新しい夏 ――NPTについて――
今年もヒロシマの日がやってきた。
人類初の原爆投下から六十五年。この間、様々な人々が核兵器廃絶を訴えてきたものの、今もって核兵器はなくならない。ナガサキ以降、実戦で使われていないのがせめてもの慰めだろう。
ご存知の人も多いだろうけど、核拡散防止条約(NPT)という国際条約がある。国連の安全保障理事会の常任理事国であるアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国以外の核兵器保有を禁止した条約だ。もちろん、核兵器を持っているのはこの五カ国だけではない。インド、パキスタンなどが核兵器を保有し、イスラエルなども保有している可能性が濃厚だ。
二〇〇六年、北朝鮮が核実験を行なった際、日本は大騒ぎになった。近くの国が核兵器を持つとなれば、神経をとがらせるのはごく当たり前の話だ。相手に恐怖心を抱かさせるのが、核保有の第一の目的だとすれば、北朝鮮はそれを十分に達成したことになる。
高校の「現代社会」の授業でこの条約のことを習った時、なんていい条約なのだろうと思った。世界のあちらこちらの国が核兵器を持つようになれば、困った事態になる。核保有国が多くなれば、当然、核戦争の勃発の可能性もそれだけ高くなる。それを防ぐのはいいことだとナイーブに考えてしまった。
しかし、この条約は本当に核戦争を防ぐための有効な手段なのだろうか? よくよく考えてみれば、NPTはおかしな条約ではないだろうか。
まず第一に、NPTは典型的な不平等条約だ。
世界を一棟のマンションにたとえるとこうなる。
このマンションには大小二百ほどの部屋があって、それぞれの家庭がそれそれの部屋で生活を営んでいる。
基本的に、このマンションではピストルの所持は禁止されているが、アメリカさん家やロシアさん家などのごく一握りの住人だけがピストルの所持を許可されている。というよりもむしろ、彼らが勝手に自分たちだけがピストルを持つことができることにしてしまい、ほかの世帯になかば強制的にそれを認めさせてしまった。ほかの家は怖いなと思いながらも、みんながみんなピストルを所持した時のリスクを考え(あちらこちらで撃ちあいがはじまるのは目に見えている)、一部の世帯がすでに手に入れた「ピストル所持」という既得権を取り上げられないこともあわせて考え(既得権を取り上げるなどといえば撃たれるに決まっている)、彼らだけにピストルを持たせるようにした。
だけど、冷静に考えればおかしなことだ。これでは、ピストルを所持した家はまるでやくざではないか。ピストルを持っているというだけで、ほかの家はびびる。なにかあっても、注意もできなければ、逆らうことなどできない。
もちろん、全員が全員、大人しく従うはずもない。ピストルで撃たれるのはかなわないから、自分もピストルを持って抑止力を手に入れようとする人も現れる。それが、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮などだ。強いて言えば、彼らに非があるわけではない。アメリカ、ロシア、中国がピストルを持っていいのなら、ほかの家にもピストル所持の権利が認められてしかるべきだ。アメリカさん家がピストルを持ってよくて、なぜインドさん家がいけないのかと訊かれたら、答えようがない。どちらの家も持っていいはずだ。
結局、徐々にだけどピストルは拡散してしまうことになる。マンションから暴力が消えることはない。そんな暴力など、誰も望んでいないのに。
核兵器はその性質からして、どこか一つの国が持てば、ほかの国も持ちたがるものだ。いちばん人を突き動かすのは恐怖だ。核兵器を打ち込まれたくないと思えば、自ら核装備して、核兵器を使うのならこちらも報復の用意があると相手に知らせるしかない。ほかの国も当然、核を保有する。だから、どこか一つの国が核兵器を持っている限り、核兵器は拡散し続け、核戦争の危険性もなくならない。
ここで誤解のないように断っておきたいけど、僕は核兵器を持つようにすすめているわけではなく、その反対だ。核兵器なんてなくなってほしい。だから、NPTの欠陥と欺瞞を指摘しておきたいだけだ。
核を持ちませんと条約に署名する国々も、彼らなりの打算がある。
日本のように親分の核の傘に入れば、とりあえず安全だ。寄らば大樹の陰。自国で核兵器を開発する費用やそれをメンテナンスする手間も省ける。自国が核兵器を保有することで発生する新たなリスクも回避できる。親分に逆らうわけにはいかなくなるけど、けっこう安上がりだ。これが日本人の集合無意識といったところではないだろうか。
ただし、状況が変われば判断もおのずと変わってくるに違いない。現在の核非保有国が「この条約は自分たちにとって損だ」ととらえれば、いつでも条約から脱退して核保有を実行する可能性がある。日本もその例外ではないだろう。
NPTはないよりましかもしれないけど、「とりあえずそうしておいたほうがいい」というだけの条約だけであって、実に危うい損得勘定のうえに成立しているものだ。根本的に核拡散を防ぐことはできない。
第二に、核拡散防止条約は、裏を返せば一部の核保有国の特権を認める条約だ。ほかの国に核兵器の保有を認めないというのは、すでに核を持った国のご都合主義以外のなにものでもない。
先に、マンションのたとえで、ピストルを持っている家はやくざそのものだと書いたけど、要するに、核兵器をもっている国が世界を仕切ることになる。
核保有国は、その力を背景にして、世界を自分たちのいいようにしようとする。アメリカがいい例だ。もしイラクやアフガニスタンが核を保有してアメリカへ照準を合わせていたら、アメリカは攻めこんだだろうか。たぶん、そんなことはしなかっただろう。戦争を仕掛けても自国の本土まで被害は及ばないと相手をみくびったうえで戦争を始めているのだから。
核保有国が核を持たない国を踏みにじっていい道理などどこにもない。戦争でいちばん苦しむのはごく真面目に、ごく当たり前に暮らしている人たちだ。そんな人々の生活を踏みにじる権利など、誰にもない。
これまで見てきたように、NPTは根本的な欠陥を抱えている。
日本人があまりこのことを考えないのは、アメリカの核の傘に守られているので、そのほうが都合がいいと思っているからだろう。だから、無意識のうちにNPTの欠陥から目をそらしてしまうのではないだろうか。
だけど、ほんとうにそれは都合のいいことなのだろうか? 核兵器を持った親分に逆らえずに唯々諾々《いいだくだく》と従うしかないのは、自立していないだけのことではないだろうか。繰り返しになるけど、もちろん、日本が核兵器を持つべきだということを言いたいのはではないので念のため。
核があるのがこの世の現実だし、そんな世界で生きていくしかない。それは事実だ。世界はさまざまな欠陥と欺瞞と妥協のうえに成り立っているものだから、核拡散防止条約のような、一見よさそうに見えて、実はとんでもない条約が存在するのも、当然といえば当然のことなのかもしれない。だけど、核兵器が存在する世界というものは、変えようのない事実ではない。
現実だからといってあきらめていたのではなにも変わらない。みずから限界を設けるようなことをしては、なにもかわらない。これは個人の人生でも同じことがいえると思う。核兵器は、完全に廃絶しようとしない限り、減りもしなければなくなりもしない。つまるところ、意志の問題だ。あるべきなのは、核拡散防止条約などではなく、核廃絶条約だ。要は、その目標へ向かって進もうとするかどうかではないだろうか。
長い時間がかかるかもしれないけど、人類はいつかこの問題を克服できると信じている。人間は、自らの愚かさを乗り越えてもっといろんなことができるはずだから。
ノーモア・ヒロシマ。
ノーモア・ナガサキ。




