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遥かなるサイレン

作者: 冬野 暉

 父は海を嫌っていました。

 いいえ――いま思えば、海に近づくことをおそれていました。

 テレビや写真で目にすることも、ラジオから聞こえてきた波音にすら怯えていました。

 父の郷里は、北のほうの鄙びた港町でした。冬になると空には鉛色の雲が重く垂れこめ、黒々とした荒波がうねる海から硝子片のような雪風が吹きつけるそうです。

 というのも、わたしはその港町をを訪ねたことはなく、父は郷里についてほとんど語ろうとはしませんでした。

 母はわたしを産み落として間もなく儚くなり、父は男手ひとつで娘のわたしを育てなければなりませんでした。普通でしたら郷里に帰って祖父母の力を借りようと考えそうなものですが、どうしてか父は郷里から遠く離れた、青墨色の山並みと田畑(でんぱた)が広がる地方都市でひっそりと息を潜めるようにわたしを抱えて暮らしていました。

 わたしがはじめて『海』というものを知ったのは、四歳か五歳のときです。

 父が仕事へ行っているあいだ預けられていた保育園で、先生が読み聞かせてくれた絵本がきっかけでした。海で母くじらと暮らしている子どものくじらが色とりどりの風船を飲みこみ、飛行船のように空を飛んでいってしまう――という話でした。 

 絵本の中に描かれている海は朝日を浴びて玉子焼きのような黄金色に輝き、くじらの親子がのびのびと泳ぐ、明るくやさしい世界に見えました。遠い町まで飛んでいった子どものくじらは紆余曲折を経て母くじらの待つ海へと無事に帰り着くのですか、その結末は幼いわたしの胸を無性に掻き立てたのです。

 懐かしい海という言葉を耳にした瞬間、わたしは自分の心を揺さぶる感情が懐かしさというのだと知りました。色も匂いも知らない、想像すらつかない海がたまらなく懐かしくて仕方ありませんでした。

 その日の帰り道、わたしは父に嬉々として絵本の感想を伝えました。母がいないぶん寂しい思いをさせているという引け目があったのか父はわたしに甘かったので、気に入ったと言えば絵本を買ってもらえるだろうと踏んでいたのです。

 しかし、父の反応は予想とはまったく違っていました。

「だめだ」

 父の声とは思えないような、固く冷えきった口調でした。

 街灯の下で立ち止まった父の顔は怒りと恐怖に強張り、見開いた両目がぎろりとわたしを睨んでいました。

「そんな絵本は読むんじゃない。海はとてもおそろしいところなんだ」

「でも、くじらのおかあさんがまってる、くじらのボンちゃんのおうちなんだよ……」

 父の形相にわたしの心は空気が抜けた風船のように萎み、ショックのあまり涙がこぼれ落ちました。

 われに返った様子で、父は膝を折ってわたしを強く抱きしめました。

「ごめん、ごめんな。鮎佳(あゆか)に怒っているわけじゃないんだ。でも、どうか頼むから、海のことは忘れてくれ。代わりに違う絵本を買ってあげるから……」

「どうしてぇ?」

 しゃくり上げながら尋ねると、父はカッターの刃を飲みこむような顔で目を閉じました。

「海に近づいたら――見つかってしまう」

「だれに?」

「……忌まわしい、海の魔性に」

 薄く開いたまぶたの下、父の()はゾッとするほど暗く虚ろでした。

 あまりの異様さに涙が引っこんだわたしは、ぎゅっと父の首にしがみつきました。

「みつかったら、おとうさん、どっかいっちゃうの?」

「それは……」

「そんなのやだ! くじらのボンちゃんのえほん、いらない! ほかのえほんでいい!」

 父は細く息を吐きだすと、わたしの体を掻き抱きました。

「我慢させてごめん。絶対に鮎佳は守るから……母さんのぶんまで、おまえだけは――」

 それから数年間、小学校に上がるまでは平穏な日々が続きました。

 七歳の誕生日を過ぎたころから、わたしを見る父の目が変わりました。

 不意にぎょっとしたり、ときどき幽霊に遭遇したような表情で青ざめたりするようになったのです。

「嘘だ……どうして……実の子どもじゃないのに……どうして日に日に似てくるんだ……」

 父はわたしと目を合わせなくなり、ぶつぶつと独り言を呟くことが増えました。父とわたしが暮らす小さなアパートの部屋には(やに)とアルコールの臭いがこびりつきはじめ、わたしは学校からまっすぐ帰宅することが難しくなりました。

