Side友梨佳 第38話
「兄さん。私、8番の白い馬の馬券、買ってみたいな」
パドックの柵にもたれながら、香織がふと桐島に言った。目の前をゆっくりと歩く白い馬が、彼女の目を引いて離さなかった。
「じゃあ、“応援馬券”ってのを買ってみなよ。単勝と複勝がセットになってて、初めての人にも分かりやすいから」
桐島はそう言って、香織にマークシートの記入欄を教える。数字の並び、記入の仕方、塗りつぶす力加減まで、丁寧に説明するその様子に、香織は少しだけ笑った。
「なんか、看護の指導よりややこしいかも」
「慣れれば簡単さ。何事も経験だろ?」
香織が馬券売り場へと向かって歩き出すのを、桐島は後ろから見守る。やがて人混みに紛れるその背中を見送ったあと、彼はふっと表情を崩し、自分の手元に残されたマークシートに目を落とす。
指先が一瞬迷った末に、新しいシートをもう一枚手に取った。
香織が戻ってきて、得意げに馬券を見せた。
「見て。“がんばれ、リアンデュクール”って書いてある。何か、ちょっとワクワクするね」
彼女の目は子どものように輝いていた。普段は訪問看護の現場で忙殺されている彼女に、こんな表情を見せられる時間があるのは久しぶりだった。
「兄さんは何を買ったの?」
そう訊かれて、桐島はわざと視線をそらした。
「俺か? ……それは秘密」
「えー、ずるい」
小さく笑い合う二人は、肩を並べてスタンドの階段を登っていく。初夏の陽射しに包まれながら、観客のざわめきの中へと溶け込んでいった。
本馬場へ向かう地下馬道に、18頭の蹄音が低く重く、響き渡る。まるで地鳴りのように――。
検量室前を通ると、並んだ騎手候補生たちの整列した視線が一斉に注がれる。静かな緊張感が場に漂う中、エマが小さく両手でガッツポーズを作ってみせた。それは、言葉の代わりの「行ってらっしゃい」だった。
ウィナーズサークルへ向かう上り坂。その向こう側から、まばゆい光が射し込む。目の前に広がるのは、数万の観衆が詰めかけた、日本ダービーの舞台――。
歓声と拍手が一歩ごとに膨らんでいく。まるで、その音が心臓の鼓動と共鳴しているようだった。友梨佳は、リアンデュクールの引き綱を握る手に自然と力がこもるのを感じた。
「……お馬の親子は、仲良しこよし。いつでも一緒に、ぽっくりぽっくり歩く……」
鞍上の茜が、まるでおまじないのように、小さく歌を口ずさんだ。
「あんたが緊張してたら、リアンにも伝わっちゃうでしょ」
茜の微笑みは、嵐の中に差し込む一筋の光のようだった。
それに、友梨佳も三枝も、自然と笑みを浮かべる。三人の声が重なり、小さな輪唱のように続く。
『お馬の親子は仲良しこよし。いつでも一緒に、ぽっくりぽっくり歩く……』
だがその歌声は、次第に膨れ上がった大歓声の波に呑まれていった。
ウィナーズサークルの奥――緑のターフが広がるその場所に、リアンデュクールが登場する。
G1本馬場入場曲『Glory』の荘厳な旋律が流れ出し、場内アナウンスが響いた。
『栄えある一族の誇りを胸に、なるか白毛初のダービー制覇。8番リアンデュクール、馬体重500キロ丁度、前走弥生賞よりプラス4キロ。鞍上は、勝てばこちらも女性初のダービー制覇となります、桜木茜騎手、55キロ』
歓声が一段と大きくなった。リアンデュクールが内ラチ沿いに歩を進め、茜がそっとその歩みを止める。
風が吹き抜け、友梨佳の髪が舞う。見上げれば、圧倒的なスケールの観客席。そのすべてが今日という特別な日を見つめている。
(……これが、ダービーなんだ)
まぶたの裏に浮かぶのは、春の嵐の中で震えながら産声を上げた白い仔馬。
他の仔馬を押しのけるようにして走り回り、擦り傷だらけになりながらも立ち向かっていたあの姿。
調教中に跳ね飛ばされ、泥だらけになった自分。
そして、穏やかな夕暮れの放牧地で、ゆっくりと歩調を合わせて歩いた、あの静かな時間――。
