日常が戻ってくれるといいな
今日は、反日運動と便乗ストライキの影響で客先の工場が稼動を停止していたから、普段は電話の話し声が飛び交って賑やかな事務所のなかも静かだった。
事務所のスタッフは制服を着ていない。会社から制服を着るなという通達が出たのだ。
なんでも、ある日系自動車メーカーの制服を着た中国人社員が暴漢に襲撃されてしまったのだとか。しかも、刺されたという噂が広がっている。それで、制服は危ないということでしばらく着用しないことになった。
広州市内でレクサスに乗っていた中国人が襲われて殺されてしまったという話も聞いた。レクサスを襲った四人が逮捕されたそうだ。ほんとうなのかどうかは知らない。たんなる噂であることを願うけど。
仕事はいつものように忙しかった。
午前中は広州の南の郊外にある事務所でずっと打ち合わせをして資料の作成と業務の手配を指示し、それから、広州郊外でデモ行進が発生しそうな場所を見てまわった。デモ隊の姿も警察の姿も見当たらず静かなものだった。
危険な兆候は見受けられなかったので、付近の日本料理屋へ入ってカツ煮定食を食べた。その店のオーナーは中国人なので、店の窓には中国の大きな国旗を掲げている。「同じ中国人なのだから襲わないでくれ」というお願いなのだろう。あるいは国旗は魔除けのかわりなのかもしれない。ただやはり、昼時なのに客はほとんどいなかった。普段なら、中国人の食事客も日本人のそれもけっこう入っている店なのだけど。
昼食の後は、車で一時間かけて広州の西の郊外にある事務所へ移動して、中国人のスタッフからお客様へ説明する資料の説明を受けた後、顧客企業を訪問して懇意にしていただいている部長さんと話をした。一通り仕事の話をした後、話題は反日運動でこうむった悪影響のことになった。
「もうかなわんわ」
と彼も参った様子だった。生産予定が狂ってしまったおかげでロスばかり発生しているという。日系は厳しい競争のなか、緻密に生産計画を組み立ててロスを防いで採算を取ろうとしている。それなのに計画が狂ってしまってはどうにもならない。
事務所に戻るとスタッフが会議をしたいという。今後の業務配分についてだ。事務方の班長と現場の班長とスタッフを集めて、今までねじれていた業務配分を見直した。現場の班長が今まで事務方ですべきことまでやっていたので(ほかにできる人がいなかったからなのだけど)、それを事務方へ移すことにした。現場の班長は仕事を抱え込みすぎていて疲れきっている。自動車産業が発展するにつれて業務も拡大するわけだけど、人材育成がまったく追いついていない。一般のスタッフは三年くらいで辞めるのが普通だ。そうなるとベテランに仕事が集まりすぎて班長といったクラスの人たちがくたくたになってしまう。仕事も回しきれなくなってしまう。これですこしは彼の負担が減るといいのだけど。
会議が終わってから外でタバコを吸っていると現場のスタッフたちが話しかけてきた。
「野鶴さん、ご飯はどうしているの?」
「ゆうべはコンビニ弁当を買って家のなかで食べたよ。やっぱり、外へ出るのは怖いから」
僕が答えると彼らはほがらかに笑った。
「でもさ、あんな島のことなんてわたしたちには関係ないよ。なんで大騒ぎするのかわからないよ」
現場のある子が言う。
「まったく困ったものだよね」
僕はそう答えながら、小さな島のことより自分の生活のことのほうが心配だよなと思った。現場で真面目に働いているような人たちの生活がもっとよくなればいいのだけど。そうすれば、ためこんだ不満を反日運動のような形で吐き出す人も減るのだろう。
早く帰りたいところだけど、まだまだ仕事が残っている。一時間ばかり報告書や資料を作ってようやく事務所を出ることができた。
こんなふうに少しずつ日常が戻ってくれるといいな。