 仕事の多忙を理由に父は不在がちになり、わたしが家にいようといまいと気にも留めていませんでした。わたしは学校が終わるとランドセルを背負ったまま図書館へ行き、宿題や読書をして時間を潰し、『夕焼け小焼け』の防災無線チャイムが鳴るころに家路につく毎日を送っていました。

 ある日、いつものように宿題を終えたわたしは暇潰しの本を選ぼうと児童書のコーナーへ向かいました。

 児童書のコーナーは絵本のコーナーと接していて、幼児用の小さなテーブルと椅子が置いてありました。だれかが本棚に戻し忘れたのか、テーブルの上に絵本が一冊放りだされていました。

 ――塩辛い、嗅いだこともないのに懐かしい、海の匂い(・・・・)が鼻腔をくすぐりました。

 わたしは息を詰めてテーブルの上の絵本に見入りました。

 それは忘れたふりをしていた、あのくじらの絵本でした。

 わたしはふらふらとテーブルに近づくと、おそるおそる絵本に手を伸ばしました。表紙に描かれたくじらを指先で撫でると、ぞくぞくするように血潮が沸き立ちました。

 絵本を取り上げると、その下にもう一冊別の絵本がありました。息苦しいほどの海の匂いがむっと押し寄せ、わたしは身を震わせました。

 絵本の表紙に描かれていたのは、わたしと同じ年ごろの悲しげな風情の少女でした。

 少女の着物の裾からは、脚ではなく魚の尾びれが伸びています。

「にん、ぎょ……?」

 絵本のタイトルを読み上げると、煮え滾る血流がまたぞくぞくと全身を駆けめぐりました。

 わたしは人魚の少女の絵本を引っ掴み、急いで貸し出しカウンターへ走りました。

 物語は身重の人魚の嘆きからはじまります。暗く冷たい北の海で暮らす人魚は、生まれてくる子を美しい町に暮らす、やさしい人間に託そうと思いつきます。そして母親の人魚の手を離れ、ひとり陸へ上がって人間の世界にやってきたのが人魚の少女なのでした。

 人魚の少女の物語はくじらの子どもの冒険譚とは正反対の、悲哀と陰鬱に満ち満ちた内容でした。読み終えるころには、凍えるような冬の海の匂いが周囲に澱んでいました。

 最後の(ページ)を閉じると、わたしは深く息を吸いこみました。暮れなずむ窓の外から『夕焼け小焼け』のメロディーが聞こえ、慌てて二冊の絵本をランドセルにしまいこんで図書館を後にしました。

 家に帰ったあとも、夢中で人魚の少女の絵本を読み耽りました。帰宅した父に見つからないよう、絵本をランドセルの中の教科書やノートのあいだに紛れこませてから布団に潜りこみました。

