Side陽菜 第7話
生後5か月が経ち、マシュマロの体高は135㎝、体重は250㎏まで順調に成長した。産毛はすっかり抜け落ち、母親と同じ真っ白な体毛に覆われている。生まれつきのボス気質にさらに磨きがかかり、放牧場では誰彼構わず追いかけ回しては喧嘩を売る始末だった。
しかし、そんなマシュマロのやんちゃぶりを知る由もない観光客には彼は大人気で、高辻牧場のカフェテリアのテラス席は、マシュマロを一目見ようとする人々で連日満席だった。
「一口馬主に興味ありませんか……」
観光客で賑わう売店の隅。陽菜はシュバルブランのパンフレットを山積みにした机の前で、ひとり座っていた。
彼女は、高辻牧場を訪れる観光客をターゲットに、売店に特設ブースを設けてマシュマロへの出資を募ろうと考えたのだ。最初のうちは、マシュマロ親子を見た観光客が興味を示してくれた。しかし、100万円という出資金額を目にした瞬間、彼らの表情は変わり、静かに立ち去っていく。
マシュマロの出資状況は相変わらず芳しくない。遥が言っていたように、入厩までに60口の出資を集めるには、月に2~3口の応募が必要だ。しかし、募集開始からまもなく3か月が経とうとしているにもかかわらず、未だに一口の応募もない。
不調なのはマシュマロだけではなく、他の募集馬も同様で、軒並み昨年の実績を下回っていた。
「グランエターナルレーシングは、とっくに満口になってるのにね……」
毎年G1レースを制している大手クラブ法人グランエターナルレーシングでは、募集を開始した瞬間に満口になる。
(冬のボーナスは諦めたほうがいいのかな……)
そんなことを考えながらぼんやりしていると、中学生くらいの女の子が目の前に立った。
「すみません。パンフレットもらえますか?」
ショートカットに日焼けした肌。肩や足の筋肉のつき方からして、何かスポーツをしているのだろうか。
「もちろん、どうぞ」
陽菜が営業スマイルでパンフレットを手渡すと、少女はその場でページをめくり始めた。
「やっぱり高いですね。お小遣いじゃ無理だ」
「そうね。それに、未成年者は法律上、出資できないことになっているの」
「そうなんだ……。お母さんに入会してもらえないか、聞いてみます」
「うん。聞いてみて」
陽菜は「たぶん無理だろうな」と思いつつ、にっこりと微笑んだ。
「それと、ここの乗馬レッスンって、インストラクターは選べるんですか?」
「うん。そのあたりは相談してもらえれば、柔軟に対応できると思うけど」
観光牧場では中級クラスまでの乗馬レッスンを行っており、インストラクターは友梨佳やイルネージュファームの小林、加耶が担当している。
「本当ですか! わたし、実は……」
わぁー!!
突然、テラス席から観光客の叫び声が響いた。
陽菜が放牧地を見ると、なんとマシュマロが柵を飛び越え、ログハウスのほうへと駆け出しているではないか。
「うそでしょ!」
思わず叫んだ。
牧柵の高さは160㎝。普通なら仔馬が簡単に飛び越えられるものではない。仮に飛び越えられたとしても、着地の際に脚を痛めてしまう可能性が高い。もしも競走能力を失うような怪我を負っていたら、大損害だ。
その間にも、マシュマロはどんどん駆け回る。このままでは道路に出てしまう。後ろから友梨佳が追いかけているが、間に合いそうにない。
陽菜は急いでログハウスを飛び出そうと、車いすを扉へ進めた。
——その瞬間、バン! と扉が開く音と、風を切る音がした。
見ると、先ほどの少女がマシュマロに向かって駆け出していた。
「速……」
陽菜は呆然とするしかなかった。
少女がログハウスの階段を駆け下りると同時に、マシュマロが目の前を駆け抜ける。
少女は迷わず手を伸ばし、マシュマロの頭絡を掴んだ。
頭絡を掴まれたことで、マシュマロの速度はいくらか落ちた。しかし、それでもなお、走るのをやめる気配はない。
少女は必死にしがみつき、マシュマロを止めようと腕に力を込めるが——止まらない。
まるで何かを追い求めるように、マシュマロはただ真っすぐ前を見据え、走り続けた。
少女の腕は痺れ、足はもつれてくる。
「もう無理……」
手を離しそうになった、そのとき——
牧場の入り口から、対向車が現れた。
このままでは、ぶつかる。
少女の腕には、もうマシュマロを引き止める力は残っていない。
——ぶつかる!
