俺の受難・後編
眩暈は納まらないし、睡魔も消えない。しかし俺の頭の一部分だけははっきりと目が覚めて、俺にダイレクトな恐怖を訴えかけた。
こんなに曇っているのに、影はあまりにも黒い。見ていると、影は雪上に流した原油のように半ば盛り上がって、しかも微妙に波打っている。俺の背中が一度、大きく痙攣した。俺は、この得体の知れない影の中心部にいるのである。しかし頭の中はほとんどホワイトアウトしていて、体だって俺の意思では動いてくれそうにない。
たぶん、絶体絶命の危機なのだろうが、半分眠ってしまった俺はほとんど何も出来ないし、正直何も考えていない。さっき起こした上半身も、徐々に徐々に沈んでいく。とろりとした黒い影の上に、俺の手が乗り、肘から下が乗り、そして肩までも、真っ黒なベンチに預けてしまう。頭の一番奥は既に真っ白で、そこから乳白色の煙があちこちへ行き渡っていく。頭は真っ白……視界は真っ黒。
もし、あのとき無理に体を起こしたりしなければ、俺は今頃安眠できていただろう。
しかし、俺は欲求に逆らって目覚めようとしてしまった。おかげで俺は自分の意識が危ない方向に遠のくのも自覚してしまい、秋からおかしなことになっている俺の影がいよいよ恐ろしい状態になったのも見てしまったのだ。全てが安眠の中で行われたなら放置も出来るが、この状況では最後まであがくより他にない。とりあえず、物理的に危ない気がする影の方を何とかしなくては。
俺は死力を振り絞って、まず大きく寝返りを打った。俺の体が地面に、派手な音を立てて転がり落ちる。そしてそれに引っ張られるような形で、俺の影もベンチからずり落ちた。これでようやく、俺は影の中央からは逃れられる。それから次にどうしよう……残り少ない思考回路をフル回転させる俺の頬に、すっと光が当たった。
太陽だ。真っ白だった曇り空に隙間が出来て、青い空と輝く太陽が、横向きに地面に転がった俺の目に飛び込んできた。その一瞬、頭を覆った白が遠のく。同時に俺は、突拍子もないことを思い出した。
俺は首をよじらせて、まだ半ばベンチに引っかかってあたふたしている影を、じっと睨みつけた。一旦目を閉じたかったが、いつ意識が消えるか分からない今は無理だ。影は俺の視線に気付いたのか、動きを止めた。俺は絶対に目を動かさないように全神経を顔と頭に集中しながら、ゆっくりと数を数え始めた。
一……二……三……
俺の意識は数字だけに絞られたので、残りの思考は瞬く間に遠ざかって、白い煙の中へと消えていった。
五……六……
俺の頭をあっというまに占拠してしまった白い塊は、脳内でカウントを続ける数字と硬直した視神経を手中に収めるべく、触手のような煙をうごめかせる。思い浮かべた数字に、白く霞がかかり始める。それを必死に振り払いながら、俺は必死で影を睨みつけた。気を抜くと眩暈に侵食されかねない。あと少し、もう少し……
九…………十。
俺は残った力の全てを使うつもりで、再び全身に力を行渡らせ、一気に仰向けに転がった。
と同時に、頭の中の白い靄が、何故か、すーっと遠ざかって消えていった。
雲の切れ間の青空に、真っ白い俺の影……俺はそれが残像だと知っているのだが……が、ぽっかりと浮かんでいた。
「うっわ……、懐かしー……」
頭痛と眩暈は完全に治まったが、俺はそのまま雪の積もった地面に寝転がっていた。体力を無駄に消費した感じだ。
ふと気配を感じて視線を真横に移すと、そこには……あの黒猫がいた。性格の悪そうな細目で、俺の方をちらっと見る。
「お前……」
黒猫は、どしっと座って前足を舐め始めた。
そういえばさっき、俺の影はただうねっていただけで俺に危害は加えていない。俺の体調が回復したのも、頭を侵食していた白い靄が抜けたからのようで、結局あっちが原因だったのだろう。
「あの白いの、たまに抜いてやらないとまた頭に溜まるぞ」
突然の声に俺は顔を動かしたが、そこでは黒猫が丁寧に毛繕いをしているだけだった。急に動いた俺に気付いて、またぞろ胡散臭い目を向ける。
……そういえば、空をまっすぐ見上げるのは久々だった。
くだらなくて古い遊びをするのも、ひょっとしたらこんなにすっきりした気分になるのも、凡庸な俺は忘れていたらしい。
再び視線を横に向けると、黒猫は悠々と立ち上がって、白い雪の中を歩き去って行くところだった。
「おい」
俺は、思わず声をかけた。黒猫が振り向いて、俺を睨む。
「俺の影に住みたきゃ、別に住んでてもいいんだぞ」
そんな俺の言葉に、
「ふゃ」
黒猫は、ほとほと呆れたとでも言いたげに一啼きしてから、あっという間にどこかへ行ってしまった。