 その夜、不思議な夢を見ました。

 暗くやわらかな水の中、わたしは体を丸めるように縮めてゆらゆらと揺蕩っていました。

 どこからともなく歌声が聞こえます。低く掠れていますが、年若い女の声です。

 水を通しているせいか歌声はくぐもって響き、かろうじてメロディーだけ聞き取れました。

 それはやさしいのに物悲しく、深海の水のように冷たい歌声でした。夜の海の底から、黒々と打ち寄せる波音に乗って、だれかを――わたしを――父を呼んでいました。

 それは子守唄であり、恋歌であり……おぞましい怨みがこめられた呪詛でした。

 翌朝、目を覚まして布団から抜けだすと、出勤の支度を済ませた父が玄関で靴を履いているところでした。

 わたしはぼんやりと父の背中を見つめ、起き抜けのしゃがれた声で告げました。

「おとうさん、いってらっしゃい」

 父の手から靴べらが滑り落ちました。

 呆然とこちらを振り向いた父がみるみる蒼白になり、だれかの名前を呟きました。途端に腐った魚のような生臭さが鼻を衝き、わたしは咳きこみました。

 がたがたと音を立てて父が玄関に崩れ落ちました。驚いて駆け寄ろうとすると、父は悲鳴のような嗚咽を上げて両手で顔を覆いました。

「ああ、ああ……くそっ、くそくそくそっ! 見つかった……居所を掴まれた……もうおしまいだ!」

「お……おとうさん?」

 おそるおそる声をかけると、父はぐしゃぐしゃの泣き顔をもたげました。

 血走った両目には恐怖と悲嘆が渦巻き、震える腕でわたしを抱えこみました。

「どうすれば……どうすればいいんだ……俺は……俺は、どうしたら……」

 咽び泣く父の姿が痛ましく、久しぶりに昔のように抱きしめてもらえたことが嬉しくて、わたしは父の胸に頬を押しつけました。何か歌って父の気を紛らわせてあげようと思い、知らず知らず夢で聞いた歌声のメロディーを口ずさんでいました。

 父が短く息を呑み、わたしの両肩を掴みました。

「鮎佳っ、その歌をどこで聞いた!?」

「えっと……夢の中で……」

 わたしの答えに父は押し黙ると、力なくうなだれました。

「そうか、おまえの夢にまで……本当に見つかってしまったんだな……」

「お父さん?」

「鮎佳――今日からしばらく学校を休みなさい。父さんも仕事を休む」

「え?」

 戸惑うわたしに、父は疲れきった笑みをうっすら浮かべました。

「父さんとふたりで……旅行に行こう」

「旅行?」

「ああ。父さんが昔住んでいた町に、船に乗っていこうか」

「ふね? お船に乗るの?」

「ああ。船に乗って、海に行こう」

「ほんと!?」

 父といっしょに海へ行けると理解したわたしは、寸前までの出来事などきれいさっぱり忘れて飛び上がりました。

「やったあ! お船乗りたい! 海行く!」

「じゃあ朝飯を食べて準備しよう。急いで出れば今日の便のフェリーに乗れるかもしれない」

「はあい!」

 こうして急遽、わたしは父に連れられて北へ向かうことになりました。

 荷物の中には図書館で借りた二冊の絵本を忍ばせました。旅の道中で読み返そうと思ったのです。

 父の郷里へは新幹線で東京まで行き、そこから北回りのフェリーに乗りこむことになりました。

 どうして父は、鉄道や飛行機ではなく時間のかかる船旅を――あんなにもおそれていた海の上の逃げ場のない環境を――選んだのでしょうか。最後に(・・・)わたしを喜ばせようとしたのか……あるいは――