少女が目を閉じた瞬間——
マシュマロが、止まった。
対向車は、ギリギリのところでマシュマロを避け、通り抜けていった。
少女は頭絡を掴んだまま、その場にへたり込んだ。手がこわばり、離すことができなかった。
「きみ、大丈夫?」
友梨佳が反対側の頭絡を掴みながら、素早く引き綱をつけていた。
「きみがマシュマロの速度を落としてくれたから、なんとか追いつけたよ。助かった、ありがとう」
「あ……あの、えっと……」
少女は友梨佳に気づくと、口ごもった。
「きみ、足が速いね。あたしも自信あるほうだけど、正直負けたよ。何かスポーツやってるの?」
友梨佳は話しかけながら、少女の腕を軽く引き、立ち上がらせた。
「あ、はい。サッカー部でサイドバックをやってます」
「へぇ、大変だね……。 あ、そういえば、きみの名前は? あたしは……」
「高辻友梨佳さんですよね。わたしは舞別二中の結城エマです」
「えっ、あたしのこと知ってるの?」
「はい。去年、舞別中央公園の七夕フェスタで、友梨佳さんの馬場馬術を見たんです。すごく格好良くて、綺麗で……それからずっと……ずっと……」
「二人とも大丈夫?」
陽菜がマシュマロのそばへ駆け寄ってきた。牧場のスタッフたちも遅れて到着する。
「友梨佳さんのことが好きでした!」
……え!?
その場の空気が静まり返る。友梨佳の顔は熟れたリンゴのように紅潮する。
陽菜は、まるで心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。
「え、いや。急にそんなこと言われても……エマちゃんのこと何も知らないし……」
友梨佳が慌てて言葉を繋ぐ。
エマはきょとんとした後、ハッとして大きく首を振った。
「ち、違います! 好きって、そういう意味じゃなくて。友梨佳さんのことは好きですけど、友達としての好きとも違って……でも、かといって……」
エマは真っ赤になりながら必死に言葉を探す。
陽菜は、締めつけられていた心臓がふっと軽くなるのを感じた。
(私、なんで今、胸が苦しくなったんだろう?)
自分の感情に戸惑いつつ、エマをフォローする。
「つまり、友梨佳推しってことで合ってる?」
「そう! それです!」
エマはビシッと陽菜を指さした。
「わたし、友梨佳さんに乗馬を教わりたいんです! お願いします!」
エマは友梨佳に向かい、深々と頭を下げた。
「え、え?」
「エマ! どうしたの? 何があったの?」
ログハウスから、四十代くらいの女性が駆け寄ってきた。
「お母さん、わたしは大丈夫。この子が柵を飛び越えて走ってきた馬を止めようとして……」
「え、馬を止めようと?」
エマの母親がマシュマロをまじまじと見つめていると、泰造が杖をつきながら歩み寄ってきた。
「いやいや、お嬢さん。馬を止めてくれて、本当に助かりました。こいつに何かあったら大損害だからね。なんたって、一億円の馬ですから」
「い、一億!?」
エマと母親が思わず後ずさる。
「とはいえ、それ以上にお嬢さんに何かあったら大変だ。競走馬は金で買えても、あなたは金では買えません。放馬した馬を無理に捕まえに行かないこと。自分に向かってきたら、逃げること。いいですね?」
「はい。気をつけます……」
エマはしゅんと肩を落とした。
「いやいや。あなたはこいつの命の恩人です。こいつが活躍したら、まわりに自慢してください。それとお母様、お嬢様を危険な目に遭わせてしまい申し訳ありません。今後、このようなことがないよう対策を講じます。また、腕を強く引っ張られたようですので、必要であれば病院を受診してください。治療費は当方で負担します」
「お母さん、私は何ともないから大丈夫。それに、わたしが勝手に飛び出して捕まえようとしたの」
エマは右腕を大きく回して見せた。
母親はほっとした様子で、
「お気遣いありがとうございます。怪我もないようですし、このまま様子を見ます」
「そうですか。何かあれば、いつでもご連絡ください」
泰造は一礼すると、スタッフにマシュマロを馬房へ戻して馬体の確認をするように指示しながらその場を後にした。
「すみません……。 わたし、何も考えずに飛び出しちゃって……」
エマがぽつりとつぶやいた。
「エマちゃんがいなかったら、さっきの車とぶつかって、大変なことになってたよ」
友梨佳がエマの頭をぽんと撫でる。
「そ、そうですか……」
エマは頬を赤らめ、うつむいた。
「あと、さっきの話だけど、いいよ。乗馬、教えてあげる」
「ホントですか?」
エマの表情がぱっと明るくなる。
「うん。サッカー部でサンドバッグにされてるんでしょ? そんなところ辞めて、うちにおいでよ」
「え? サンドバッグ?」
エマと母親が戸惑う。
「サイドバックでしょ。一番運動量の多いポジションよね?」
陽菜がエマに確認する。
「はい、そうです」
「なんだ、最初からそう言えばいいのに」
友梨佳はエマの肩を叩き、ケラケラと笑った。
苦笑しながらエマが陽菜を見ると、陽菜は微笑んで肩をすくめた。
「じゃあ、サッカーを続けながら乗馬もやるの?」
