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Side友梨佳 第40話

『リアンデュクール、先頭でゴールイン! 今ここに、ダービーの歴史が塗り替えられました! 史上初の白毛のダービー馬、そして史上初の女性騎手による勝利です!』

 ゴール板を駆け抜けた瞬間、スタンドが揺れるような歓声に包まれる。その瞬間、美月と綾乃は肩を抱き合い、歓喜の声を上げた。

「やった……やった!」

「ほんとに勝った!」

 目に涙を浮かべ、飛び跳ねながら抱きしめ合う。その背後から、小田川がそっとふたりの肩に手を置いた。促されるように振り返ったふたりの視線の先には――遥がいた。

 遥は人目もはばからず、立ち尽くしたまま顔を両手で覆い、静かに嗚咽していた。その肩は小さく震えていた。声は出さず、ただただ涙があふれて止まらなかった。


 イルネージュファームの事務所では、テレビに映る勝利の瞬間に歓喜の声があがる。その熱気とは裏腹に、大岩は画面にすがるように身を寄せ、嗚咽を漏らしていた。

 抱きしめるように握りしめていたのは、一枚の古びた写真――若き日の泰造と共に並んで映る写真だった。

「……やったな、泰造さん……見てたか……」

 涙で滲むテレビの中の白い馬の姿を、大岩はまるで亡き友の面影を見るように見つめていた。


 東京競馬場の来賓室。ゴールの瞬間、エマは思わず両手を突き上げ、叫んだ。

「勝った……リアンが勝った!」

 彼女の歓喜に、周囲にいた同期の仲間たちも駆け寄って肩を組み、輪になって飛び跳ねながら喜んだ。

 エマの目にも涙が浮かんでいた。その姿を、教官は珍しく柔らかな笑みを浮かべて見守っていた。


 検量室前。

 陽菜の車椅子の横に、友梨佳が立っていた。指先は固くつながっているのに、身体の感覚は遠く、まるで地に足がついていないようだった。

 リアンデュクールがゴール板を駆け抜けた――目の前のモニターがそう告げていた。だが、ふたりの心はどこか宙に浮いていた。

 音が聞こえない。人々の歓声も、実況も、何もかもが遠く、水の中にいるようだった。

 ただ、胸の奥が、じわりじわりと熱くなっていくのを感じていた。

 信じたい。でも、信じられない。

 心が慎重に感情の扉を叩いている。壊れそうな期待を、両手でそっと抱いていた。

 そして、着順掲示板の1着に8の数字が、確かに浮かび上がる。

 その瞬間、友梨佳の目に溜まっていたものが、ぽろりと一滴、こぼれ落ちた。

 頬を伝う温かさに触れた瞬間、すべてが決壊した。

 こらえていたものが、いっせいに溢れ出す。

 陽菜の肩が震える。友梨佳の膝が崩れおちる。互いの手を握る力が、ふいに強まる。

 頬を伝う涙。潤んだ視界。体の奥底から突き上げるような衝動。

 感情はもう言葉では抑えきれない。

「おじいちゃん!」

 友梨佳が叫ぶ。幼子のようなその声は、嗚咽にまぎれ、天井にこだまし、陽菜もまた、肩を小刻みに揺らしながら、静かに涙を流し始めた。

 友梨佳は陽菜の膝に顔をうずめる。陽菜は両手で友梨佳の背を抱くように包み込み、額をそっと彼女の頭に寄せた。

 やがて、秋穂が走ってきてふたりを強く抱きしめる。

 続いて他のバレットたちも集まり、寄り添うようにふたりを包み込む。誰も何も言わなかった。ただ、涙の中でひとつになった。

 その輪の中心で、友梨佳は顔を上げた。瞳の奥には、涙の向こうに確かな光があった。

 あの日夢見た光景が、今、自分たちの前にある。


 レースを終え、リアンデュクールは2コーナーまでゆっくりと歩いたところで茜に手綱を引かれて止まった。

(……今のは、なんだったんだろう)

 ゴーグルを外し、周囲を見回す。さっきゴール前で確かに見えたはずの栗毛の馬――それは、どこにもいなかった。

 リアンデュクールは、まるで何かを探すように1コーナーの方をじっと見つめていた。やがて、一度だけ鼻を鳴らすと、前を向き直した。

「……リアンの、知り合い?」

 茜はそっとリアンの首筋を撫で、囁く。ふと、胸の奥に生まれた小さな空虚さに気づいた。

「……こんなものなのかな」

 ずっと夢見てきたダービー制覇。たしかに、それは叶ったはずだった。それなのに、心の奥にあるのは、歓喜でも達成感でもなく――喪失に近い、どこか満たされない感覚だった。

 その理由を、茜はうすうす分かっていた。

「よう、ダービージョッキー!」

 聞き慣れた声に振り向くと、ホーリーグレイスに跨った本橋が近づいてきていた。ホーリーグレイスは直線で見せ場を作ったが、最終的には8着だった。

 本橋はニヤリと笑いながら言った。

「……どうした、嬉しくないのか?」

 茜は少しうつむきながら、ぽつりと呟いた。

「私は……何もできませんでした」

「は?」

「リアンに道中の我慢を教えたのは天野さんで……まくって流れを変えたのは本橋さんで……最後に頑張ったのはリアンで……。 私は……ただ、乗っていただけです……」

 本橋はため息をつきながらも、すぐに静かに言った。

「まあ、それは確かにその通りだな」

 茜はさらに小さく肩をすくめる。

 だが――

「……でもな、リアンの力を全部引き出して、ゴールまで導いたのは間違いなくお前だ」

 その言葉に、茜の顔がはっと上がる。

「そこは自信持っていい。この大舞台で誰もができることじゃねぇよ」

「……本橋さん」

「納得いかねえなら、また明日から精進すればいい。理想の騎乗を目指してな」

「はい……ありがとうございます」

 茜の瞳に、ようやく光が戻っていた。

「さ、行ってこい。ウイニングラン。みんな、お前を待ってるぞ」

 本橋はそれだけ言うと、ホーリーグレイスを地下馬道へと駆けさせた。

 茜はスタンドを見やる。ウイナーズサークルの前には、待ちきれなかった三枝がターフへ駆け出してきていた。

 スタンドからは、茜とリアンデュクールを呼ぶ歓声が、まるで波のように押し寄せてくる。

「リアンが勝つなんて、思ってなかったくせに。ざまあみろ」

 そう笑いながら、茜はリアンデュクールの腹を軽く蹴った。リアンは軽やかにスタンドに向かって駆け出す。

 茜は右手を高く突き上げた。彼女のその手に、夢と希望と、そして泰造の思いが重なっていた。

 スタンドからは、地鳴りのような歓声が上がった。


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