母なる言葉、ほんとの言葉
いちおう、日本語が僕の母国語ということになっとる。
今、いちおうって書いたんは、わけがあるねん。ちょっと辛抱して読んでみてえな。
僕の生まれた国は日本やから、日本の標準語が僕の母国語ということになる。理屈は通っとるわな。なんも問題あらへん。せやけど、なんかしっくりこうへんのや。母国語と母なる言葉は別物や。ちゃうと思うねん。
僕は大阪で生まれて、大阪で育った。せやから、大阪弁が僕を育てた言葉や。僕の母なる言葉や。十九の時に東京へ行ったんやけど、それまで大阪の言葉しか使ったことがあらへんかった。
大阪の言葉は日本語の一方言やから、大阪弁と東京標準語は似てることは似てる。せやけど、やっぱりちゃう。標準語はよそ行きの言葉。そんな感じがつきまとって離れへん。
実は、いちばんこれを感じるんは、中国で日本語ができる中国人と日本語で会話する時やねん。大阪の言葉なんて相手はわからへんから、標準語で話さんとしゃあない。
「あれ、チャウチャウちゃう(あれはチャウチャウじゃないの)?」
「ちゃう、チャウチャウちゃう(違う、チャウチャウじゃない)」
「チャウチャウちゃうんちゃうん(チャウチャウじゃないのと違うの)?」
「ちゃうちゃう、チャウチャウちゃう(違うちがう、チャウチャウじゃない)」
こんな風に大阪弁が通じればええんやけど、ちっさい時から大阪で育った外国人やないとまずむりや。それに、相手がいくら日本語が達者でも、すこしスピードを落として話してあげんといかん。機関銃みたいに喋ったら、相手は聞き取られへん。言いたいことをちゃんと伝えられへん。とくに、仕事の時は、正確に伝えへんと後で問題が起きるから気ィ遣うわ。
標準語でゆっくり喋っとると、どうも胸がかゆうなるんや。なんや、外国語でも喋っとるみたいや。肚の底から出た言葉やない。頭だけで考えた言葉や、ほんまのことが言えてへんとそんな気がしてしゃあないねん。東京標準語は外国語――そんな気すらするんやよ。
たぶん、生まれ育った故郷を離れて暮してる人はわかってくれはると思うんやけど、ほんまの気持ちは母なる言葉でしか話されへん。自分の正直な気持ちをそのまんまで語れるんは母なる言葉しかあらへん。北海道生まれの人も、九州生まれの人も、それはみんないっしょやと思う。標準語を使たら、どっかズレるんや。
日本語は、たしかに母国語や。それはそれで間違いないんやけど、僕にとっては、大阪の言葉が母なる言葉なんやよ。ほんまの言葉やねん。