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Side友梨佳 第37話

『拝啓 高辻友梨佳様

 お元気ですか? 私は無事に競馬学校の2年生に進級しました。

 周りは騎手の息子だったり、小さい頃から乗馬クラブに通っていたような人ばかりで、正直プレッシャーはありますが、なんとか食らいついています。これもひとえに、高辻牧場で教えていただいた乗馬や厩舎作業のおかげです。

 今日は、東京競馬場の検量室前に来ています。日本ダービーの見学です。本来は1年生のカリキュラムですが、去年はスケジュールの都合で中止になったので、今年は1年生と合同で実施されることになりました。

 8万人を超える観客。厩舎関係者たちは張り詰めた空気をまとい、出走しない騎手たちでさえ、どこか落ち着きがありません。やっぱり、ダービーは“特別”です。

 普段は温厚な教官までもが、今日は明らかに空気が違います――』


 エマは、他の候補生たちと並んで教官の前に立ち、静かに話に耳を傾けていた。

 教官は、いつもの冷静な口調のまま、だがひときわ強い眼差しで語り始めた。

「――日本ダービー。知っての通り、正式名称は『東京優駿』。年に一度、三歳馬の頂点を決める、唯一無二のレースだ。

 すべてのホースマンにとっての“夢”であり、ここに立つことは、馬主にとっては栄誉、調教師にとっては誇り、厩務員にとっては報われる努力。そして――騎手にとっては、生涯に一度あるかどうかの“宿命”だ。

 この舞台で勝った者は、“ダービージョッキー”として歴史に名を刻まれる。

 どれだけ勝ち星を重ねようと、この称号を持つか否かで、その騎手の格は決まる。

 君たちはただ見学しに来ているのではない。将来、この場所でダービーを制し、勝利の鞭を掲げる――その瞬間を想像しろ。

 ダービーに乗れるのはほんの一握り。勝てるのは、たった一人。その“一人”になれるのは、覚悟を決めた者だけだ。

 忘れるな――ダービーは、騎手を選ぶ。選ばれる者であれ」

 一言ひと言が、鋭く胸に突き刺さる。候補生たちは皆、背筋を伸ばし、引き締まった表情で黙って教官を見つめていた。


『友梨佳先輩は、どこで観戦していますか?

 私もいつか、ダービーに出られる騎手になります。できれば――先輩が育てた馬で』

 そう心の中で呟いた瞬間。

「エマーっ!!」

 突然、背後からの大声と共に、エマの胸が鷲掴みにされた。

「きゃっ!!?」

「エマ、久しぶりー!」

 声の主は友梨佳だった。グレーのパンツスーツ姿の彼女は笑顔のまま、両手でエマの胸を揉みしだいている。

「な、これやるとええ声聞けるやろ?」

 後ろから関西弁の女性が満足そうに言った。秋穂――関西の競馬場で働くバレットで、今日は雇い主の騎手に同行して東京競馬場に来ていた。

「ほんと、『きゃっ』だって!」

「友梨佳先輩、何するんですかっ!?」

 顔を真っ赤にしたエマが抗議すると、友梨佳はケラケラと笑いながら言った。

「だってさ、一年ぶりに見たら、ちょっと大人になってたんだもん。つい触りたくなったというか、愛情表現? ……おっぱいの方はあんまり変わってなかったけどね」

「別にええんちゃう? おっぱい重すぎて負担重量超過になったら最悪やん。かといって片っぽだけ減らすとか無理やしな」

 二人は顔を見合わせ、悪ふざけのように笑う。

「よ、余計なお世話ですっ! それより、どうしてここに? 馬主席にいるんじゃ……」

「あたし、今日は影山厩舎のアシスタントに戻ってるの。リアンを二人で曳くことになってね。皐月賞の時に亮ちん一人で曳いてたんだけど、抑えきれなくて脚ぶつけたかもってテキが言ってて。リアンに噛まれずに曳けるのは、亮ちんとあたしぐらいだから」

 そのとき――教官が、無言で近づいてきた。

「……現在は見学とは言え、騎手課程のカリキュラム中です。しかもここは検量室前。騎手たちが命を懸けて臨む神聖な場です。これ以上妨害行為が続くなら、然るべき報告をしますよ?」

 静かな口調の裏に、怒気が滲んでいた。眉間には深いしわ。片眉がぴくぴくと痙攣している。

(やばっ……調子に乗りすぎた……)

