。無理なら里親を探さなければならないし、それも長引いたら……

 けれど、

「どうするにしても、連れて行く以外にどうするの」

「……そうだよな」

 ドルシェはそう言って、それから、かすかに鳴いている猫をじっと見て、呟いた。


「お前、もうちょっと頑張って生きてみろよ」



 その日の夜、私とドルシェは久しぶりに屋根に上った。

 まだ空は随分曇っていたけれど、ぼんやりとした満月が顔を出していた。


「ねえ、ドルシェ」

「なんだ?」

「あの子猫は、あれで……よかったのかな?」


 急いで駆け込んだ動物病院では、親切に応対してもらえた。そこそこ混み合っていたが、看護師さんが一人ついてくれて、体を洗って、奥まったところで点滴もしてくれた。

 綺麗になった子猫はとてつもなく愛らしくて、点滴が終わる頃には濁った目をきょろきょろさせて私を見ていた。お医者さんが様子を見に来てくれた頃には、そろそろミルクか何か用意しようと思っていたのだ。

 ……けれど、内臓は思った以上にひどい状態だったらしい。子猫の体力がどんどん失われていくのを、私もドルシェも看護師さんも、見ていることしか出来なかった。


「……大丈夫だよ」

 ドルシェは私の膝の上に座った。

「あいつ、きっとまた生まれてくるさ。あんなに可愛がってもらって、泣いてもらったんだからさ」

「……うん」

ドルシェはそっと、私の体に擦り寄ってきた。

「どうしたの? ドルシェ」

 ドルシェはガウンに顔を押し付けながら、小さくこう言った。


「……あのさ、俺をくっつけるはずだった猫は、誰にも、助けられずに、死んだのかな? だから、もう生まれてこないことにしたのかな?」


「その猫は、そうした方が良かったと思う?」



 ドルシェはふさふさした頬を思う存分私に擦り付けてから、私を見て小さく首を振った。


……やっぱ子ニャンコに限る、と思った彦星でした。

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