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Side友梨佳 第35話

 春がようやく牧場に戻ってきた。

 まだ人の多い場所は避けていたが、友梨佳の顔に少しずつ笑顔が戻って来た。

 ブラシを片手に、馬房の中で馬に語り掛けながら背を撫でる。馬はすべてを受け止めてくれていた。

 泰造は離れたところから、そっと孫の姿を見守っていた。

 風に揺れる髪。笑顔で馬の鼻面を撫でる仕草。しかし、ふと、その顔に一瞬だけ陰が差す。

(まだ……時間がかかるな)

 泰造はそう思いながら仕事に戻った。


「おじいちゃん、友達ができた!」

 夏のある日、放牧地をスノーベルに乗って巡視していた友梨佳が戻ってくるなり大声で叫んだ。

「友達……高校のか?」

「ううん。東京の子。横浜から来たんだって。車椅子に乗ってて、リハビリで舞別に来てるんだって。陽菜ちゃんって言うの。そこの放牧地で会ったの」

 友梨佳が断片的な情報を早口でまくしたてるので詳細が分からなかったが、「友達ができた!」の一言を聞いたとき、泰造の胸の奥に、温かい何かがじんわりと広がっていた。

 長く、冷たく閉ざされていた扉が、やっと開いた気がした。

「そうか。じゃあ今度うちに連れて来なさい」

「うん。もう約束してる。おじいちゃん、陽菜ちゃんをスノーベルに乗せてあげたいから、軽トラの荷台使わせて」

(忙しくなるな……)

 泰造は苦笑いしながらも、心が明るくなるのを感じていた。


 ***


 最初に建ったのはログハウスだった。

 その場所は、かつて泰造と息子の良樹が古びた倉庫を改装し、牧柵の修理道具や馬具を仕舞っていた一角だった。年季の入った木の扉、錆びた釘、雨の日には湿り気を含んだ藁のにおい。あの頃の記憶が、まだそこに染みついている気がした。

 新しく建てられた厩舎は、風通しのいい設計で、繁殖牝馬、休養馬、そして老齢の馬たちが安心して過ごせるよう、細かな工夫が施されていた。

 そしてさらに、隣接する放牧地――かつて高辻牧場が使っていた広々とした草地には、新しくイルネージュファームの育成施設が建てられた。分場としての役割を持ちながら、若馬たちがのびのびと育つ場所。新しい命が、新しい時代を紡いでいく、そんな象徴だった。

 泰造は、家の前に据えた木製のベンチに腰を下ろし、両手を杖の上に重ねていた。

 季節は春。風が柔らかく、牧草の青が目にしみる。

 目の前で繰り広げられるのは、変わってゆく牧場の風景。

「……よくもまあ、ここまで変わったもんだな」

 泰造は誰にともなくつぶやくと、小さく笑った。

 放牧地の一角では、友梨佳が観光客の子どもを馬の背に乗せて、ゆっくりと引き馬をしていた。

 陽菜の声も風に乗って届く。ログハウス内の売店で、笑顔でレジを打ち、観光客と軽く言葉を交わしている。

 泰造は目を細めながら、その光景を静かに見つめた。

 そして視線を移した先、遠くの放牧地では、母馬の足元をくるくると駆け回る白い仔馬の姿があった。

 跳ねるように走るその小さな体。時折、母馬の下に潜り込み、また飛び出す。

 風が吹く。青草の香りが鼻をかすめる。

(……この光景だけは、いつまでも変わらんな)