そして今、リアンデュクールはこの場所にいる。
9万人の視線が注がれる、栄光と名誉の舞台に。
地鳴りのような歓声の中、場内アナウンスすらかき消されていく。
ふと、友梨佳の目に映ったのは――スタンドの視線が一斉に向く、その先。
現れたのは、黒鹿毛の王者――ロイヤルストライド。
静かに、だが確実に空気が変わる。
4コーナーへ向かって駆け出すその姿に、スタンドのどよめきが追随して波のように押し寄せる。
その存在はもはや偶像だった。圧倒的なパフォーマンス、無敗という勲章、誰もが「この馬が勝つ」と信じて疑わぬ怪物。
「私、ダービーはもっと厳かであるべきだと思うのよ。ロイヤルストライドの馬券を買った人には悪いけど、ちょっと黙らせて来る」
茜がイタズラっぽく口元を上げた。
それは、覚悟を隠す冗談の仮面。
「頼むぞ、茜」
三枝がそう言って、引き綱の留め金を外す。
続いて、友梨佳も指を添える。指先が震えていた。
ここで手を離したら、もうリアンに何かあっても、自分には何もできない――そんな思いが、心の奥を締め付ける。
「……友梨佳」
茜の声が、優しく包み込むように響いた。
「リアンは必ず無事に、友梨佳のもとに送り届ける。だから、心配しないで」
「……茜っち」
「お姉さんを、信用しなさい」
「わかった。リアンをよろしく……お姉ちゃん」
互いに微笑み、拳を重ねる。グータッチ――それは、固い絆の約束。
友梨佳が留め金を外すと、リアンデュクールは一瞬の躊躇もなく、まるで何かに導かれるように4コーナーへ向けて駆け出した。
その背中を見送りながら、友梨佳の両脇を、他の出走馬たちが風のように駆け抜けていく。
風に揺れる髪を押さえながら、友梨佳はそのひとつひとつの馬体を見送った。
いよいよ――全馬が本馬場入りした。
その直線には、巨大なスターティングゲートがゆっくりと運び込まれていた。
牽引車に押されるそれは、まるで運命そのもののように、静かに、着実にその場所へと据えられようとしていた。
友梨佳が地下馬道を下り、検量室前に戻ってくると、モニターの前に陽菜が待っていた。
「陽菜!」
思いがけない姿に、思わず声が弾んだ。
「みんなと一緒に馬主席に行ったのかと思った」
笑顔が自然とこぼれる。
「ううん、今日だけは――どうしても、友梨佳と一緒に見たかったから」
陽菜の声は少し震えていた。気持ちを押し殺すように、それでもはっきりと。
「……あたしも。陽菜と一緒に見たかった」
友梨佳は陽菜の隣に立ち、ふたり並んでモニターを見上げた。
ゲートの裏で各馬が輪乗りを始めていた。モニターの中で、三枝に曳かれたリアンデュクールがゆっくりと画面を横切る。
純白の馬体が陽に照らされ、まるで神話から抜け出した幻獣のように輝いている。
ふたりは言葉もなく、ただ黙ってその姿を見つめる。
やがて、場内の歓声が遠くから波のように押し寄せ、ターフビジョンに映し出される煽りVTRが始まった。
重厚な音楽が流れ、歴代のダービー馬たちが一頭ずつ、まるで伝説のように画面に現れる。名馬たちの走りが繋がれ、今この時へと続いていく。
それを見ながら、陽菜がぽつりと呟いた。
「……ねえ、友梨佳」
「うん?」
「結果がどうであっても、リアンが戻ってきたら――いっぱい、いっぱい褒めてあげようね。『よく頑張ったね』って」
友梨佳はうなずいた。涙が出そうになるのを、ぐっと堪えて。
「うん、もちろん。もう、手垢で真っ黒になるまでワシャワシャしてやるんだから」
ふたりは顔を見合わせ、そして笑った。
その笑顔の裏には、ここまで一緒に歩んできた時間と、胸いっぱいの祈りが詰まっていた。
煽りVTRが静かに終わる。
次の瞬間――場内に、ファンファーレが高らかに響き渡った。
日本ダービーの幕が、ついに上がる。
ふたりは、どちらからともなく手を取り合った。
鼓動が手のひら越しに伝わる。震える指先を、互いの温もりで包むように、強く、しっかりと握った。