あの日の貴方へ尊敬を込めて
昼下がりの喫茶店は、窓から差し込む陽射しがやわらかくテーブルを照らしていた。
カップに注がれた氷入りの珈琲が、少しずつ水滴を落としていく。
その向かいに腰かけた常連の男性は、いつものようにゆっくりと語りはじめた。
若い頃の夢について。
自分の歩んできた進路について。
そして、大切な人を失った日のことについて。
話題は何度も巡り、同じ言葉が繰り返される。
数えてみれば、三度目の夢の話、二度目の挫折の記憶、そして何度目かの喪失の語り。
しかし彼は、いつも同じように笑みを浮かべながら話すのだ。
まるで初めて口にするかのように、楽しそうに。
不思議だった。
痛みや後悔を思い出すはずの言葉なのに、彼の表情はむしろやわらかく、どこか幸せそうですらある。
特に伴侶のことを口にするときには、目尻に細かな皺を寄せ、声に温かみが増す。
失った日から何もかも崩れ落ちてしまったと語りながら、彼はその出来事すら笑い話に変えてしまう。
そこには強がりも、無理に作った明るさもなく、ただ自然な微笑みがあった。
その姿を見ていると、胸の奥が静かにざわめいた。
きっと彼は、深く深く傷ついたはずだ。
夜ごと眠れず、胸を締めつけられるような思いを幾度もしたに違いない。
けれど今の彼は、痛みを抱えたまま、それを自分の一部として生きているように見える。
苦しみを消したわけではなく、抱えながらも笑って語ることができる。
その強さと柔らかさに、ただ圧倒されてしまう。
僕も、いつかあのようになれるのだろうか。
大切な人を思い出すとき、涙より先に微笑みが浮かぶような日が来るのだろうか。
喪失の重さに押し潰されるのではなく、その人と過ごした時間を宝物のように口にできるのだろうか。
今はまだ痛みの方が濃く、記憶のひとつひとつが棘のように心を刺す。
だが、彼のように語れる未来があるなら、僕もそこへ辿りつきたいと願わずにはいられなかった。
氷の溶けた珈琲を口に運びながら、僕は彼の笑顔を見つめ続けた。
同じ話を繰り返す声が、店内の静けさに穏やかに溶けていく。
その響きは、ただの言葉ではなく、生きてきた証のように重なり合い、僕の心に残っていった。