今年最後の眠りに就く前に2013
歴史は必ず繰り返す。初めは悲劇として、二度目は茶番として。(カール・マルクス)
二〇一三年は日本のファシズム(国家全体主義)が肥大し、軍事国家化が急速に進んだ一年だった。悪霊たちが正体を現しはじめた。
いつどこで誰と戦争をするのを決める――いわゆる「統帥権」を司る国家安全保障会議が誕生し、軍事機密や政府に不都合な情報を隠蔽するための特定秘密保護法も成立した。これで戦争を始めるための大枠はできあがり、日本は戦時体制へ突入した。
国家安全保障会議と特定秘密保護法はワンセットだ。
一般的には特定秘密保護法の反対運動のほうが盛り上がったが、国家安全保障会議は戦前の軍令部のように「統帥権」を司るわけだから、政府の本命はそちらにある。特定秘密保護法はあくまでも国家安全保障会議が動きやすいようにするため――「統帥権」を発動しやすくするための法律だ。
もちろん、特定秘密保護法は、政府に不都合な事実を隠して反政府的な活動を行なう国民を取り締まろうというものであり、国民に直接危害が加えれれるおそれが高い法律だから、そちらのほうが反対運動が盛り上がるのはごく自然な流れだ。戦前、戦中、無辜の国民が「スパイ容疑」をかけられて逮捕される冤罪が多発した。このまま放置すれば今度も必ずそうなる。
日本政府が戦争を始めるためにあと残っているのは、集団的自衛権の解釈変更だ。
日本は憲法九条で戦争放棄を規定しているため、外国が日本へ攻めてきた時以外は戦闘行為ができないことになっている。だが、政府はなし崩し的に解釈を変更しようとするだろう。ワイマール憲法を停止したナチスの手口を見習い、ハードルの高い憲法改正を行なわずに、いわゆる「解釈改憲」を行なうことによって今の平和憲法自体を骨抜きにしようとするだろう。
集団的自衛権の解釈が変更されれば、「テロとの戦い」や「平和創出」を口実にして政府は好きなように戦争を始めることが可能だ。自衛隊は、アメリカ軍にくっついて世界中のあちらこちらで戦争をするようになるだろう。あるいは、アメリカが日本と共同戦線を張ってくれるものと思い込んで、中国との戦争を始めるかもしれない。
怖いのは国会や国民の承諾を得ることなしに政府が勝手に先に自衛隊に戦闘行為を始めさせた後で、押し付け事後承諾的に解釈を変えることだ。そんなことをされれば誰もとめようがない。あってはならないことではあるが、現政権の独裁的な運営ぶりをみているとやりかねないと思う。
武器輸出三原則はすでになし崩しにされてしまった。
日本政府は韓国の要請を受けて、南スーダンでPKO活動を行なっている韓国軍へ銃弾一万発を提供した。
政府はこの行為を武器輸出三原則の例外と位置づけているが、とんでもない話だ。このように例外的行為を積み重ねて武器輸出の既成事実を作り、武器輸出三原則を有名無実化してしまうつもりかもしれない。
過去の日本の経済発展で素晴らしかったのは武器輸出に頼らなかった点だ。人殺しの道具を輸出しなくても経済をめざましく成長させられたというのは世界に誇っていいことだ。武器を輸出しないということは世界の平和に貢献するということでもある。
武器輸出三原則をなし崩しにするのは、国内の軍事関連産業に儲けさせるためだ。金儲けのためならなにをやってもいいのだろうか? 武器輸出三原則は平和憲法の精神にもとづいて決まったものだ。つまり、武器輸出三原則を踏みにじるということは、平和憲法を踏みにじるということである。安倍は許されないことに手を染めた。戦争放棄、平和主義の精神にのっとり、武器輸出三原則は今後も堅持すべきだ。