 友梨佳と秋穂の顔色がさっと変わる。

 ちょうどそのとき、装鞍所からつながる地下馬道に、白地に金の糸で縁取られたゼッケンを背にしたダービー出走馬たちが次々に姿を現した。

 ――8番。リアンデュクールも三枝に曳かれて現れる。三枝はこの日のために新調した濃紺のスーツを身にまとっていた。

「す、すみません! あたし、行かなきゃ!」

 友梨佳は秋穂に「ゴメン」と小さく目配せしながら、リアンデュクールに駆け寄っていった。

「……ちょ、ちょっと友梨佳!」

 取り残された秋穂は一瞬戸惑い、横目で教官の様子をうかがう。

 教官は冷ややかな目で秋穂を見つめていた。

 いたたまれなくなった秋穂は、じりじりと後退しながら言った。

「あ、あの……私も呼ばれてるっぽいんで……失礼します!」

 そう言って、そそくさと検量室の中へと逃げていった。

 教官は深いため息をついた。

「……結城。あれは知り合いか?」

「関西弁の方は初対面ですが、もう一人は、私にとって大先輩であり恩人です。あの人がいなかったら、私は今ここに立っていません」

 エマはそう言いながら、リアンデュクールの横を歩く友梨佳の背中を、まっすぐに見つめていた。


 ***


 日本ダービーのパドックにリアンデュクールが姿を現した。五月の陽光を浴びて、白い馬体がまるで彫像のように輝いているのが、サングラス越しの友梨佳の目にもはっきりと映る。

