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冒険者の街で、今日もパンを焼いています 〜小さな魔獣との静かな暮らし〜  作者: 白波 いつき


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夏の終わりと、オレンジの香り

 風が、少しだけ涼しくなってきたころだった。

 夏の終わりの気配が、街にゆっくりと漂い始めていた。

 窓から入り込む風は、ほんの少しだけ涼しい。


 昼前の仕込みは、思ったより早く終わった。

 朝のうちに寝かせておいたパン生地はすでに成形を終え、今はオーブンの中で静かに焼き上がりを待っている。


 珍しく、時間に余裕ができた。


 私は作業台に腰を落ち着け、オモチと並んでオレンジの皮をむいていた。

 市場で手に入れた、今年最後のオレンジだ。


 橙色の皮を剥くと、爽やかな香りがふわりと立ちのぼる。

 甘さの奥に、ほんの少しだけ酸味を含んだ、夏の名残の匂い。


 マーマレード用と、オレンジデニッシュ用に果実を分けていく。


 マーマレード用は皮を細く刻み、果肉と一緒にゆっくり煮詰めれば、しばらくの間パンに添えるジャムになる。

 包丁を入れるたび、柑橘の香りが店の中に広がった。


 その隣で、オモチが真剣な顔でオレンジを抱え込んでいる。


「きゅ」


 小さな前足で皮をつつき、ころころ転がして遊んでいた。


 そのとき、店の扉が開く。

 小さく鳴った鈴の音とともに、朝の空気が流れ込んだ。


「おはよう」


 聞き慣れた声だ。


「おはようございます」


 振り向くと、トヨが食パンの籠を抱えて立っていた。

 店の中をきょろりと見渡し、オレンジを見つけて顔をほころばせる。


「ずいぶん爽やかなにおいがすると思ったら、オレンジかい」


 トヨが店の中へ一歩入るなり、そう言って笑った。

 籠を抱えたまま、くん、と空気を嗅ぐように鼻を動かす。


「はい。今年最後のオレンジだそうで、市場で比較的お手頃だったんです。ジャムにしようと思って」


 手元の果実を持ち上げると、トヨは「ほぉ」と感心したように声を漏らした。


「いい匂いねぇ」


 目を細め、店の中に漂う香りをゆっくり味わうように息を吸う。


 柑橘の爽やかな香りと、オーブンの奥で焼き上がりつつあるパンの甘い匂い。

 その二つが混ざり合い、店の中はどこかやわらかな空気に包まれていた。


「この匂いだけで、なんだか癒やされるわ」


「わかります」


 私も思わず笑う。


「最近、オレンジの香りの石鹸とか出てますよね。あれ、つい買っちゃいました」


「ああ、あるある」


 トヨが大きく頷く。


「柑橘の匂いって、なんであんなに惹かれるんだろうねぇ。つい手が伸びるのよ」


「ですよね」


 他愛ない会話に、店の空気がゆるくほどけていく。

 そのとき、トヨがふと思い出したように言った。


「そういえば、今年は辺境の栗が豊作らしいね」


「栗ですか?」


 思わず手が止まる。

 オレンジの皮をむいていた指先に、ほのかな柑橘の香りが残っていた。


「えぇ、なんて言ったかしら。隣国との境の――」


「ラトリアですか?」


「ああ、そうそう。それよ」


 トヨは嬉しそうに頷いた。


 ラトリア。

 隣国との境にある流通の街だ。


 隣国から入ってくるスパイスや食料品が安く手に入ることで知られていて、商人や冒険者もよく立ち寄る場所でもある。


 そしてもうひとつ。


 栗の産地としても有名な街だ。


 フォルネアは雨量が多いせいか、栗はほとんど実らない。

 その代わりキノコは豊富に採れるけれど、栗はどうしても手に入りにくい。


 だからこそ、余計に魅力的に思えてしまう。

 トヨはパンの籠を抱え直しながら続けた。


「今年は夏が比較的涼しかったからかねぇ。ずいぶん豊作らしいよ」


「へぇ……」


 思わず声が漏れる。


「近かったら買いに行くんだけどねぇ」


 トヨは肩をすくめる。


「あそこは隣国から入ってくるスパイスも有名だろ? 一度行ってみたいとは思ってるんだけど」


 そう言って、豪快に笑った。


「まぁ、護衛を雇っての旅なんて、私には無理だけどね」


 ラトリア。


 フォルネアからだと、徒歩で一週間ほどはかかる距離だ。

 馬を借りたとしても、三、四日はかかるだろう。


 普通の人にとっては、気軽にふらりと行ける場所ではない。


「でもいいよねぇ、栗」


 トヨはそう言いながら、食パンを籠へと入れていく。


「秋になると、どうしても食べたくなるのよ」


「わかります」


 私も思わず、強く頷く。


「さて、今日も頑張って働こうかね。じゃあ、また明日もよろしくね」


 トヨはそう言ってパンの籠を抱え直し、店を出ていった。


 豪快な笑い声が、通りのざわめきの中へ溶けていく。

 店の中に残ったのは、オレンジの香りと、静かな朝の空気だけだった。


 私は包丁を置き、ふう、と小さく息をつく。


 ……栗。


 その言葉が、頭の中でくるくると回り始める。


 栗のデニッシュ。

 栗パン。

 マロンクリーム。

 モンブラン。


 作りたい。


 想像するだけで、胸の奥がそわそわしてくる。


 甘く煮た栗を、たっぷり生地に混ぜ込んだパン。

 サクサクのデニッシュの中に、栗のクリームを絞るのもいい。


 考えれば考えるほど、作りたいものが増えていく。


 でも。


 ラトリアは遠いよね。

 馬を借りて行ったとしても、その間、店を閉めることになる。