 父との旅はとても、とても楽しいものでした。わたしはずっとはしゃいでいました。はじめての新幹線、はじめての高層ビルの群れ、はじめての海――

 そうです、海を見ました。

 大きな大きな河口の先に広がる、途方もない水平線を目にした瞬間、わたしは言葉を失いました。

 濃い潮風の匂い。肌がべたつくようなひりつくような、もったりと重い空気。

 海鳥の声、船の汽笛、波が砕け散る音――薄曇りの陽を照り返す海原の、仄白い輝き。

 全身の皮膚がカサカサと音を立ててひび割れ、青いうろこが生えてくるような錯覚に陥りました。

 ごうごうと血がめぐる音が耳の奥で渦巻き、やがて夢の中の歌声がよみがえりました。呼ばれている(・・・・・・)と強く感じました。

 父は静かに水平線の彼方の光を見つめていました。聞こえないはずの歌声に耳を澄ませているようでした。

 わたしたちは運よく最終便のフェリーに乗船できました。早めに夕食を済ませると、猛烈な眠気に襲われました。

「疲れただろう。明日も違う船に乗り継ぐから、今日はもう寝なさい」

「うん……おやすみなさい……」

「おやすみ」

 見かねた父がわたしを抱き上げ、ベッドまで運んでくれました。

 毛布を掛けてもらい、頭を撫でてもらううちに意識がまどろみの波に攫われていきました。眠りの浅瀬で再び父の嗚咽を聞いた気がしました。

 夜半に目覚めたとき、船旅は悪夢に変わり果てていました。

 凄まじい轟音とともに船が横揺れし、わたしはベッドから投げだされました。

 すぐに父が助け起こしてくれましたが、わたしは動けず父にしがみつきました。

「おとうさん、怖い!」

「突然海が荒れはじめたんだ。嵐の予報なんて出ていなかったたのに、どうして――」

 船室の照明がぐらぐらと揺れ、激しく明滅しています。

 丸い船窓を殴りつける水の礫。荒れ狂う波は甲板を洗う勢いで、船はまさに嵐の海に呑まれかけていました。

『お客様に申し上げます。安全のため、救命胴衣の着用をお願いします。くり返します。安全のため……』

 船内放送が流れると、あちこちの船室から悲鳴や怒鳴り声が聞こえてきました。

 父は船室に備えつけられていた救命胴衣をわたしに着せてくれましたが、なぜか自分のぶんは着用せずにいました。

「鮎佳、万が一に備えて救命ボートの近くまで移動しよう。荷物は最低限のものだけ持っていくんだ」

「う、うん」

 わたしは貴重品やお菓子が入った小さなリュックサックを背負うと、父に手を引かれて船室を出ました。リュックサックの中には二冊の絵本もしまってありました。

 廊下に出ると、どこからか流れこんできた水で床や壁がびしょ濡れでした。わたしたちは必死に手すりにしがみついて廊下を抜け、救命ボートを目指しました。

 船外に出ると、いまにも吹き飛ばされそうな雨風が全身を叩きつけました。手すりの柵のむこうは夜の海、船が揺れるたびに波が闇色の巨人の手となってわたしたちを掴み取ろうとします。