武器の輸出禁止は日本にとっても利益のあることだ。軍需産業が栄えれば、戦前の日本や現代のアメリカのように軍産複合体に国を乗っ取られてしまう。そうなれば軍産複合体のために絶えず戦争させられるはめになり、国民の税金は戦争のために使われ、傷痍軍人が続出することになる。軍産複合体の肥大化を防ぐためにも武器輸出三原則の堅持は不可欠だ。目先の輸出で外貨を稼ぐことよりも平和を守るほうがずっと大事なことではないだろうか。
安倍が靖国神社を参拝した。
国の命令で戦争で死んだ人々を弔うのは何ら問題はない。当然すべきことだと思う。だが、靖国神社には東京裁判でA級戦犯とされた人たちが祭られている。彼らは日本を誤った戦争へと導き、外国で多数の人々を殺し、国民を殺し、先人たちが営々と築いてきた日本を台無しにして国民の人生をめちゃくちゃにした張本人だ。彼らを拝むのは問題がある。
参拝に関して個人の内面の問題という論調もあるが、それはまやかしにすぎない。首相は一国を体現する。首相である間、彼の行動はすべて公人としての行動だ。東アジアの緊張が高まっている時期にわざわざ隣国を刺激するのは愚かとしか言いようがない。
日本は日本の道を行けばいい。だが、日本が東アジアに位置する国なのだから、隣国とどうやってうまくやっていくのかは大きな政治課題だ。たしかに中国は厄介な国である。国家同士で国益がぶつかって丁々発止とやりあう場面もあるだろうが、日本はアジアの一員として、アジアの国々とともに発展する道を模索することは、危険なチキンレースをやりあうよりももっと大切なことではないだろうか。近隣諸国同士で人の交流や貿易を進めることは、戦争をすることよりももっと大事なことのはずだ。安倍にはアジアの一員としての日本という視点がまったく欠けている。
リアリストと自称する国際政治の論客のなかには日本が中国と戦争するものと決めてかかっている人たちがいる。そのような人たちの文章を読むたびにげんなりしてしまう。どうして戦争するものと決めてかかるのか、よくわからない。おそらく、こんな人たちが新日中戦争をあおっているのだろう。国家間のパワーゲームだけで国際政治を読み解こうとすればそうなるのかもしれない。だが、パワーゲームだけで成り立つだけのものでもないだろうし、そうさせてはいけないだろう。国際関係もつきつめれば人間同士の関係だ。人の関係であるならば、もっといろんな要素があるはずだ。弱肉強食だけの理論を振りかざす人たちはこわいなと思う。
百歩譲ってこの世には弱肉強食の理論しかないのだとして、百歩譲って日本と中国が戦争することが避けられない道なのだとすれば、中国の矛先をよそへ変えさせることや矛先を和らげることを考えてみたらどうなのだろうか。どうして日本と中国が戦争することばかり考えるのだろう? 是が非でも中国と戦争をしたいという悪意があるとしか思えない。戦争をしてみたところでなんにもならないことがリアルにわかったのが、先の戦争ではなかったのか。
日本の軍事国家化が進むのは、二〇一二年十二月の衆議院選挙で自民党が大勝した時からわかっていた。知ってか知らずかファシストへ変質した自民党を国民が選んでしまったのだから、今更反対しても遅いのかもしれない。だが、希望はいつでも自分自身のそばにある。絶望しても意味がない。戦前のような道を歩んでいいわけがない。
「小説家になろう」サイトの小説の更新情報やなろうサイトの作家のツイートを眺めていると穏やかな日常だなと感じてやすらかで楽しい気分になれる。それぞれの作家が自分の作品に打ち込んで、それぞれが思いおもいに交流している。僕はとてもいいことだと思う。こんな平和が続いて欲しい。
かなり厳しい状況ではあるけれど、最後の最後まで戦争への道に反対し続け、あきらめないことが肝心なのだろう。そのうち風向きが変わるかもしれないから。
来年はみなさまにとって幸多き年でありますように。
ことしも読んでいただき、まことにありがとうございました。