Side陽菜 第8話
「あら、相変わらず仲が良いのね」
先ほどマシュマロの横を通り過ぎた車から、小田川翔が降りてきた。実年齢は40代後半らしいが、見た目は30代と言っても通るだろう。メイクアップアーティストだけあって肌質も抜群に良く、男性とは思えない艶やかさがある。
陽菜と友梨佳は4年前の七夕フェスタで遥に紹介されて以来の付き合いだ。
「話が全然終わらないから、こっちから来ちゃったわよ。ねえ、さっきすれ違った白い馬、あれ遥が買ったっていうスノーキャロルの仔でしょう?良い馬じゃない。ちょっと、友梨佳、なんで連絡くれないの。言い値で買ったのに」
「おじいちゃん、最初から遥さんに売るつもりだったし、そもそも翔さん、1億出せるの?」
小田川は言葉を詰まらせる。
「ずいぶん強気になったじゃない。つい最近まで家族経営の小さな牧場だったのに」
「小田川さん、馬を見にいらしたんですか?」
「ええ。あの真田泰人も目をつけた馬がどんなものかと思ってね。まさか柵を飛び越えるとは驚いたわ。泰造さん、良い馬を作ったわね」
その時、友梨佳のスマホの着信音が鳴った。
「おじいちゃんからだ」
友梨佳が電話に出ると、「分かった」と言ってスマホをポケットにしまった。
「おじいちゃんから厩舎に呼ばれたから行くね」
「後で顔を見せに行くからって伝えておいて」
「分かった。伝えとく」
小田川からの伝言を預かり、友梨佳は厩舎へ駆け出した。
「相変わらず敬語が使えない娘ね」
小田川は事あるごとに敬語を使うように言ってきたが、今ではもう諦めたらしい。女性は恋愛対象ではないと言っても、若い娘に慕われるのは悪い気はしないのだろう。
「小田川さん。もしお時間があれば、ご相談したいことがあるのですが……」
「若い娘の恋愛話には興味ないわよ」
「いえ。仕事のことです」
陽菜は小田川にシュヴァルブランのパンフレットを差し出した。
「友梨佳、ちょっといいか」
マシュマロの馬房に来た友梨佳を泰造が呼び止めた。
「マシュマロのことだが、何かパニックでも起こしたのか?」
「ううん。いきなり助走をつけて、そのまま柵を飛び越えたってバイトの子が言ってた。飛び越えた後も、迷わず一目散に走り続けたって。どうして?怪我でもした?」
「ほお……」
泰造は身震いし、腕に鳥肌が立つのを感じた。
足腰の強い仔馬がパニックを起こして柵を飛び越えてしまうことは稀にある。そういう馬は、飛び越えた後に元の放牧地に戻ろうと柵の周りをうろうろするのが常だが、マシュマロは自分の意思で柵を飛び越え、さらには何かに導かれるように走り続けた。
明らかにただ者ではない。半世紀以上馬の生産をしてきた泰造も初めての経験だった。
「マシュマロのことだがな、こいつにはこの牧場の放牧地は狭すぎる。こいつの脚力と柔軟性は尋常じゃない。ここに置いていても、また柵を飛び越えるだろう。すぐに親離れさせて、遥のところに預けたいがどうだ?」
泰造は去年癌の手術をしてから、友梨佳にも意見を求めるようになった。
「生後5ヶ月経つし、柵の外を一人で走るくらいだから精神面でも大丈夫だと思う。ここだとお山の大将になっているから、遥さんの牧場の馬に揉まれるのも良いんじゃない」
「こいつはひょっとすると大物になるかもしれんぞ。忙しくなるな」
泰造は興奮を抑えきれないようにマシュマロの顔を撫でようとすると、マシュマロが泰造の手を噛もうと歯をむき出しにした。
「おお! こいつ、一人前に噛みつこうとしやがった」
泰造は手を引っ込めながら嬉しそうに大笑いする。泰造がこんなに笑っているのを見るのはいつ以来だろう。友梨佳も思わず笑ってしまう。それと同時に、この気性が悪い方に出ないように願わずにはいられなかった。
「募集馬の出資状況が芳しくない?」
ログハウスのカフェテリアで、陽菜は小田川に募集が上手くいっていないことを話した。
「そんなの私じゃなくて遥に相談すればいいじゃない」
「代表には相談しているんですけど、焦らなくていいとか、入厩までに60口集めればいいとか言ってくださるんです。私が1年目だからプレッシャーがかからないようにしてくれているんでしょうけど」
「甘えておけばいいじゃない。社会人1年目の特権よ」
至極真っ当な返事をしながら、小田川はコーヒーを一口飲み「悪くないわね」と頷いた。
「ですけど、このままでは成長できない気がして。友梨佳は泰造さんの跡取りとして牧場の仕事を何でもこなしているのに……。 だから第三者の視点でアドバイスをいただきたいんです」
小田川はため息をつきつつ、コーヒーカップをソーサーに置いた。
「あなた、4年前に会った時も同じようなこと言ってたわね。せっかく成長したと思ったら『迷える子羊』に逆戻り? まあ、成長したいという気概に免じて見てあげるわよ」
小田川はカバンからタブレット端末を取り出して、シュバルブランのホームページを表示させた。
タブレットを指でタップしたりスワイプしたりする小田川の姿を、陽菜は椅子に深く腰掛け、指先を軽く組んでじっと見つめた。その手のひらには、じんわりと汗が滲んでいる。
やがて小田川はタブレットをテーブルに置き、すっかりぬるくなったコーヒーを手にとった。
「あなたの悪い癖が凝縮されているわね」
「私の悪い癖……ですか?」
「馬の写真、体格、性格、血統背景、調教時計、牧場や厩舎関係者のコメント等々……客観的なデータは揃っているわね。でも、それだけ」
「まだ何か足りないところが……?」
「そう思っているうちはダメよ。あなた、シュバルブランの馬に出資する人たちがどういう人か考えたことある?」
「それは……競馬や馬に興味があって、平均的な収入でも馬主体験がしたいと思うような……」
「賞金とか口取り式とか?」
「それもあります。100口に抑えているのもそれが目的なので」
小田川はコーヒーを一気に飲み干すと、空になったカップを雑にソーサーに置いた。
「あなた、お金持ちの馬主やら数千万単位のお金やらと接しすぎて、感覚が麻痺しているんじゃない?」
「そんなことは……ないと思います……」
「そうかしら?少なくとも18歳の時のあなたはそうじゃなかったはずよ。とにかく、あなたは出資者の表面的なところしか見ていないわ。出資者が何を望んでいるのか、そこに気づかないといつまで経っても出資なんか集まらないわよ」
小田川はタブレットをカバンにしまい、伝票を持って立ち上がった。
「ヒントはこれじゃない? 遥にしては良いキャッチコピーよね」
小田川はテーブルの上に置かれたシュバルブランのパンフレットの裏表紙をトントンと叩いた。
『Horse Racing Together』
そこには銀色の文字で一文だけ書かれていた。
「あの、これがどういう……」
陽菜が顔を上げた時には、小田川はすでにログハウスを後にしていた。