 心の奥に、ふっと温かいものが灯る。

 泰造は大きく、ゆっくりと深呼吸をした。

 まぶたを閉じると、太陽の明るさが透けて見えた。


 ***


 泰造は、ふっと目を覚ました。

 夜明け前の、まだ薄闇の中に沈んだ寝室。

 ベッドの隣に敷かれた布団では、友梨佳と陽菜が静かに寝息を立てている。

 泰造は音を立てぬようにベッドから身を起こし、そっと布団の縁に膝をつくと、友梨佳の額に手を伸ばした。温かな額に、しばし掌を添える。

 そして一度、小さく微笑むと、立ち上がって部屋を後にした。

 厩舎の中に入ると、冷たい朝の気配とともに馬たちの息づかいが広がった。

 泰造に気づいた馬たちは、鼻を鳴らし、首を振り、前脚で床をかいた。

 泰造は一頭ずつ、丁寧に顔を撫でて回る。

 出産が遅れている牝馬の馬房に入ると、彼はその大きな腹に手を添え、優しくさすった。

「もうすぐだな……。 だが、五月生まれじゃ買い手がつきにくいかもしれん」

 ぽつりと独り言をつぶやきながら、泰造は馬の首をパンパンと軽く叩いた。

 馬房を出ようとしたとき、視界の隅にゴム長靴のつま先が映った。

 顔を上げると、作業着姿の良樹が立っていた。その隣には香織が寄り添っている。

「親父、久しぶり。ちょっと見ないうちに、立派な厩舎になったね」

「ほんとに。木のいい匂いがするわ」

「だろう? 友梨佳たちが頑張ってくれたおかげだ」

「親父だって、最後にいい馬を作ったっしょ」

「生きてるうちにG1は獲れなかったけどな。まあ、それも俺らしいか」

 泰造は照れたように笑い、肩をすくめる。

「リアンならきっと大丈夫ですよ。お義父さん」

 香織の声は優しく、どこか懐かしい響きを帯びていた。

 厩舎の入り口から、朝陽とは異なる、柔らかな金色の光が差し込んでくる。

「親父、そろそろ行こうか」

「……友梨佳を見ていかなくていいのか?」

「友梨佳のことなら、ずっと見守ってるよ。だから心配ない」

「あの子は少し不器用で、優しすぎる分、苦しむこともあるかもしれませんが、陽菜ちゃんがそばにいるなら大丈夫です」

「香織さんはいつも『大丈夫』だな」

 泰造に笑みが浮かぶ。

「もう少し、この場所にいたかった気もするがな。……欲を言えば、リアンの仔馬の顔も見てみたかった」

 目を細めて、厩舎の中を見渡す。馬たちは穏やかに息を吐き、静かにこちらを見つめていた。

 ――だが、潮時だ。

 泰造は家の方を振り返った。

「友梨佳、陽菜と仲良くやれよ。……またな」

 そう言って、光の中へと足を踏み出す。

「友梨佳と陽菜ちゃんって、本当にお似合いね。百合が咲き乱れてるわ」

 香織が微笑む。

「香織さん、その“百合”ってやつ、何なんだ? 加耶の奴も同じこと言ってた」

「あはは。その話は、向こうでゆっくり教えるよ。ほら、親父が育てた馬たちが待ってる」

「俺の馬もいいが……できればシンザンかテンポイントに会いてえな」

「もうとっくに生まれ変わってるよ。でも、シンボリルドルフなら、まだいるかもね」

「おお、それは楽しみだ」

 三人は肩を並べ、眩い光の中にゆっくりと消えていった。


 パッと、友梨佳が目を覚ました。

 泰造の声が聞こえたような気がした。

 慌てて身を起こし、泰造のベッドに目を向ける。

 急いで駆け寄り、その顔をのぞき込んだ。

 穏やかな寝顔――まるで夢を見ているかのように静かで、安らかだった。

 友梨佳は泰造の顔にそっと耳を近づけた。

 ……けれど、息遣いは、もう感じない。

 小さく震える手で泰造の手を握り、もう片方の手で頭を撫でる。

 温もりはまだ残っていた。だが、それはもう、帰ってこない温もりだった。

 頬をつたう涙が、泰造の寝顔にこぼれ落ちる。

「……友梨佳?」

 物音に気づいた陽菜が呼びかける。

 そしてすぐに状況を察すると、上半身の力だけで車椅子に身体を移し、手早くスマホを取った。

「もしもし……高辻です。祖父の様子が……はい、お願いします」

 電話を終えると、陽菜も泰造のベッドサイドに寄り添い、そっと彼の頭を撫でた。

 二人は、泰造の手を握りながら、しばらく無言のまま、ただそこにいた。

 ――言葉にできない悲しみが、胸の奥に広がっていた。

 もう戻らない声、手のぬくもり。

 けれどそのすべてが、これからもずっと自分たちの中で生きていくことを、どこかで確かに感じていた。

 春の夜明けは静かに近づいていた。

 友梨佳と陽菜の頬を、新しい朝の光がそっと照らしていた。


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