「三年生は夏の大会が終わったら実質引退なんです。それで、実は……」
エマはぐっと拳を握りしめ、顔を上げた。
「わたし、ジョッキーになりたいんです!」
友梨佳を真っ直ぐ見つめ、力強く言った。
「最初はサッカーを続けたかったんですけど、わたし、体が小さいからどうしてもフィジカルで負けてしまって。それでどうしようか考えていた時に、友梨佳さんの乗馬を思い出したんです。ジョッキーだったら、わたしの体格を活かせるかもしれないって」
「実は今年、競馬学校を受験したんですけど、落ちてしまいました。一度挑戦すれば満足するだろうと思ってたんですけど、かえって火がついたみたいで……」
エマの母親が、娘を見ながら説明した。
「来年こそは絶対に合格したいんです。だから、ここで乗馬と厩舎作業を教えてください。高校には行かないつもりです」
エマの母は困ったようにため息をついた。
友梨佳と陽菜は顔を見合わせる。乗馬くらいならいつでも歓迎だが、どうやら軽々しく答えられる状況ではなさそうだ。両親と話し合って決めるようにと、それとなく追い返すのは簡単だが、それは何だか不誠実な気がして、陽菜は言い出せなかった。
何と答えようか迷っていると、友梨佳が「ここはあたしに任せて」とささやいた。
「エマちゃん。馬に乗りに来るのは大歓迎。時間が合えば、あたしが教えてあげるし、厩舎作業もやらせてあげるよ」
「本当ですか!」
「うん。でもね、高校に進学することが条件」
「でも、馬のことに専念しないと合格できないんじゃ……」
エマは不満げに言う。
「競馬学校の入学資格に、乗馬や厩舎作業の経験は必須じゃないでしょ? それに、競馬学校に入ってからも学科の授業があるんだから、高校の勉強は無駄にならないよ」
エマは口をつぐんで、黙って友梨佳の話を聞いている。
「実はね、あたし、高校を1年で中退したんだ。ちょっと訳ありでね」
「えっ?」
エマが驚いたように顔を上げる。
「最初は、牧場に勤めるなら学歴なんていらないって思ってた。でもね、友達のいない孤独感、みんなが経験している青春を経験できない劣等感……それに、もし牧場がダメになった時、中卒の自分に何ができるんだろうっていう不安は、ずっと心の底にあった」
陽菜は、4年前に友梨佳と出会った頃を思い出していた。あの頃の友梨佳は、高辻牧場だけが拠り所で、牧場がなくなることを何よりも恐れていた。
「それでね。ここにいる陽菜が大学に進学するって決めたから、あたしも思い切って定時制高校に通うことにしたんだ。高校生活はすごく楽しかったし、そのときのクラスメイトのツテで牧場経営の手助けをしてもらったりもした。まあ、勉強の方は……ね」
友梨佳はちらっと陽菜を見る。
陽菜は、追試前に日高から帯広まで2時間かけて泣きついてきた友梨佳の姿を思い出し、思わず吹き出した。
「競馬学校に合格したら、高校は1年で辞めちゃうことになるかもしれないけど、そのときの経験や人脈は絶対に無駄にならない。だから、高校には行っときなよ」
尊敬する友梨佳からの、経験に裏打ちされたアドバイスに、エマは返す言葉がなかった。
「……わかりました。高校に通います」
喜んだのはエマの母の方だった。今までよほどすったもんだがあったのだろう。胸の前で両手を強く組み、目には涙を浮かべている。
「通えるなら、舞別高校がいいよ。ここから近いから、学校終わりに通えるし。あたしも、そこを卒業してるんだ」
「ホントですか! じゃあ、舞別高校に行きます! お母さん、いいでしょ?」
エマの母に断る理由などなかった。目頭をハンカチで押さえながら、何度も頷く。
「やったー! 友梨佳先輩、よろしくお願いします。お母さん、早く乗馬の申し込みに行こう。高校に通うんだから、いいでしょ?」
「はいはい、ちょっと待ちなさい」
エマの母は、娘に腕を引っ張られながら、友梨佳と陽菜に深々とお辞儀をした。
ログハウスに入っていくエマ親子を見届けると、陽菜は友梨佳の肩を軽くグーパンチする。
「友梨佳、やるじゃん」
「へへ、先輩だって」
エマから「推し」だの「先輩」だのと言われたのがよほどうれしいのか、友梨佳のニヤニヤが止まらない。
せっかく褒めたのに、陽菜はだんだん腹が立ってきた。エマの頭をポンポンしたのも、なぜだか気に入らない。
「友梨佳と4年の付き合いだけど、私、友梨佳に褒められたことないんだけど」
「え、そんなことないじゃん」
「そうじゃなくて……だから……」
友梨佳は一瞬考え、心当たりに気がついたのか、満面の笑みを浮かべる。
「あー、ごめんね、陽菜。頭ポンポンしてあげてなくて」
そう言って、陽菜の頭を優しく撫でる。
「ちょっと、いまされても嬉しくない」
「ごめん、ごめん。陽菜って意外とめんどくさいとこあるよね」
そう言いながら、陽菜の髪を両手でくしゃくしゃにする。
「やめて、髪がボサボサになる! まだ接客があるんだから!」
友梨佳の手を振りほどこうと、陽菜も両手で友梨佳の腕をつかむ。
陽菜の髪をめぐる攻防に、ふたりはだんだん可笑しくなり、いつしか笑い合いながら、両手を掴み合っていた。