夜の静けさと、遠い家の名前
昼の営業が落ち着いたころ、店の扉が軽く叩かれた。
振り返ると、配達の少年が立っている。
手には、見覚えのある封筒が一通。
「リラさん宛てです」
「ありがとう」
受け取って差出人を見る。
――マーガレット。
思わず首を傾げた。
この前、手紙が届いたばかりだ。
「また?」
小さく呟く。
けれど、今は営業中だ。封を切る余裕はない。
私は封筒を机の端に置き、そのまま仕事に戻った。
それからは、いつも通りの一日だった。パンを焼き、客に渡し、店を片付ける。
慣れた作業を繰り返しながらも、意識のどこかにあの封筒が引っかかり続けている。
夕方が過ぎ、夜になるころには通りの人影もまばらになっていた。
扉を閉め、看板を裏返す。
今日の営業は終わり。
「今日も疲れたね」
「きゅうぅ」
そのあと、簡単に夕食を取り、風呂に入る。
温かい湯に肩まで浸かると、ようやく体の力が抜けた。
一日の終わりの、静かな時間。
湯から上がり、髪を拭きながら部屋へ戻ると、机の上に封筒が置かれていた。
深い藍色。厚みのある紙。封蝋には、見慣れた商会の紋章。
「あ、そういえば」
思い出したように声が出る。昼に届いた手紙だった。
椅子に腰を下ろし、封筒を手に取る。
指先に、わずかな硬さが伝わった。
この前の手紙では、ずいぶん驚かされたけれど、今回はきっと違う。
もう、あれ以上のことはないだろう。
そんな気軽な気持ちで、封を切る。
紙の擦れる音が、静かな部屋にかすかに響いた。
横では、オモチが丸くなっている。
小さな前足で顔をこすり、丁寧に毛づくろいをしていたが、
「きゅ」
短く鳴いて、こちらをちらりと見ると、また何事もないように毛を整え始めた。
窓の外は、すっかり夜だ。街の音も、ほとんど聞こえない。
私は手紙を開き、ゆっくりと最初の一行を読む。
紙には、丁寧な文字が並び、端には小さな花の模様が添えられている。
マーガレットらしい、整った筆跡だった。
私は椅子に座り直し、そのまま静かに読み進めていく。
――――――――――
リラへ
お返事をありがとう。
あなたから手紙が届いて、とても嬉しかったわ。
正直に言うと、返事をもらえるとは思っていなかったの。
だから、返事を本当にありがとう。
あれから、私はセオドアとよく話をするようになったわ。
今まで、彼は仕事のことばかりで、私の気持ちは彼に届いていなかったのだと嫌というほど理解した。
でも、あなたの手紙を読んでから、少しずつ、色々なことを話すようになったの。
私たちのことも。あなたのことも。
セオドアは、あなたのことを今でも随分心配しているわ。
でも、貴方との付き合いが決して深くない私でも、セオドアの心配が的外れだと感じる。
正直、私は貴方に随分嫉妬をしたけれど、今思えばあの人は一体どこを見ているのかしらと思ってしまうわ。
とにかく、あなたが元気で暮らしていると知って、本当に安心した。
ところで。
あなたがどこの誰かは、はっきりとは知らないけれど、少し気になる話を聞いたので書いておくわね。
隣国のキャンベル家が、没落したそうよ。
――――――――――
そこまで読んだところで、私は手紙から目を離した。
キャンベル家。――それは、私の生まれた家の名前だった。
胸の奥で、何かがひとつ、静かに落ちた気がする。
紙を持つ指が、わずかに止まる。
横では、オモチが相変わらず毛づくろいをしていた。小さな舌で前足を舐め、耳の後ろを丁寧に整えている。
「きゅ」
短く鳴いて、こちらをちらりと見る。
私の視線に気づいたのか、オモチはぴょんと軽く跳ねて肩に登り、頬に体を擦りつけてきた。
やわらかな毛の感触が、じんわりと伝わる。
私はその背に手を置き、ゆっくりと一度、深呼吸をした。
部屋は静かだった。窓の外では、夜の街の音がかすかに聞こえる。
胸の奥に落ちたものは、そのまま残っている。
それでも。
私はもう一度、手紙へ視線を落とした。
続きを、読まなければならない。
――――――――――
理由は、侯爵家の者と共謀して犯罪を犯していたから。
横領や違法賭博、それから、人をオークションにかけるようなことまでしていたと聞いているわ。
その一件が表に出て、大きな騒ぎになったそうよ。
キャンベル家の当主と夫人も、その件に関わっていたらしいけれど、世間では「知らないうちに利用されていた」という扱いになっているみたい。
娘を探すために侯爵家の力を借り、その流れで犯罪の片棒を担がされた、と。
誘拐された娘を探してくれると言われて、協力していたのだそうよ。
……本当のところは、私にはわからないけれど。
侯爵家の者は、すべて監獄行き。
キャンベル家は酌量の余地があるとされ、平民に落とされたあと、国の管理する施設で働くことになったらしいわ。
――――――――――
私は、ゆっくりと手紙を膝の上に置いた。
そっと引き出しを開け、小さなケースを取り出す。
中に収まっていたのは、深い赤のリボン飾りのついた髪留め。金糸の縁取りに、葉の形の金具。
それに指を這わせる。
なめらかな感触が、やけに指先に残った。
部屋の静けさが、さっきより少しだけ重い。
「きゅ」
オモチが、小さく鳴く。
今度は、さっきよりも近い距離で、顔を覗き込むようにして、じっとこちらを見ている。
私は視線を落とした。
キャンベル家。
――それは、私が生まれ育った家の名前だった。
手紙に落としていた視線が、いつの間にか遠くへ向いている。
記憶が、ゆっくりと遡っていく。
九歳までの生活。
広い屋敷。磨き上げられた廊下。朝になると開く重いカーテン。
優しい両親。
忙しい人たちだったけれど、顔を合わせれば、必ず笑ってくれた。
面倒を見てくれる侍女たち。
転んで膝を擦りむけば、すぐに駆け寄ってくる。お茶の時間には、お菓子をこっそり多めにくれたりもした。
穏やかな日々。
あの頃は、疑いもしなかった。
このまま大きくなって、両親に愛されながら生きていくのだと。
ずっと、そう思っていた。
でも――
九歳の、ある日。
両親は私に言った。
「婚約者が決まった」
その言葉は、ひどく穏やかな声だった。
あの日から。
すべてが、変わり始めた。




