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Side友梨佳 第36話

『もっと落ち込んでるかと思った。意外と元気そうで良かった』

 スクリーンに映った茜が、柔らかな表情で友梨佳に声をかけた。

 ここはイルネージュファームの会議室。影山とのWEB会議のため、遥たちシュバルブランのメンバーと友梨佳が集まっていた。

「辛いのは辛いけど、一緒の時間をたくさん過ごせたし……気持ちの整理は、それなりにつけたつもりだよ」

 友梨佳が静かに答えると、茜がホッとしたように微笑む。

「それなら良かった。……じゃあ聞くけど、何で天野さんがそこにいるの!?」

 カメラの画角に入るように、友梨佳の隣に座っていた弓が手を振った。肩がくっつくほどの距離感だ。

 一方その反対側では、陽菜が必死に感情を抑えているのが伝わってくる。

「舞別総合病院の神経内科で、iPS細胞を使った治験を受けられることになったの。だから、しばらくこっちにいるのよ」

「だからって、天野さんは部外者ですよね?」

 その言葉に、弓は落ち着いた動作でジャケットの内ポケットから名刺を取り出すと、WEBカメラにぐっと近づけて見せた。

「申し遅れました。私、5月より株式会社シュバルブラン広報担当となりました天野弓と申します。以後お見知りおきを」

 ニコッと、弓がいつもの調子で微笑む。

「え!? それって、どういう……」

「天野さんには、コラムやレースの予想を掲載したり、競走馬育成のアドバイザーになっていただくわ。広告塔としても申し分ない。オファーを出すのは当然でしょ?」

 遥が何でもないようにそう言った。

「それは、まあ……陽菜さんはいいの?」

 視線を向けられた陽菜は、ぐっと唇を噛みしめながら答える。

「いいも何も、代表が決めたことですから」

 苦虫を噛み潰したような顔つきで、陽菜は友梨佳と弓を交互に睨むように見る。その視線に気づいた弓が、わざとらしく友梨佳の腕に自分の腕を絡めた。

「!!」

「ちょっ……ユーミン!」

「ごめんなさい。だって陽菜さんの反応が可愛いから」

 弓がいたずらっぽく笑う一方で、陽菜の背中からは、目に見えない殺気が立ち上っている。

 その様子を離れた席から見ていた美月が「……はーん」と、意味ありげに頷いた。

(……美月ちゃん、絶対悪いこと考えてる)

 隣に座っていた綾乃が、ヒヤヒヤしながら美月の様子を横目で確認していた。

 そのとき。

『遥のとこのゴタゴタはそっちでなんとかしてもらうとして、そろそろ始めましょうか』

 スクリーンから影山の低く落ち着いた声が響き、会議室に緊張感が戻る。

『今日集まってもらったのは、リアンの脚と次のレースについてです』

 皆が姿勢を正し、画面を見つめる。

『リアンの左前脚については問題ありません。皐月賞の翌日には腫れも引いており、火曜日からは通常の稽古も再開できました』

 安堵の気配が室内に広がる。だが、影山の表情にはまだ慎重さが残っていた。

『ただ、距離の壁が予想以上に厚い。2000メートルまでは耐えられるが、2400メートルとなると……強めに追っただけで、脚がきしみ、体も苦しそうによれる』

 影山は一瞬間を置いた後、さらに言葉を続ける。

『母親の血統や体格、そして気性から判断するに、ベストはマイルだろうと思います。それを踏まえたうえで、次走について検討していただきたい』

 影山の声に重みが宿る。

『現状、登録可能なレースはふたつ。NHKマイルカップ、そして日本ダービー。もしリアンの脚が万全なら、迷わずダービーを選ぶところです。しかし、いまの状態では2400メートルを走りきれる保証はない。おそらく、リアンは気力だけでゴールまで持っていこうとするでしょう。文字通り骨が砕けても止まらないかもしれない……』

 その言葉に、友梨佳の肩がピクリと震えた。

『マイル戦なら、リアンの力を最大限に引き出せる。会員の皆さんにとっても、実績を残すことは大きな意味を持ちます。とはいえ、最終判断はシュバルブランにお任せします。私たちはどんな道でも全力を尽くします』

 会議室に沈黙が落ちる。

 静寂の中、友梨佳のすすり泣く声が微かに響いた。

「……できれば、できることなら、もう帰って来てほしい。……一緒に暮らして、散歩して、歳をとって、最後はうちの土に還したい……。 だって、おじいちゃんが最後に作って、あたしが初めて馴致までした馬だもん。それって、おかしい……?」

 誰も言葉を発せず、ただ沈黙が流れた。

「……友梨佳、覚えてる? スローガレットのこと。リアンの、たった一頭のお友達だった馬……」

 陽菜が小さく呟いた。

「スローガレットは、悔しかったと思う……悲しかったと思う……。 走るために生まれてきたのに、スタートに立つことさえ許されなかったから」

 言葉を重ねるにつれ、陽菜の声が震える。その瞳には涙があふれていた。

「リアンはあの時、スローガレットの首筋に自分の首を擦り寄せてた。まるで、君の夢も一緒に背負うって誓っているみたいに。リアンは、スローガレットの想いも背負って走ってる。だからきっと、苦しくても、どんなに辛くてもダービーを、日本一を目指して走ると思う」

