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日本人は行儀いいとよく言われるけれど

 先日、今住んでいるおんぼろマンションの一階でエレベーターを待っていたら、ちょっと面白いことに出くわした。

 急いでいたのだけど、あいにく、エレベーターは二〇階くらいの高さでとまったままなかなか下りてこない。もう一基のほうはさっき昇っていったばかりようで、階数の表示がぐんぐん上がっている。いささかじれながら待っていたら、ようやくエレベーターが下りてきてドアが開いた。

 なかに乗っていた女の子の二人連れは、一階についたのかどうか途惑った様子で不思議そうにあたりを見まわす。

「一階なの?」

 と僕に尋ねるので、そうだよと答えた。エレベーターのなかでお喋りに興じていて、あっという間についたように感じたのだろうか。二人は納得のいかない顔をしながらもゆっくり出てきた。僕は彼女らが外へ出るのを待ってなかへ入った。

 同じマンションの中年夫婦もいっしょにエレベーターを待っていたのだけど、エレベーターに乗ったとたん、おばちゃんが、

「あんたはほんとに行儀がいいわね(你真的懂礼貌啊)」

 と感心したようにため息をつく。

「なんのこと?(什么意思?)」

 僕は聞き返した。

「さっき、なかから人が出てくるまで待っていたでしょう(刚才,你等他们出来,他们出来以后,你才上电梯)」

「そうだけど(是啊)」

「よく一階についてドアが開いたらすぐに人が入ってくるんだけど、あれは困るわ(电梯达到一楼开门的时候,人家经常马上进来,好为难啊)」

 おばちゃんは「アイヨー」とまたため息をつき、やれやれと首を振る。

 最近はずいぶんましになってきたけど、漢民族はあまりマナーを守らない。行列を作らずに窓口へわっと群がったり、行列があったとしても平気で割りこんだりする。人とすれ違っても、お互いに半歩道を譲るというようなこともあまりしない。

 その点、日本人は比較的マナーを守る。それだものだから、時々、日本人からしてみればなにげないことで「行儀がいいね」と中国人に言われたりするし、もっと大袈裟に「日本人は文明的だ」などと褒められることもある。中国人は行儀よくすることを「文明的な行為」としてとらえているようだ。

 日本人は子供の頃から「行儀よくしなさい」と繰り返し躾けられる。学校でもそう教えられるし、世間でも無作法をとがめる風潮が強いので、自然と行儀には敏感になる。あるいは、過敏になるといってもいいかもしれない。

 中国人の親を見ていると、子供をあまり躾けない。それでいて、「うちの子は行儀が悪い。甘やかしすぎた」などと言って嘆いたりする。とりわけ、八十年代以降に生まれた一人っ子世代は「小皇帝」なとど呼ばれ、家のなかで猫かわいがりされて育ったから、けっこうわがままな人も多い。もっとも、いつの時代でも若者は上の世代からなっていないと言われるものだ。古代バニロニアの楔形文字の碑文にも最近の若者はけしからんと書いてあるそうだけど、そんなに昔から若者の劣化が繰り返されているのなら、人類はとっくに滅亡している。一人っ子世代には上の世代にはない長所があるし、バスや地下鉄のなかで老人に席を譲る彼らの姿をよく見かける。それを目撃した日本人はたいていびっくりしてしまう。留学していた頃、日本の大学の先生が同じ学校に通っていたのだけど、彼は五十代半ばで白髪が目立っていた。バスに乗るたびに教え子くらいの若者に席を譲られるものだから、気恥ずかしくなって髪を染めてしまった。無作法な大人だって結構多いから、「小皇帝」などという呼び方はあまりにも一方的な批判かもしれない。

 話を元へ戻すと、「自分たちはあまり行儀よくない」、つまりがさつだという認識は、中国人の間でもわりあい共有されているようだ。日本では考えられないようなすさまじい動乱の時代を何度も繰り返した中国では、行儀よくすることよりもまず生き残ることが優先されたのだろう。行儀よくなどしていてはサバイバルできない。彼らが自らを無作法だと嘆きつつも、改善しようする努力をほとんど見せないのは、そんな歴史的な背景があるのではないかと思っている。

 ただし、行儀よくしたり、マナーを守ることは絶対的に正しいことではない。

 日本人は過剰なほど行儀に気を遣う民族のでそれを至高のものと思いこみがちだけど、それは考えものだ。

 たとえば、行列にきちんと並ぶということは、そこに秩序を生み出し、お互いに利益を得るということだ。行列がなければ混乱状態になる。そうなると、いつ自分の順番が回ってくるのかわからないし、腕力のない者は自分の番にありつけるかどうかさえわからない。窓口で切符を買うこともできなければ、満員電車に乗ることもできなくなる。行列を作ることで、自分の順番が明確になり、並んでさえいえばいつか自分の番が回ってくることが保証される。自分の順番にありつけるかどうかもわからない不安感を抱えているよりもよほど快適だ。

 交通マナーにしても同じだろう。

 信号を守らなければ自分の身が危ない。誰でも交通事故に巻きこまれるのは御免だし、車やバイクを運転していて人を轢いたりしたら大事おおごとだ。皆それをわかっているから信号を守る。これも、秩序を生み出すことで利益を得たり自分を守ったりするためだ。

 行儀やマナーはいってみれば、たんなる処世術にすぎない。

 僕がエレベーターで彼女たちが降りるまで待っていたのも、そうして「エレベーターを乗りやすくする」という自分の利益を引き出すためにほかならない。

 中国人にしろ、日本人にしろ、表面上は行儀よく振舞っていても、物欲しそうないやらしい笑顔を浮かべている人はいくらでもいるし、自分の期待が裏切られたとすこしでも感じると掌を返したように横暴になる人もいくらでもいる。これは自分にとって利益になることを相手から引き出せなかったため、自分の利益や快適さを得るための振る舞いをやめただけのことだ。骨がほしくて尻尾を振って擦り寄ったのに、もらえなかったから不貞腐れたのと同じこと。

 こう考えてみれば、中国人の無作法さというものは、行儀よくするという行為は自分の利益や快適さを得るための最適な選択ではないので、今まであまり重視してこなかったということになるのではないだろうか。

 もちろん、行儀やマナーなど守らなくていいといっているわけではない。それを守ることは社会生活を営むうえで大切なことだけど、それよりももっと大切なことがある。

 他人の無作法をとがめる人の心に、はたしてどれだけのやさしさがこもっているのだろう? 周囲が混乱してしまっては自分の利益が引き出せなくなるから困ると、自分の欲得を守るためだけに相手をとがめるケースが多いのではないだろうか。もちろん、僕自身を含めて。

 問われるべきなのは、行儀作法を守ることよりも、むしろ、愛ややさしさだと思う。肝心なのは、行儀のなかに人を思いやる気持ちが入っているかどうかだろう。処世術にすぎないモラルを最高のものだと考えては、つまらない人生を送ってしまうことになる。やさしさのこもった行儀作法は世界をあたたかいものにするけど、自分の利益を守るためだけの行儀作法はこの世界をぎすぎすしたものに変えてしまうから。とはいうものの、愛とやさしさだけで生きていかれないのも、また事実なのだけれど。

 エレベーターを降りてから、こんなことをふと考えた。


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