Side陽菜 第6話
「異業種交流会?」
「はい。真田さんからお誘いいただいたんですけど……」
セリ会場は、扇形の客席が上下二段に分かれている。陽菜は車椅子を最後列のスペースに置き、遥はその前の席に腰を下ろした。
会場では既にセリが始まっていた。上場される仔馬が、牧場関係者に引かれながら鑑定台の前を歩き、進行役が金額を告げている。
「特に忙しい時期でもないし、陽菜が行きたいなら行ってみてもいいんじゃない」
イルネージュファームの上場馬は大岩たちスタッフに任せ、遥は目当ての仔馬のセリに参加するため、客席についていた。
「それにしても、随分気に入られたみたいね。デートにしては物足りないけど。それとも、外堀から埋めるつもりかしら」
遥は後段の席にいる真田泰人と涼平親子に視線を向けた。
「そんなんじゃないです」
陽菜はきっぱりと答えた。
「冗談よ」 遥はくすくすと笑った。
陽菜は少しむっとしながら、鑑定台の方を見る。
上場された仔馬は買い手がつかず、「主取り(しゅどり)」となっていた。 自分の名字と読み方が違うとはいえ、主取りという言葉を聞くたびに、陽菜は胸がざわついた。
近所の牧場に名刺を持って挨拶に行った時、例外なく牧場主から「えっ」という顔をされた。それだけ、主取りは生産牧場にとって死活問題なのだ。
ただ、皆優しいのか、陽菜の名字をからかう人はいなかった。
「ほら、高辻牧場の馬が出るわよ」
遥が鑑定台を指さして言った。
友梨佳が黒鹿毛の一歳馬を引いて現れると、会場がざわめいた。注目を集めたのは、仔馬ではなく友梨佳だった。 アルビノ特有の銀髪に、雪のように白い肌。スポーツサングラスをかけていても、その美貌は隠せない。さらに、キュロットパンツにポロシャツ姿といういでたちが、スタイルの良さを際立たせていた。
以前のセリで、酔った客が仔馬を引く友梨佳を見て、「馬はいらねえから、あの姉ちゃんを売ってくれ!」と叫び、怒った泰造がその客を殴りつけたことがあったらしい。その騒ぎでセリは一時中断。以来、場内への酔客の入場とアルコール販売は一時中止になったとか。 最初は冗談だと思っていたが、友梨佳の姿を見ていると、それも起こり得ると思えた。
セリは開始価格の三百万円から順調に値を上げ、最終的に五百二十万円で落札された。
良かった、と陽菜は自分のことのようにほっとした。
友梨佳の横顔が、一瞬微笑んだように見えた。
真田泰人が手を挙げる様子はなかった。友梨佳や泰造には悪いが、この程度の馬では動か
ないだろう。真田は既に三頭を落札し、いずれも四千万円を超える価格で購入している。
競り合っても勝ち目はない。真田がグランベレーザの24に興味を持っていないことを祈るしかなかった。
その時、進行役がアナウンスをした。
「上場番号50番。グランベレーザの24。父アポカリプス。二月二十日生まれ、栗毛の牡馬。舞別町シャインスターファームの生産。アポカリプスの初年度産駒です。アポカリプスはアメリカ、プリークネスステークス、ブリーダーズカップを制覇した実績馬です」
遥の表情から笑顔が消え、腕を組みながら、鋭い視線を展示台の仔馬に向けた。
「それでは、一千万円から始めます。ファーストコールはございませんか?」
会場から次々と声が上がり、あっという間に三千万円に達した。
遥も真田もまだ動かない。
価格が三千五百万円まで上がった。
「三千六百万円はいらっしゃいませんか? 三千六百万円、三千六百万円!」
会場から声が途絶えた。
その瞬間、遥が側に立つスポッターに向かって手を挙げた。
スポッターが大きなかけ声を上げ、購買希望者がいることを進行役に伝えた。
「三千六百万円、前段後方のお客様です。それでは三千七百万円はいらっしゃいませんか? 三千七百万円、三千七百万円!」
その時、後段のスポッターから声が上がった。
真田だ。
同時に、進行役がイヤーモニターに手を当てた。
「四千万円入りました。後段のお客様です。四千三百万円はいらっしゃいませんか?」
遥がスポッターを呼び、声をかけた。
「四千五百万円です。前段後方のお客様、ありがとうございます。五千万円はいらっしゃいませんでしょうか?」
間髪入れずに真田が手を挙げた。
それからは遥と真田の一騎打ちになった。
次々と値が上がり、その度に客の視線が遥と真田を行き来した。
「一億円です。ありがとうございます。一億千万円はいらっしゃいませんか?」
遥は表情こそ変えないものの、貧乏ゆすりが止まらない。
「はるか……代表、これ以上は……」
陽菜はたまらず声をかけた。正確な予算は知らないが、マシュマロの六千万円と合わせて一億七千万円以上も出せるはずがない。
「分かってる」
遥は陽菜の肩に手を置いた。諦めてくれた。陽菜が内心ホッとすると、遥はスポッターに手をあげた。
「えっ……」
陽菜が思わず声に出すと、
「分かってる。でも、お願い」
と、遥がつぶやいた。