 陽菜の目に涙が溢れ、頬を伝ってこぼれ落ちる。

「……おじいちゃんも、友梨佳も、リアンに夢を託して頑張ってきたんでしょ? リアンを、日本一にするために」

「Horse Racing Together。その理念に共感して、会員さんたちもリアンに夢を託してくれた。『一緒に競馬をしよう』『一緒に夢を分かち合おう』って……。ここで、勝てそうだからって目標を変えたら、私たちはその想いを裏切ることになる」

「……でも、それでリアンが……死んじゃったら……」

『そんなことには、私がさせない。絶対に止めてみせる』

 スクリーンの中の茜が、強い決意を込めて言った。

「友梨佳、一緒に行こうよ。日本ダービーに」

 陽菜は涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、まっすぐに友梨佳の目を見つめた。

「行きましょう」

 美月と綾乃も、力強く言葉を重ねる。

 スクリーンの向こうの茜もうなずいた。

「『ダービーに連れて行って』って、言ったのはあなたよ。友梨佳ちゃん」

 弓の静かな声が響く。

「……そうだね。私が言ったんだ」

 友梨佳は涙を拭い、口元に微笑みを浮かべた。

「うん、行こう。日本ダービー」

 遥が、満足そうに微笑んだ。

「影山先生、これがシュバルブランの総意です。リアンデュクールを日本ダービーに登録してください」

『分かりました。日本ダービーへの出走登録、進めさせていただきます』

 その瞬間、スクリーンの向こうから歓声が上がった。

『ついにダービーで勝負ができる! ちきしょう、この時をずっと待ってたんだ!』

 スピーカーから大滝の力強い声が響き渡った。

『申し訳ない。うちとしても、本気でダービーを狙いに行くのは今回が初めてでね。しかも、皐月賞で5着に入ったホーリーグレイスと、リアンの2頭出しだ。否応なしに盛り上がっちまってな』

 影山が肩をすくめ、苦笑いを浮かべながら言った。

『それで――ダービーの作戦だが、茜』

 彼は茜に促した。

『追い込み策は、どうしてもレース展開に大きく左右されます。それに……リアンは自分から競馬を作れるほど器用なタイプではありません。不安はありますが――脚の負担を考えれば、やはり後方に待機して、直線一気に賭けるしかないと判断しています』

 茜は慎重に言葉を選びながらも、はっきりとした口調で答えた。

「美月ちゃん、レース展開に左右されるって……どういう意味?」

 綾乃が声をひそめて、美月にそっと尋ねる。

「レースのペース次第ってことよ。ペースが速くなれば、先行馬はバテやすくなるから、後ろからくる馬――つまり追い込み馬が有利になる。でも、逆にスローペースになると、先行馬のスタミナが残るから、後ろからじゃ届かなくなる」

「じゃあ、ハイペースになればリアンに有利なんだね」

 綾乃が期待を込めて言うと、横から陽菜が口を挟んだ。

「単純にそうとは言えないのよ。ハイペースでも、後方の馬は追走で脚を使ってしまうこともあるし、直線で前が壁になって、進路がふさがれることだってある。だから、追い込み策は展開に左右されやすいの」

「でも、今回は逃げ馬が2頭いるよね? ブリーズフロントとセットザリズム。だったらハイペースになるんじゃない?」

 友梨佳が少し身を乗り出すようにして、隣の弓に同意を求めるように言った。

「どう思う、茜?」

 弓は答えず、あえて話を茜に振った。

『たしかにハイペースにはなるでしょう。でも……前が総崩れになるような極端なペースには、ならないと思います』

 茜は首を振りながら、冷静に言葉をつないだ。

「その理由は?」

『ブリーズフロントは、とにかく先頭に立たないと自分の競馬ができない馬です。だから、必ずハナを奪いにくるでしょう。でも、セットザリズムは違う。あの子は自分のリズムで走れればいいタイプだから、無理にブリーズフロントと競り合ったりはしないと思います』

「私も同感ね。ペースが一定で極端に速くならなければ、自在性のあるロイヤルストライドが最も恩恵を受ける展開になるわ」

 弓の言葉が場に響き、ふいに静寂が落ちた。

「……あら? みんなどうしたの?」

 弓が首をかしげて周囲を見渡す。

「だって……こうも不利なレース展開じゃあ……」

 友梨佳がうつむき加減につぶやく。

「展開が向かないなら、向くようにすればいい。そうでしょ、影山先生?」

 弓がきっぱりと言い放った。

「ふむ……」

 スクリーンの向こうで腕を組んだ影山が、低く唸った。しばし考え込むように、沈黙が続いた――。


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