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ひとの人生を勝手に決めてはいけませんっ!

 

 アニメちゃんが僕のアシスタントをしていた頃の話。アニメちゃんは日本語が上手な広東人の女の子だ。

「野鶴さん、大変ですぅ」

 アニメちゃんから電話があった。

「えっ、どうしたの?」

 大変と言われて僕はどきりとしてしまった。僕はてっきりまたトラブルが発生したのかと思った。中国ではごく当たり前にトラブルが起きる。大陸気質の中国人はおおらかすぎて、日本人みたいにトラブルが起きないようにしようと神経質になったりしないから。

「さっき総務の人から書類をもらいましたぁ」

「なんだ。びっくりするじゃないか。なんの書類なの?」

 トラブルじゃないとわかって僕はほっと胸をなでおろした。

「労働契約延長の意思確認書ですぅ。総務の人は今日中にサインして出してくださいって言ってますぅ。野鶴さんはいつ会社へ戻りますか?」

 労働契約更新の時期だった。今勤めているところは基本的に重大な過失がない限り契約を延長してくれる。ただ、もちろん、会社はその前に従業員にその意思を確認する。意思確認書にサインしてから契約更新手続きへ進むことになっている。

「困るなあ。今日はこれからお客さんの訪問が二件あって会社へは戻れないよ。事務所へ戻ったとしても早くて夜の七時半くらいになっちゃうよ。そんな遅い時間だったら総務の人も帰ってるだろ」

 中国ではありがちなのだけど、その日に書類が回ってきて、その日のうちに提出せよという。お尻に火がつかないと仕事をしないのが中国流だ。きっと総務の担当者は「あ、やばい、今日中に意思確認書を集めなくっちゃ」と朝気づいて、各部署へ書類を渡したのだろう。そんな大事な書類は前もって渡してくれないと困るのだけど。考える時間が欲しい人だっているだろうし。

「アニメちゃん、明日の朝、サインして渡すって総務の人に言っておいてよ」

 僕が言うと、

「でもでもぉ、総務の人は今日中に提出するようにって言ってますぅ」

 とアニメちゃんは困った声を出す。

「これからお客さんと打ち合わせだから、後でまた電話するよ」

 僕は電話を切った。

 中国の会社は総務や財務の権限がやたらと強い。アニメちゃんもそうだったけど、中国人のスタッフはみな総務や財務に対しては腰が低い。なんでも、中国流の考えでは総務や財務は会社全体を管理する部署だから地位が高いのだとか。それで同じ一般職員でも総務や財務のほうが格上になるのだそうだ。そのあたりは日本とは考え方が違う。日本でも会社によってどの部署が強いのかは様々なのだろうけど。

「どうだった? あの書類だけどさ、明日の朝でいいだろ」

 顧客訪問を終えて僕は移動の合間にアニメちゃんへ電話を掛けた。

「もう大丈夫ですぅ。野鶴さん安心してください」

 アニメちゃんは明るい声をしていた。

「わかった。ありがとう。明日の朝いちばんでサインするよ」

「サインしなくてもいいですぅ。もう意思確認書は提出しましたぁ」

「えっ? 僕はまだなにも書いていないけど。書類に目も通していないし」

「わたしが野鶴さんの代わりにサインして出しておきましたぁ」

「ええっ! あなたが僕の名前をサインしたの?!」

 僕は声が裏返りそうになった。

「そうですぅ。野鶴さんは来年もこの会社で働きま~す」

 アニメちゃんは僕の翌年の勤務先を高らかに宣言する。楽しそうだ。

「あのなあ、ひとの人生を勝手に決めるんじゃないよっ」

「でもでもぉ、総務の人は今日中に提出しなければ労働契約は延長できないと言っていましたぁ」

「僕の書類なんだから、僕が自分でサインしないとおかしいだろ」

「野鶴さんが社員じゃなくなったら困るじゃないですかぁ。わたしたちはどうすればいいんですか」

 ――やれやれ。さっきアニメちゃんが「安心してください」と言ったのは自分が安心したという意味なんだな。そりゃ、上司が代わるってなったら不安だろうけどさ。

 僕は心のなかで思った。

「僕のかわりなんていくらでもいるよ。延長できないんだったら、僕はまた放浪の旅に出るよ」

「困りますぅ。それに総務の人が、野鶴さんが事務所へ戻れないのならアニメが代わりにサインして提出しなさいって言ったんですよぉ」

「総務がそう言ったのか。まったく」

 もともとサインするつもりだったからかまわないのだけど、それにしても僕の意思を確認するくらいのことはしてくれていいだろう。勝手に延長するものと決めてかかってサインしてしまうなんてひどすぎる。それがおかしいことだと思わないのも中国流なのだけど。そもそも他人の名前をサインしたら、そんな書類は無効じゃないか。

 中国で働いてみて、日本では経験できないことをいろいろ味わった。中国人には逆立ちしても勝てない。勝てないというのは、アンコントローラブルという意味だ。今となってはいい思い出だけどさ。

 


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