「うーん……」


 小さく唸りながら、店の棚へ視線を向ける。


 ここを、何日も閉めるのは少し怖い。

 でも。


 ラトリア。


 あの街は、少し特別だ。


 二つの国の文化が交わる街。

 スパイスや調味料が豊富で、食べ物も美味しいと聞く。


 冒険者や商人が行き交う、にぎやかな場所。


 ……通り過ぎたことしかない街。


 一度くらい、ゆっくり見てみたい。

 そんなことを考えていると、足元でオモチが小さく鳴いた。


「きゅ」


 見上げてくる丸い目。


 私は思わず苦笑する。


「……栗、食べたいよね」


 オモチは同意するかのように、小さく尻尾を揺らした。


 私は肩をすくめ、作業台の上を軽く片付ける。

 考えても仕方ない。

 ひとまず、店を開けよう。


 扉を開けると、外の空気がふわりと流れ込んできた。

 少しだけ涼しい風。

 夏が、ゆっくり終わりに近づいている。


 昼頃。


 店の扉が開き、見慣れた二人が入ってきた。


 ユリウスとダルクだ。

 ちょうど昼のパンを棚に並べ終えたところで、私は顔を上げる。


「いらっしゃいませ」


 声をかけると、ダルクがこちらを見て眉を上げた。


「なんだその顔」


「え?」


「考え事してただろ」


 思わず瞬きをすると、隣でユリウスが静かに笑いながら言った。


「眉間にしわ寄ってる」


 そんなにわかりやすかっただろうか。

 私は少しだけ苦笑しつつ、口を開いた。

 どうせなら、聞いてしまおう。


「お二人って、ラトリアに行ったことあります?」


 そう言うと、ダルクが一瞬ぽかんとしたあと、声を上げて笑った。


「ラトリア? ちょうどその話が出てたところだ」


「その話?」


 私が首を傾げると、ダルクは棚からパンを取りつつ言った。


「実はな、一ヶ月後にラトリア行きの護衛依頼が入ってる」


「そうなんですか?」


 思わず声が弾む。


 ダルクは頷いた。


「あぁ、道中の護衛だ。到着したら、帰りの護衛までは休みだから、向こうのメシでも楽しもうかって話してたんだよ」


「ラトリアって、やっぱり食べ物おいしいんですか?」


 するとダルクの顔が、にやりと笑う。


「あの辺は川魚がうまいんだよ。アユの塩焼き。あれが絶品でな」


 その言葉に、ユリウスも頷いた。


「ほかにも、川海老を使った料理も有名らしいよ」


 二人の言葉に、思わず喉が鳴る。


「あと、柚子を使った酒があってさ。あれもいい」


 ダルクはすっかり食べ物の話になっていた。

 隣でユリウスが、少し笑いながら言う。


「まぁ、本来は護衛が目的なんだけど、いつの間にかダルクの中では、食べ物のほうが楽しみになってるらしい」


「しょうがねぇだろ!」


 ダルクは肩をすくめる。


「あれだけ商人たちが美味い美味い言うんだから」


「そんなに……」


 商人たちが絶賛するなら、外れは少なさそうだ。


 栗だけではない。

 川魚に、川海老。

 それに柚子の酒。


 頭の中で、料理の景色が次々に浮かんでいく。

 気づけば、胸の奥が少しだけそわそわしていた。


 ――ラトリア。


 行ってみたい、という気持ちが、静かに膨らんでいく。


 ユリウスは少し考えるように言った。


「水がいいらしくて、ハーブもよく育つそうだよ。リラも興味ありそうだ」


「肉料理も凝ったものが多いって聞いたな」


 ハーブの効いた肉料理。


 想像するだけで、なんだかお腹が空いてくる。


 そのとき。


「きゅ……」


 横を見ると、オモチが作業台の上でよだれを垂らしていた。

 私は思わず笑いつつも、想像してしまう。


 栗。

 川魚。

 スパイス。

 香りの強いハーブ。


 頭の中で、料理の景色がどんどん膨らんでいく。


 その顔を見て、ダルクがにやりと笑った。


「なんだ、行きたそうな顔してるな」


「……そんな顔してます?」


「してるしてる」


 ダルクは楽しそうに肩を揺らす。

 ユリウスも小さく笑った。


「何か欲しいものがあるなら、買ってこようか?」


 ユリウスはそう言った。

 軽い口調だったけれど、どこか気遣うような響きがあった。


 リラは少し悩んだ。


 店を閉める問題。

 それが一番大きい。


 数日ならともかく、往復すればかなりの日数になる。

 常連もいるし、仕入れの流れもある。


 簡単には決められない。


 でも。


 ――行きたいなぁ。


 頭の中に浮かぶのは、やっぱり栗だった。


 私は少し考えてから言った。


「ちょっと考えさせてください」


 ユリウスは急かす様子もなく、静かに頷く。


「出発は二週間後の水の日だ。それまでゆっくり考えてみて」


 その言い方は、無理に誘っているというより、ただ選択肢を置いてくれているようだった。


 二人は棚からパンをいくつか籠に入れ、代金を置く。


「じゃあな」


「また来るね」


 扉が閉まり、店の中はまた静かになった。

 外からは通りのざわめきだけが聞こえてくる。

 窓を開けると、少し涼しい風が入ってきた。


 夏は、もう終わりらしい。


 もしラトリアに行けたら。


 栗パンだけでなく、ハーブを使った新しいパンも作れるかもしれない。

 香りの強いハーブを刻み込んだ生地や、肉料理に合うパンも面白そうだ。


 そんなことを考えていると、少しだけ胸が弾む。


 私は想像しながら、小さく笑った。

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