 近づけば、彫刻のように浮かぶ筋肉のしなやかな動きが手に取るようにわかった。

 大きく、ゆったりとした歩様。発汗は適度で、目つきも落ち着いている。精神の昂りも見られない。

「これなら力はちゃんと出せる」

 友梨佳は、確信するように小さく呟いた。

 皐月賞のときと同じように、パドックの柵の半分はリアンデュクールを応援する横断幕で埋め尽くされていた。彼が通るたび、カメラのシャッター音が一斉に響く。

 それでも、馬券の人気は6番人気。リアンデュクールがこれまで出走してきた中でもっとも低い評価だった。

 友梨佳が電光掲示板に視線を移すと、オッズは「12.0倍」の数字を示していた。

 小さくため息をついたその瞬間、パドックがざわめいた。

 15番のゼッケンをつけた黒馬、ロイヤルストライドが入ってきた。

 艶やかに光る黒い馬体が、人々の視線を一気にさらう。

 圧倒的1番人気。オッズは1.7倍を示していた。

 オッズは人気投票に過ぎない――そう理解していても、割り切れない感情が胸に残る。

 もやもやした気持ちを抱えながら曳き手のロープを握っていると、

「8番の馬ひいてる子、綺麗じゃね?」

「やば、ハーフかなんか?」

 すぐ近くの若い男たちの声が耳に入った。

 友梨佳は、たわむれに微笑みを返す。

「まじ、ヤバ! お姉さん、インスタやってる?!」

「ID教えてよ、フォローするから!」

 色めき立った男たちの声が、パドックの静寂を乱す。

「うるせぇ! 馬が驚くだろうが! 黙って見てろ!」

 隣にいた中年男性が声を張り上げた。

「あぁ? てめえこそうるせえだろ、ジジイが何言ってんだよ!」

「なんだと、この野郎……!」

 中年男が掴みかかり、たちまち取っ組み合いに発展する。

 騒ぎに驚いた馬が身を翻すような素振りを見せる。

 警備員がすぐさま駆けつけ、男性たちは皆取り押さえられてパドックの外へと連れて行かれた。

「……男って本当に馬鹿。ね、亮ちん」

 何事もなかったかのように微笑みながら、友梨佳が言う。

「……俺は何も言えねぇ」

 三枝は呆れたように目をそらした。

 一方、パドック中央――8番の札の前に立つ影山は、ため息混じりにぼやく。

「……また余計なことしやがったな……」

「うちの友梨佳がすみません……」

 陽菜が肩をすぼめて謝った。

 その隣で、美月がぽつりと呟く。

「……私なら、陽菜先輩に迷惑なんてかけないのに……」

「……?」

 陽菜が美月を見上げると、美月はあわてて視線をリアンデュクールに向けた。

「で、遥はここまで来て何してるんだ?」

 影山が問いかけると、遥はスマホで競馬中継を観ていた。

 画面の中には、スタジオで微笑む弓の姿。

『最近はゲームやアニメがきっかけで競馬を始める人が増えましたが、天野さんはどうお考えですか?』

 司会者の質問に、弓は柔らかく頷く。

『競馬の良さを知ってもらう良い機会だと思います。良さを知っていただけたら、もう少し踏み込んでみても良いかもしれませんね』

『踏み込むと言うと?』

『一口馬主なんて、どうでしょう。例えばシュバルブランなら会費もお手頃で、初心者にも親切な運営をしています』

「よっしゃ!」

 遥が小さくガッツポーズ。

『いやいや、テレビで宣伝されちゃ困りますよ〜』

『あら、ごめんなさい。こういうの慣れてなくて、つい⋯⋯』

 弓がわざとらしく微笑む。

「さすが天野さん。でかしたわ」

 遥がスマホをしまいながら言った。

 弓にテレビ出演の依頼が来た時、シュバルブランの名前を一度だけ出すことを条件に、遥が交渉していたのだった。

「そんなに凄いことなんですか?」

 美月が尋ねる。

「当たり前でしょ。無料で、全国放送で宣伝できるなんて滅多にないわよ」

「影山先生!」

 そこに後藤が駆け寄り、影山に力強く握手を求めた。

「やあ、後藤さん。申し訳ないが今日はよろしく頼むよ」

「ダービーに出られるだけで、もう十分です。感謝してます」

「……そうか。すまないな」

「影山先生は恩人です。なんなりと」

 その時、パドックに騎乗命令が響いた。

「それでは」と言い残し、後藤はホーリーグレイスへと駆けていく。

「後藤さんと何かあったんですか?」

 陽菜が尋ねた。

「ちょっとな……」

 影山が答えるころ、リアンデュクールが曳かれて陽菜たちのもとにきた。

 レースが近づいているのを察したのか、首を高く振り、前脚で地面を掻き始める。

「いい気合いだ」

 影山がその首を軽く叩く。

 そこへ、勝負服姿の茜が現れた。

 白地に緑の山形一本輪、青い袖。雪と空と大地――シュバルブランの象徴がそこにあった。

 友梨佳は、茜のその姿を見て、昨年の夏を思い出す。喉の奥がきゅっと締めつけられるような痛みが走った。

「なに見とれてんの。手、貸して」

 茜が片足を差し出す。

 タイミングを合わせて友梨佳が押し上げると、茜は軽やかにリアンデュクールに跨った。

「この前話したとおり、後方からで行くのか?」

「はい。腹はくくりました」

 影山は静かにうなずいた。

「ねえ、陽菜。久しぶりに――アレ、やろうよ」

 友梨佳が陽菜に言った。

「アレって……お祈りのこと?」

「うん。昔みたいに」

「いいわね、こういうときこそ。リアンも落ち着くかもしれないし」

 遥も微笑んで頷く。

「確か、陽菜さんってクリスチャンだったよな。俺んちは真言宗だけど……」

 影山が戸惑い気味に言うと、陽菜はにこやかに答えた。

「大丈夫。神様は、何よりも寛大な方です」

 陽菜がリアンデュクールの肩に手を置く。

 友梨佳、遥、影山、美月、三枝――全員が馬に手を添えた。

 茜は鞍上で、目を閉じる。

「愛する天の父なる神様。今、私たちはあなたの御前に、感謝と願いの心をもって祈ります。

 この日を迎えることができたこと、あなたの導きと守りの中でリアンデュクールがここまで歩んでこられたことを、心から感謝いたします。

 主よ、この馬を世に送り出した泰造の思いを、あなたはすべてご存知です。

 土のにおいと共に生き、いのちを愛し、リアンデュクールにその魂を込めた泰造は、今この地上にはいません。しかし私たちは信じます――彼のまなざしは、今も天のふところからこの光景を見つめていることを。

 どうか、リアンデュクールがその命のすべてを込めて、無事に、力強く走りきることができますように。

 あなたの御心であるならば、願わくは、勝利の栄冠を得ることができますように。

 泰造が見られなかったこの景色を、私たちがしっかりと見届け、心からの賛美をあなたに捧げることができますように。

 すべての命を守り、慰めと希望を与えてくださる主イエス・キリストのお名前によって、お祈りいたします。――アーメン」

『――アーメン』

 全員が祈りを口にし、互いに顔を見合わせる。その目には決意が宿っていた。

「よし、行ってこい」

 影山の一言に、友梨佳と三枝がリアンデュクールを曳いて、地下馬道へと姿を消していった。

「馬を送り出したら、もうこっちには何もできねぇ。……いつもはそれが悔しかったが、今日は違う。俺も一緒に戦う気になれたよ。……陽菜のおかげかもな」

 影山は陽菜の肩を軽く叩いた。


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