「1億1000万。前段後方のお客様です。それでは1億2000万はいらっしゃいませんか?」
「1億2000万、1億2000万!」
進行役が声をかけるが、会場からは手が上がらない。
陽菜は真田の方を見上げると、真田泰人はパンフレットに目を落としている。
「1億2000万、1億2000万! ございませんか?」
(もう誰も手をあげないで)
陽菜は膝の上で手を組みながら祈った。
「ラストコールです。1億2000万はいらっしゃいませんか?」
会場から手は上がらない。
「ラストコールです! 1億2000万ございませんか?」
進行役がハンマーを上げる。
落札した。
誰もがそう思った瞬間、後段のスポッターが声をあげた。
セリが終了し、すべての手続きが終わるころには、夜の帳が降りようとしていた。
遥は缶コーヒーを手に、自分たちの馬房の壁にもたれて空を見上げていた。
グランベレーザの24は1億6000万円で真田泰人が落札した。遥も粘ったが、現在のイルネージュファームとシュバルブランの財務状況では、確実に走るかどうか分からない競走馬1頭に1億7000万円以上も出すわけにはいかない。
悔しいが、これが今のイルネージュファームとシュバルブランの現在地だ。
セリの結果自体は上々だった。イルネージュファームが上場した仔馬はすべて買い手が付き、そこそこ走ってくれそうな仔馬を2頭仕入れることができた。
遥は空になった缶コーヒーをゴミ箱に入れると、パンっと自分の頬を両手で叩いた。
頭を切り替えるための遥の儀式だ。買えなかったものは仕方ない。こっちにはマシュマロがいる。入厩するまでに鍛え上げて、日本中のホースマンが注目せざるを得ないほどの名馬にしよう。
「よし」 と、遥がもたれかかっていた馬房の壁から背中を離したとき、少し離れたところから心配そうに見ている陽菜と友梨佳に気が付いた。
「あの、代表……大丈夫ですか?」
おそるおそる陽菜が声をかける。
「大丈夫よ。何よ、そんなによそよそしく。そんなに落ち込んでるみたいだった?」
「落ち込んでいるというか、下手に近づいたら取って喰われそうな雰囲気だった」
友梨佳も珍しく及び腰になっている。遥が周囲を見渡すと、半径5m以内に誰かが近づいた形跡はない。
「もう大丈夫よ、切り替えたから。ごめんね、気を遣わせちゃって」
遥が笑うと、ようやく陽菜と友梨佳はホッとして遥のそばまで来た。
「グランベレーザの仔は残念だったけど、馬はみんな買い手が付き、上々でしょう。真田さんにいつでも仔馬は引き取りますからって伝えておいて」
「真田ってこの前牧場に来た人? 陽菜、その人と会うの?」
「9月の頭に異業種交流会に誘われているんだけど迷ってて……。興味はあるけど札幌まで行って一人で参加するのはちょっと……」
「気が進まないならやめといたら?」
友梨佳が素っ気なく答える。心なしか元気がない。
「うーん……。そうだ、友梨佳も一緒に行こうよ」
「え、あたし?」
「うん。一緒に来てくれたら心強いし、友梨佳も今後の事を考えたら人脈を広げておいても損はないでしょ。ついでに一泊して札幌観光してこようよ」
異業種交流会に興味はないが、陽菜とお泊まりして札幌観光するのは楽しそうだし、なにより陽菜と真田が自分の知らないところで接触されるのは癪だ。それに美味しいものにありつけるかもしれない。
「うん、わかった。おじいちゃんに聞いてみる。多分大丈夫だと思う」
「良かった。真田さんに連絡するね」
陽菜はさっそくスマホで電話をかけた。
(残念だったわね、真田さん)
遥は思わず笑ってしまう。
「真田さん、それでも大丈夫だって」
『それでも』というフレーズに真田の落胆さが伝わってくる。
(涼平さんの方に罪はないけどいい気味だわ)
目当ての仔馬を買われた悔しさが少しはれた気がした。
「さあ、帰るわよ。帰ったらご飯にしましょう。私のおごりよ、なんたって1億6000万円を使わずに済んだんだから」
「やったー!」
友梨佳は大喜びで陽菜の車椅子を押しながら駆け出す。
遥がふたりの後を歩いて行こうとすると、遠くの馬房でグランベレーザの24を前にして真田泰人と年老いた牧場主が握手している様子が見えた。
牧場主は両手で真田の手を握り、その横では牧場主の息子が帽子をくしゃくしゃに握りながら頭を90度にしてお辞儀をしている。牧場主の妻は二人の後ろで手拭いで目を押さえて泣いていた。
あの牧場主も起死回生の大博打を打ち、それに勝ったのだろう。 博打を打ったのは泰造だけではないということだ。おそらくは北海道中の牧場で同じようなことが行われているのだろう。ある者は博打に勝って牧場の命脈を保ち、ある者は負けて馬産業から退場してゆく。
「明日は我が身か……」
そうつぶやくと、遥は陽菜と友梨佳の後を追って歩きだす。
前を見るとイルネージュファームの車の前で、陽菜と友梨佳が笑顔で大きく手招きをしている姿が見えた。