 父は体を張ってわたしを庇い、ロープを掴んでじりじりと前に進みました。わたしたちと同様に救命ボートを目指す乗客が通路に溢れ、われ先にと押し合っています。

 甲高い女の歌声のような音が鼓膜をつんざきました。

 船体が大きく傾き、そこへ高波が覆い被さりました。

「危ない!」

「掴まってぇ――!」

 真っ黒な波が通路へ雪崩れこみ、巻きこまれた乗客たちがそのまま海へ投げだされました。わたしは父の体の下で、水の中へ消えていく人の叫びをぽかんと聞いていました。

「早くボートを出せ!」

「船が――もうたな――」

 軋みを上げる船体はすでに沈みかけていました。半狂乱になった乗客が海へ飛びこんでいきます。

 救命ボートまでたどり着いた人びとが脱出を試みようとしますが、激しい波にボートごと押し流されてしまいました。

 それを見ていた父は、足元に流れてきた浮き輪とわたしの体をロープでしっかりつなげました。

「鮎佳。もし波に呑まれても、怖がらずに身を任せなさい。おまえのことは、必ず彼女(・・)が守ってくれる」

「おとうさん?」

「償いは父さんがする。おまえは何も悪くない。……もしも彼女の子が生まれていたら、いまのおまえのようだったんだろうなあ」

 父は薄くほほ笑み、濡れた手でわたしの頬を撫でました。

「父さんは昔、許されない過ちを犯したんだ。そのせいで母さんは死んで、鮎佳にも寂しくて窮屈な思いばかりさせてきた。彼女にも、彼女の子にも怨まれて当然だ」

 そのとき、確かに歌声を聞きました。

 低く掠れた、ひたひたと打ち寄せる水のように冷たい人魚の歌声を――

「おまえは、彼女の子の生まれ変わりなのかもしれない。こんな不甲斐ない父親のところに生まれてきてくれて……ありがとう」

 天も地もわからなくなるほどの揺れ。父の肩越しに、スローモーションで押し寄せてくる水の闇が見えました。

 波の中から青白い腕が二本伸びました。女らしい、ほっそりとした腕が。

 二本の腕が父の首に絡みついた瞬間、わたしはどぷりと水に呑みこまれました。

 海面に叩きつけられた衝撃で意識を失ったのか、わたしの記憶はそこで途切れています。

 しかし海の中で、あの不思議な夢を見ていたような気がしてなりません。

 波に揉まれるうちに、体と浮き輪をつなぐロープが首に巻きついてしまいました。窒息しそうになっているわたしをだれかが抱き上げ、ロープを噛み切って助けてくれたのです。

 青白くふくよかな、心臓の音が聞こえない冷たい胸。海藻のように揺らめく黒い髪。

 腰回りから皮膚はひび割れ、下半身は青いうろこに覆われた尾びれになっていました。

 ほっそりとした両腕でわたしを抱きかかえた彼女(・・)は、わたしに頬ずりすると尾びれで力強く海水を蹴りました。

 ――不可解な嵐によってフェリーが沈没して数日後、わたしは父の郷里の浜辺に打ち上げられていたところを発見されました。

 いっしょに流れ着いたリュックサックの中の所持品から身元が判明し、意識を取り戻したときには入院先のベッドの枕元ではじめて会う祖父母が号泣していました。

「大変な目に遭ったわね」

敦郎(あつろう)くんのことは残念だったが、鮎佳ちゃんだけでも助かってよかった」

 父を含む乗客と乗員の大半は行方不明になっていました。捜索は続けられていたものの、生存は絶望的でした。

 おそらく父は死んだと言われても、わたしにはうまく理解できませんでした。ミルク飲み人形のようにベッドの上でぼんやりと天井を見つめるばかりのわたしの世話をあれこれ焼いてくれたのは祖母でした。

「鮎佳ちゃんは真魚子(まおこ)より小さいころの氷魚子(ひなこ)に似ているわねぇ」

 わたしの髪をブラシで梳きながら、祖母は眦に皺を寄せて笑いました。

「……ひなこ」

 真魚子は亡くなった母の名前です。そして『ひなこ』は、旅行に出る直前に父が呟いていた名前でした。

「氷魚子はね、真魚子の妹――鮎佳ちゃんの叔母さんよ」

「おばさん?」

「そうよ。おばあちゃんにはふたり娘がいたの。あなたのお母さんの真魚子と、妹の氷魚子。ふたりとも早く逝っちゃって……親不孝な娘たちよねぇ」

 わたしは唾を飲みこみました。

 祖父母はてっきり父方だと思いこんでいましたが、実は母方だったのです。

「子どものころの真魚子と氷魚子よ」

 祖母は一枚の古い写真を見せてくれました。

 セピア色がかった写真の中央には紫紅色の夾竹桃が咲きこぼれ、その下にふたりの少女が寄り添い合って並んでいました。

 わたしと同年代でしょうか。向かって右側の少女は少し背が高く、溌剌とした笑顔をカメラに向かって浮かべています。対する左側の少女はカメラから隠れるように隣の少女にしがみつき、神経質そうな黒目がちな双眸を覗かせていました。

 お揃いの髪型、お揃いのワンピース。表情の違いはあれど、少女たちはひと目で姉妹だとわかる程度には似ていました。それ以上に、左側の少女は鏡の中のわたしとそっくりな面差しをしていました。

「右が真魚子、左が氷魚子よ。昔は呆れるほど仲がよくて、特に氷魚子はいつも真魚子の後ろをついて回っていたわ。なんでもかんでもお姉ちゃんといっしょがいい、しまいにはお姉ちゃんになりたいなんて言っていたこともあったわねぇ……」

 祖母によると、この町はもともと母の郷里でした。

 父は少年期に父親――こちらがわたしの父方の祖父です――の仕事の都合で一時的に移住したに過ぎないそうです。父と、母と叔母の姉妹は同じ小学校に通っていたので、最初の接点はこのころ生まれたのでしょう。

 父は一年ほど町に滞在し、やがて父方の祖父に連れられて別の町へ引っ越していきました。それから十年以上が経ち、青年になった父が小学校時代の級友を訪ねて町にやってきました。

 そこで父は母と叔母に再会します。交流を重ねるうちに三人は親密になり、やがて父と母は恋愛関係に発展しました。

 ところが、ふたりの仲を叔母が認めなかったのです。

 実は叔母も父に想いを寄せていました。叔母は母に出し抜かれて父を横取りされたと言い張り、父と別れるよう母に詰め寄りました。

「敦郎くんと真魚子は結婚の約束をしていたの。私もお父さんも『義兄(あに)になるひとに言い寄るようなみっともない真似はやめなさい』って何度も叱りつけたんだけど、あの子はなかなかあきらめなくて……とうとう虚言癖まで出てきたのよ」

