私とドルシェ・前編
あの寒い夜から、私の影の中に、一匹の猫が住んでいる。
真っ黒な体に、光る目。たいして大きくないその猫は、影の上でいつも気ままに過ごしている。
すまして座るとスマートに見えるけれど、性格はなんだか子供っぽい。私とはお喋りも出来るけれど、たくさん話すのは好きじゃない。
私はその猫に、「影猫のドルシェ」という名前をつけた。
実物より随分立派だけれど、ペットみたいな可愛い名前も失礼のような気がしたのだ。
ドルシェは私が名前を作ったことをひどく面白がった。
「へーぇ、……俺はドルシェなのか?」
「えっ? ううん、嫌ならいいんだけど」
「嫌じゃないさ……うん、嬉しい。あー、でも……そうか、俺ドルシェなのか……」
ドルシェはくすぐったそうにお腹を見せて、影の上を散々転がったかと思うと、
「面白ぇ」
ぴたっと動きを止めて、満更でもないように私の方を見た。大きな瞳が、笑っていた。
ドルシェは夜が好きだ。
昼間は大抵、眠っている。
太陽の下では私の影もくっきりしているから、何も心配せずに眠れるらしい。眠っているとドルシェは影の中に消えてしまって、私からはまるで見えなくなってしまう。寂しい気もするけれど、昼間は私も忙しいから、煩わしくなくていいのかもしれない。
遅くとも私が寝る支度を終える頃には起きてきて、気紛れに遊んだり話したりする。時にはパジャマ姿の私を庭に誘ったり、ベランダ伝いに屋根まで上らせたりする。
それから私が寝てしまうと、ドルシェは真っ暗な部屋で自由に過ごす。街へ出ることもあると言うけれど、日が昇る前には戻ってきて、私が朝どんなにばたばたしても気にしないで眠っている。
その日、ドルシェはいつもより早く起きてきた。
私はちょうど塾から帰るところで、ひとりで大通りを歩いていた。
人がいない時間帯で、車道も歩道もしーんとしていた。広い道を、均等に並んだ街灯が冷ややかに照らしていた。
ドルシェはすぐに遊び始めた。
街灯に近づくほど、私の背後に伸びる影は濃く短くなっていく。ドルシェはそれに合わせてリズムよく私の方に近づいて、私が街灯を通り越すと同時を狙って私の前にぴょん、と出る。街頭から遠ざかるにつれて、影は薄くなっていく。けれど、背後には次の街灯で出来る新しい影が伸び始める。前側の影が消える直前に、ドルシェは私の足の下をしゅっとすり抜けて背後に戻る。その勢いのまま影の端まで行ったら、新しい影が短くなるのに合わせてまた前へ歩いてくる。
「上手だね、ドルシェ」
実際ドルシェは一度もタイミングを外さなかったし、私に触れることすらなかった。
「へへっ」
ドルシェはそれだけ言って、また遊びに熱中し始めた。
街灯を一つ過ぎて。ドルシェが一つ跳んで。また街灯を過ぎて。
気がつくと、私はあっという間に大通りを通り過ぎてしまっていた。人気のない夜道もまるで気にならなかったし、長い距離を歩いてきたようには思えなかった。
ちょっと緊張が緩んで、私は一息ついた。
そこからは路地に入って真っ暗なので、私は渡されていた懐中電灯をつけた。暗闇の中に、オレンジ色の光線が一筋加わる。それから、眩しい光があと二つ……ドルシェの目だ。
ドルシェはこっちを見たり懐中電灯の光を追ったりしていたが、不意に私のほうに駆け戻ってきて、するすると肩まで登った。頬に当たる黒いひげがくすぐったい。
「どうしたの?」
「ううん……ただ、あんまり真っ暗だから、見失ったら嫌だと思ってさ」
それが「私がドルシェを見失ったら」なのか「ドルシェが私を見失ったら」なのかは分からなかったが、とりあえずドルシェは、今のところは私と一緒に帰りたいらしい。
左肩だけ妙に暖かくなって、私は家に帰った。
ドルシェが一番嫌いなものは、雨だ。
朝から雨が降っていたりすると、私がまだ学校にいる頃から気分悪そうに動き出す。ゆっくりした動きで、しかも半分眠っているので、誰も気付かないし私も気にならないが、当人(当猫)はひどく苦しそうな様子を見せる。
一度、午後から急に大雨になったのに、私が傘を持っていなかったことがある。夕方まで教室で宿題をしていたがとうとう雨はやまず、鞄を頭に乗せて走らなければならなくなったのだ。
駆け足で水溜りに足をつけた瞬間、私の影はびくっと動いた。曇り空の下で影はかなり薄くなっていて、跳ね起きたドルシェもなんだか薄く見えた。
「ぎゃっ!?」
飛び上がった弾みに水しぶきを上げたドルシェは、自分が雨の下にいることに恐怖すら覚えたようだった。
「ごめんねドルシェ。ちょっとだけ我慢して!」
鞄と腕がびしょ濡れになった私を見て、ドルシェは事態を察したらしい。一瞬だけ真面目な顔をして、私の背中にしがみついた。
学校から家まではかなり近い。状況は悪いが、走れば十分とかからずに帰り着ける。けれどその間、ドルシェは背中にしがみついて、ずっと震え続けていた。
帰ってからドルシェをタオルに包んで、部屋で一緒に温まった。ドルシェは普段何も食べないけれど、私が飲んでいるホットミルクの甘たるい湯気を好奇心いっぱいに見ていた。
それでもドルシェは、私とタオルが作る影からヒゲ一本はみ出ることもなかった。
「ドルシェ、今夜はどこに出かけるの?」
それからしばらくたったある夜、ベランダで私はドルシェにこう聞いた。
すっかり晴れて、冬らしい、星の綺麗な日だった。
「それっぽく言うと、影猫の集まり、かな」
「え? 影猫ってたくさんいるの?」
ドルシェによると、影の中に住んでいる猫というのはそれなりの数がいるらしい……人の影に住み着いてお喋りをしたがるのは少数派らしいが。
「大抵、影猫は裏道とかに住んでるんだ。ほら、皆、日陰が好きだしさ。で、晴れた夜にはなんとなく集まるんだ」
「そっか……。 ねえ、ドルシェ」
「何だ?」
私は、何気ない風を保ったままでこう尋ねた。
「自分は影猫でよかったって、思う?」
ドルシェはベランダの作を越えて一階の屋根まで走ると、白く光る星をじっと見つめた。
「……猫はさ、命が九つあるっていうだろ?」
「あ、うん」
「だからさ、猫は死んでも、九回までは同じ猫として生まれ変われるらしいんだ。これは昔、影猫のじいさんから聞いた話だけど」
「へえ……そうなんだ」
「だけど、さ」
ドルシェは私の方を見ようとしなかった。
「猫は死ぬとき、まだ命が残ってても、もう生まれ変わらないって決めることも出来るんだって。生まれるはずの猫が生まれてこないのさ。 そしたら、その猫にくっつくはずだった影も、行き場がなくなって……影猫になるんだ、って」
私が何も言えないでいると、ドルシェは小さく首を振って、空を見ながらこう呟いた。
それはまさに私が考えていたことで、正直、聞きたくもないことだった。
「俺は、どんな猫の影になるはずだったんだろうな。
……なんでそいつ、もう生まれ変わりたくないって、生きたくないって、思ったんだろうな」