エピローグ
7月の日高に吹く草木の香りを含んだ風は、涼やかに新冠川の河川敷に咲く黄色いキンシバイの花を優しく揺らしている。新冠川に沿って走る国道を逸れて森の中に向かう1本の細い道があった。その道のアスファルトはでこぼこで、所々に小さな穴が開いていた。
うっそうと生い茂るミズナラの木のトンネルを抜けると急に視界が開け、青々とした牧草の絨毯が敷き詰められた放牧地が一面に拡がっていた。
白い木製の柵で囲われた放牧地には3組のサラブレッドの親子がのんびりと草を食んでいる。
放牧地の柵沿いを、白毛のサラブレッドに跨りゆっくりと馬を歩かせている女性の姿があった。
彼女の髪の毛は白に近い金髪のロングヘア―で、放牧地を吹き抜ける風に髪をなびかせていた。
目にはエッジの利いたスポーツ用サングラスをかけ、紺のパンツドレスにヒールパンプスとおよそ乗馬には適さない服装で馬に乗っていた。
彼女は乗っている白馬の首筋や耳を触りながら放牧地の方を眺めていた。
ふと、馬が歩みを止め、耳を左右に動かしたかと思うと、首を柵の外に向けた。
「スノー、どうした?」
少女はそう言うと馬の視線の先に目を向けた。
馬が止まった少し先の柵の外に、車椅子に乗った黒のドレス姿のショートヘアの女性の姿があった。彼女は放牧地のサラブレッドの親子をじっと眺め、胸に手を当てながらつぶやいていた。
「……そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる……」
馬上の女性は馬を促し、車いすの女性の方に歩を進ませた。
「こんにちは」
馬上から声をかけると、車椅子の女性はハッとして振り向いた。
振り向いた先には、日の光を背に白馬に跨る雪のように白い肌をした女性の姿があった。
車椅子の女性は、あっけに取られたかのように無言で馬上の女性を見つめた。
「陽菜、どうしたの? 私の顔に……なんかついてる?」
そのとぼけた声に、陽菜の唇がやわらかくほころんだ。
「……まさか友梨佳がパンツドレスで馬に乗るとは思わなかったから」
「だって、披露宴で遥さんと治ちゃんが馬に乗って入場する演出考えたの、陽菜でしょ?」
「そうだけど、普通は曳いてくるものでしょ。ドレスがしわになるから、早く降りて」
「だってこの靴、歩きづらいんだもん」
そう言いつつも、友梨佳はしぶしぶ馬から降りると、柵の扉を開けて陽菜のもとへと歩いていき、彼女の隣にしゃがんだ。
「懐かしいね。この光景」
陽菜の目が、放牧地に広がる親子馬の姿を追いながら遠くを見つめる。
「あたしと陽菜が出会った時もこんな感じだったね。あれから、えっと……」
友梨佳が指折り数え始めると、陽菜が優しく口を開いた。
「8年。ちょうど、8年だよ」
「そっか……もうそんなに経つんだ」
二人の間に、時の流れが静かに降りてきた。
「いろんなことが変わったよね」
陽菜の瞳に、かつての牧場、泰造との思い出、リアンデュクールの誕生とダービーの歓喜がよぎる。
リアンデュクールはダービーの激走からの疲労回復が遅れ、秋までイルネージュファームでの放牧休養が決まっていた。今後の予定としては菊花賞は回避し、マイルチャンピオンシップを目標に調整することになる。
高辻牧場には放牧されているリアンデュクールを遠くからでも一目見ようと、連日大勢の観光客が押し寄せ、臨時に警備員を雇わなくてはいけない程の盛況ぶりとなっていた。
これをうけて、観光客誘致に力を入れたい舞別町との包括連携協定の話しもトントン拍子に進み、あとは正式に契約を締結するだけとなった。
「……でも、これからも変わらないこともあると思うの」
その言葉に、友梨佳がそっと手のひらを陽菜に向けて差し出した。手には小さなシルバーの指輪が入ったケースがのっている。
「友梨佳……?」
「あなたと出会って、世界が少しだけ優しくなった。笑って、泣いて、支え合ってきた時間が、私の宝物。……これからも、嬉しい日も、悲しい日も、辛い日も――」
うまく言葉が続かず、言葉を探して彷徨う友梨佳に、陽菜の目が潤んだ。
「もういいや、陽菜、おばあちゃんになっても、ずっとあたしと一緒にいて!」
陽菜はおもむろに友梨佳の頬にそっと手を添えると、やわらかに唇を重ねた。
「……これが私の答え」
そう言って陽菜は優しく微笑んだ。
「陽菜……」
「早く、指輪をはめて」
陽菜が左手を差し出す。友梨佳は少し震える指で、彼女の薬指に指輪をはめた。少しぶかぶかの指輪が陽菜の指で輝いた。
「えっ、ちゃんとサイズ伝えたはずなんだけど……」
「最近ちょっと痩せたかも? あ、ねえ、友梨佳の指輪は?」
「あ、うん。あるよ」
そう言って、友梨佳がもうひとつのケースを取り出し、陽菜に手渡す。陽菜がふたを開けると、小さな指輪が入っていた。
「左手出して」
陽菜が友梨佳の薬指に指輪をはめようとするが、入らない。
「……これ、まさか……」
陽菜は自分の指輪を外して友梨佳の指にはめた。ぴったりだった。友梨佳ももう一つの指輪を陽菜の指に戻すと、それもまたぴたりと収まった。
二人は顔を見合わせて、声をあげて笑った。
「もう、友梨佳!」
「だって、パッと見じゃ分かんないんだもん」
「そういう時はしまう場所を変えるの。ひとつはポケットの中とかに」
「……あー。陽菜、やっぱ頭いいね」
陽菜は呆れたように、でも愛しげに微笑んだ。
「まったく……ほら、行くよ。式が始まっちゃう。高柳牧師がわざわざ戻って来てくれたんだから」
陽菜が車椅子のリムを押し始める。
「ちょっと待ってよ!」
友梨佳がスノーベルを曳いて放牧地を出ようとしたその時、陽菜が振り返った。
「あ、そこ、馬糞あるから気をつけてって――」
その瞬間、友梨佳がぴたりと固まり、苦い顔をした。
「……友梨佳、まさか」
「そういうのは先に言ってよ! もう、踏んじゃったじゃん!」
「ええっ!? 早く履き替えてきて!」
「無理だよ、パンプスこれしかないもん。イルネージュファームで拭かせてもらう」
「もう……しょうがないなあ。じゃあ早く行こう」
二人は笑いながら、小路をゆっくりと下っていった。ミズナラの葉が揺れ、木漏れ日がその肩先に、そっと舞い降りる。
風が通りすぎるたび、どこか懐かしい夏の匂いがした。草のにおい、陽に焼けた土のにおい、そしてあの日の記憶――すべてが、そっとふたりの背を押していた。
友梨佳が曳くスノーベルの足音と、陽菜の車椅子の音がリズムを刻む。そのたびに、時がふたりを包み込んでいく。
何気ない会話、少しのすれ違い、ふとした笑い――そんな小さな出来事のすべてが、きっとこれからも、日々の中にそっと降り積もっていくのだろう。
「ねえ、陽菜。あの時、会えてよかったね」
小さな声に、陽菜は静かにうなずいた。
「うん、きっと神様のお導き」
それだけで、もう何も言葉はいらなかった。
そよ風が再び吹いて、道端のキンシバイが揺れた。
空には一羽のカモメが弧を描きながら、あの日約束を交わした海辺に飛んでいく。
ふたりの影が並んで、長く、道に伸びていった。