愛しい思い出
「よしっ、今日も頑張るぞ!」
僕は作業台に絹をひろげ、針に糸を通した。
赤い布には毎日の作業の甲斐あって、花舞う空に翼を広げる鳳凰と、水辺に休む玄武の姿が、少しずつ形をなしてきている。――先生たちと何度も相談して決めた、大切な図案。
鳳凰は繁栄を願う瑞兆、玄武は玄家の守り神――僕と辰さんの未来を守ってくれるような刺繍にしたかったんだ。
「――わが身に宿る四呪の力よ、わが身を巡れ」
小さく息を吸い込み、全身の呪力を右手の指先に集中する。指先が白く輝いて、針先に光がともる。キィィ……と空気を掻くような音が響いた。
四呪――術者の身に宿る「風火水土」の呪力を合一した、治癒の光。術者が呪力をこめた糸で刺繍をすると、魔を退ける霊符になる。
僕は、花嫁衣装は四呪で刺繍をしようって決めてた。
だってね、四呪には人を癒す力があるから。僕と辰さんの未来になにがあっても、癒してくれますようにって……願いをこめたかったんだ。
「ふふ……カメさん、うんと優しい顔になってね」
光る針をひらめかせれば、四呪を宿した糸が真珠色に輝く。一途に想いを込めて、布に針を入れていると、
「いつもながら、素晴らしい力でございますね」
側に控えていた侍女の梅が、吐息を零す。僕は、ちょっとはにかんでしまう。梅は、お姉様がつけてくれたねえやで、僕が何かするといつも褒めてくれるんだよ。
「ありがとうね。僕はお姉様やお兄様と違って、戦いはからっきしだから……霊符の刺繍だけでも、きちんとできなくちゃ!」
玄家は当代一の術者の家系。お兄様もお姉様も、剣を持てば一騎当千って言われてて。魔物が出ても、ずばずばーってやっつけちゃうんだよ。
ぼくは、戦いは全然だめなんだけど。そのぶん、霊符づくりは好きで良かったなぁって思ってるんだ! お兄様やお姉様……辰さん達を守れるなら、こんなに嬉しいことはないもの。
――そのうえ、辰さんのために、花嫁衣裳を縫えるなんて……ほんとうに幸せだ。
愛しい人を思い、一心に針を動かしていると、少し汗ばんできた。気を利かせて、梅がそっと窓を開けてくれる。――ふわりと花の香りの風が吹き込んできた。
――この花の香り……懐かしいな。甘くて、心がソワソワする……
思い出すのは、辰さんと初めて出会った日。桃の花が咲き乱れる、春のことだった……
玄家の庭園には、桃の花が咲き乱れていた。
その春、新しく入って来た家臣たちが、石畳の上にずらりと跪いていて。武人志望の少年たちのなかに、辰さんはいた。
――わあ……あの人の髪。なんてきれいなんだろう……
まだ五つだった僕は、お姉様の裳にひっついて目をぱちぱちした。辰さんの鉄色の髪――この国では珍しい異国の色彩に、桃の花びらがふりかかって。ねえやの梅が読んでくれる絵本の精霊みたいだった。
きれいだな。あの人、どんな人なんだろ。
僕はずっとソワソワしてて、お姉様に「シッ」て何度も窘められたっけ。
「次、そこの鉄色の――お前の名は」
ついに、お父様が辰さんに話しかけた。
辰さんが顔を上げて、鉄色の長い前髪がふわりと舞い、意志の強い瞳が見えた。
「辰と申します。玄家に身命を賭してお仕えします」
――凛とした声。他の人とほとんど同じ言葉だったのに、僕は胸がずきんって打ちぬかれたみたいだったんだ。
辰さんが武人の見習いとして、お兄様に仕えることになって、どれほど嬉しかったか――
「辰さん、辰さん」
少しでも目に留まりたくて、辰さんの後をついて回った。彼が鍛錬をするときも、見習のお仕事で掃除をするときも……姿を見ると、まとわりつかずにいられなくて。
「羅華様。本日のお勉強は、もう済んだのですか?」
辰さんは、いつも困った顔をしていたけれど……それでも、すごく優しかった。
何をしていても、目線を合わせて話を聞いてくれたんだ。
「はいっ。それでね、辰さんとお菓子、はんぶんこしたくて……」
お勉強のご褒美にねえやが出してくれたお菓子を差し出す。
桃花の砂糖漬を閉じ込めた、ほかほかのお饅頭。大好きなものを、辰さんと分け合いたかった。――夫婦はそういうものだって、お姉様にきいていたから。
辰さんは「私が強奪したみたいですね」と笑いながら、はんぶんこしてくれた。
「ありがとうございます、羅華様」
緑がかった瞳にほほ笑まれると、天にも昇る気持ち。でも、優しくてかっこいい辰さんは、御屋敷の使用人たちにも凄く慕われていた。綺麗な侍女に文や贈り物を貰ってるのを、何度見たことか。
僕も、幼いながら対抗して……文を書いたり、習ったばかりの刺繍でお守りを渡したりしたっけ。
「私がいただいて良いんですか?」
「うんっ……辰さん、おまもりかけてあげる!」
両腕を伸ばすと、辰さんはやっぱり困った顔で抱き上げてくれて……僕はどきどきしながら、一生懸命に作ったお守りを首にかけた。――辰さんを守ってくれるようにと願をかけた桃花の刺繍が、藍色の衣の胸元で揺れていた。今から思うと、とんでもなく拙いんだけど……辰さんは「上手ですね」って言ってくれたんだよね。
「大好きな辰さんを守ってね」
お守りに額を当て、願をかけた。お兄様に武人は危険な目に遭うんだって聞いていて、不安だったから。うんうん唸る僕に、辰さんは目を丸くして驚いていたと思う。それから……何かおかしかったのか、大笑いしてた。
いまだに何だったのか、わかんないんだけどね。初めてみる、好きな人の晴れやかな笑みだけが、あざやかに胸に焼きついていて――
「……あっ」
ぼくは、針を持つ手が止まっていたと気付き、慌てて再開する。辰さんのことを思っていたら、時間がとぶように過ぎてしまう。記憶の中の笑顔を反芻し、頬が熱った。
――……子ども扱い、だったなあ。振り向いてもらえないかもって思ってたのに……いまは、ふたりの花嫁衣裳を縫ってるなんて……!
鳳凰の刺繍を撫で、うっとりと息を吐く。
すると、視界の隅にそっと茶器が差し出される。――休憩のお茶を梅が持って来てくれたんだ。そう思って、
「ありがと……」
顔を上げた僕は、「あっ」と叫んだ。
「辰さん! 来てくれたの」
作業台の脇に置いた椅子に、辰さんが座っていた。頬杖をついて、緑の目が楽し気にこっちを眺めている。
「はい、ずっと見てましたよ」
「ずっと……!?」
「ええ。ずいぶん前から、梅と入れ替わっていたんですが……気づきませんでしたか?」
からかうように囁かれ、僕はぎょっと目を見ひらいた。
――えーっ、うそ! 辰さんのこと考えてたの、見られてた……?!
きっと、すごくデレデレしてたに違いないのに。狼狽しながら辰さんを見れば、にやにや……って表現するにふさわしい笑みが!
ぶわ、と頬が熱くなる。
「辰さんの意地悪っ」
照れ隠しにそっぽを向くと、辰さんはくすりと笑う。
「すみません。あなたにこっちを見てほしくて」
「……えっ!」
勢いよく振り返れば、優しい瞳とかちあった。
ドクン、と鼓動が跳ねる。