「きょげん?」

「嘘をつくようになったのよ。敦郎くんの子どもを身籠っているって言って……挙句の果てには想像妊娠までしていたわ」

 祖母は仰々しい嘆息を漏らしました。

 年端も行かない孫娘に聞かせるにはずいぶん生々しい昔話でした。手を焼かされた次女への鬱憤を吐きだすのに、理解力に乏しい子どものわたしは都合のよい相手だったのかもしれません。

 ただ――わたしは胸の奥がざわつくような不快感を覚えました。

 姉への嫉妬のあまり想像妊娠に至った叔母の腹は、まさに身重のように膨らんでいたのでしょう。腹の中は空っぽだとだれもが口を揃えて言い聞かせても、叔母は新しい命が宿っていると信じて子守唄を歌ったのです。

おかあさん(・・・・・)はうそつきじゃないよ」

 わたしの反論に、祖母は怪訝な顔をしました。

「鮎佳、おぼえてるよ。おかあさんのお腹の中でずっとお歌を聞いてたもん。でも、真っ暗で冷たい海に鮎佳を連れていくのはかわいそうだからって、次のおかあさん(・・・・・・・)に鮎佳を産んでちょうだいっておねがいしたんだよ」

「鮎佳ちゃん……なんのお話?」

「ほんとのお話。うそをついたのは、次のおかあさん。それからおとうさんだよ」

 祖母は不気味なものを目にしたように頬を強張らせました。

 目の前の相手にいくら訴えたところで徒労に終わると悟ったわたしは、顔を背けて視線を窓の外に向けました。

 薄ら明るい黄昏の空の先には、入江の影に切り取られた海が続いています。古びた窓枠を揺らす潮風に乗って歌声が聞こえました。

 わたしは応えるように口の中でメロディーをなぞりました。祖母はすっかり黙りこみ、わたしの横顔を凝視していました。

 もしかしたら、祖母の目には私が在りし日の気が触れた叔母と重なって映っていたのかもしれません。

 叔母は確かに気が触れていたのでしょう。生きている限り、腹に宿った子の魂は永遠に産まれないと知って。

 だから叔母は真冬の海に身を投げ、人魚となったのです。腹の子の魂は潮流に乗り、水の循環を伝って母の胎内へと流れ着きました。

 そして、わたしが生まれたのです。

 叔母の死後、父と母は逃げるように郷里を離れました。良心の呵責に耐えられなかったのでしょうか。

 少年時代の父と最初に仲良くなったのは叔母だったのです。姉になりたかった少女は姉の名前を名乗りました。

 大人になって父と再会したとき、母は妹のささやかな嘘を利用しました。父と仲良しだった少女は自分だと逆に嘘をついたのです。

 父も真実に気づいていたのでしょう。しかし父は母を選び、叔母は姉の恋人に言い寄る嘘つきに貶められました。

 母の死因は産褥死ですが、父には叔母の呪いのように思えたに違いありません。だから叔母の待つ海を忌避していたのです。

 叔母そっくりに育っていくわたしの成長も、父にとっては呪いだったのでしょう。

 父たちの昔話を聞いた日以来、祖父母の態度は目に見えてよそよそしくなりました。

 退院後、わたしは健在だった父方の祖父に引き取られることが決まりました。長らく音信不通だった息子の死と孫娘の存在に祖父は困惑していましたが、母方の祖父母がわたしを引き取るつもりはないと知ると「ぜひいっしょに暮らそう」とすぐに迎えにきてくれました。

 やさしかった父によく似ている祖父に連れられ、わたしは海辺の町をあとにしました。

 町を出るとき、潮風が吹き抜けると人魚の歌声が聞こえました。

 胎児のころのようにまぶたを閉じて、わたしだけに聞こえる子守唄に耳を澄ませました。海水に浸かってぼろぼろになった二冊の絵本を――海に棲む母なるものの愛の物語を抱きしめて。

 わたしの命を待ち望むやさしい歌声。魂の奥底に深く刻まれた記憶が、今日もわたしを生かすのです。

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