Side友梨佳 第34話
その夜、牧場の母屋は、笑い声に包まれていた。
居間の中央には長机が並べられ、大皿に盛られたローストビーフや、地元の野菜を使った煮物、香ばしく焼けた焼き鳥が並んでいた。
幸江が忙しそうに台所と今を何度も往復する。
重賞勝利の祝いの席に大勢の顔なじみが集まっていた。
「親父」と、良樹が少し緊張した顔で近づいてくる。
「ちょっと、紹介したい人がいる」
となりの女性が深く頭を下げた。黒髪をまとめ、落ち着いた紺色のワンピースを着ている。
「香織です。良樹さんとお付き合いさせていただいています」
彼女の声は少し震えていたが、はっきりと届いた。
「俺たち、結婚しようと思ってる」
泰造はしばし無言でその顔を見つめ、やがて湯呑を置いた。
「礼儀がしっかりしとるな。あんたみたいな子が嫁に来てくれるとは、俺ぁ嬉しいよ」
香織の目に、ぱっと安堵の光が差した。
良樹は照れくさそうに鼻を掻きながら、「ありがとな、親父」と呟いた。
***
エゾヤマザクラの蕾が膨らみはじめた四月の終わり、風の中にわずかに春の匂いが混じる頃。泰造は黒いモーニングを着て、少し背中をしゃんと伸ばしていた。
トシリベツ教会の礼拝堂には、香織の実家の親族と、牧場関係者、そして町内の顔見知りがぽつぽつと座っていた。決して大きな式ではなかったが、泰造にとっては、それがかえって心地よかった。
祭壇の前で誓いの言葉を交わす良樹と香織。
泰造は、ふいに鼻の奥がつんとした。
幸江がハンカチを手渡す。
泰造は目にゴミが入ったふりをしながら涙を拭った。
***
病院を訪れると、香織がベッドの上で赤ん坊を抱いていた。
赤ん坊は、小さく、温かく、ふにゃふにゃで……けれど肌は雪のように白く、瞳は透き通るような青だった。
「白いだろ?」
戸惑う泰造を見透かしたように良樹が言った。
「アルビノっていう先天性の遺伝子疾患らしい」
「白馬みたいできれいでしょう」
香織が慈しむような目で赤ん坊を見る。
「名前、決めたんだ」
良樹が言った。
「友梨佳。優しい子に育ってほしいって。香織が考えた」
——友梨佳。
泰造はその名前を、口の中で何度も反芻した。
春風のような、やわらかくも凛とした名前だった。
***
「大丈夫だよ、友梨佳。お馬さんは優しいから」
良樹が穏やかな声で言うと、友梨佳は不安げな目で馬を見上げた。
小さな体にヘルメット。足はまだ鐙に届くか届かないかという高さ。泰造は柵の外からその様子をじっと見守っていた。
良樹がそっと体を支えながら、彼女を馬の背に乗せる。
最初はぎこちなく揺られていた少女の身体が、やがて少しずつリズムに馴染んでいく。そしてふいに、顔を上げた。
小さな口元に、笑みがこぼれた。
「じいじ、見て! ゆりか、お馬さんに乗ってるよ!」
泰造は、そっと頷いた。
***
夏の夕暮れ。空は茜色に染まり、風がカーテンを静かに揺らしていた。
居間のテーブルには、二つの遺影と骨壺を納めた箱が並んでいる。
良樹は少し照れたように笑い、香織は春の日差しの中で穏やかな表情を浮かべていた。どちらも、ほんの数ヶ月前に牧場で撮った写真だった。
高速を降りてすぐの国道で、居眠り運転のトラックと正面衝突したのだという。
その日、葬儀を終えた夜、居間のソファに泰造と友梨佳は並んで座っていた。幸江はずっと泣いたままだった。
黒のワンピースを着た友梨佳は何も言わない。ただ、膝の上でぎゅっと握りしめた小さな拳が、強張っていた。
泰造もまた、何も言えなかった。言葉など、すべてがむなしく思えた。
やがて、友梨佳がぽつりとつぶやいた。
「……おじいちゃん、どうして。……どうしてパパとママなの? 他にたくさん悪い人いるのに……」
その問いに、泰造は答えることができなかった。
ただ、そっと彼女の背に手を添えた。暖かく、しかし何も癒せないままに。
***
「おじいちゃん、できた」
居間から声がして振り返ると、そこに立っていたのは、見慣れぬ姿の友梨佳だった。
白い襟に三本線。紺色のセーラー服。タイを少しぎこちなく結んだまま、友梨佳ははにかんでいた。
「変じゃない……?」
ついこの間まで、馬の背で無邪気に笑っていた孫が、もうこんなに大きくなっていた。
「変なんかじゃないさ。よく似合ってる」
そう言いながら、戸棚からカメラを取り出した。
「外で、写真を撮ろう」
牧場の入口、白い柵のそばに立った友梨佳を、春の光がやさしく包んでいた。
風が白い髪を揺らし、制服のスカートの裾をそっとめくる。
「笑ってごらん」
レンズ越しに泰造が声をかけると、友梨佳は少し照れたように笑い、小さくピースサインを作った。
その笑顔は、どこかまだ幼く、けれど確かに大人への扉を開けようとしているものだった。
シャッターの音が、空気の中で優しく響いた。
それから三年が過ぎた。
友梨佳は、今度は紺のブレザーを着て立っていた。
スカート丈は少し短めで、タイは中学のときよりもずっと自然に結べていた。
スッと伸びた背筋と、長い髪。見たものを吸い込む様な青い瞳。それはもう、少女ではなく、ひとりの若い女性の表情だった。
「おじいちゃん、写真撮って!」
「写真はいいが、少し短すぎないか? その……スカートがよ」
「えー? みんなこんなもんだよ」
あっけらかんとして笑う孫に、泰造はカメラを掲げて苦笑いした。
牧場の看板の前。ちょうど春の陽光がまっすぐに差し込む角度を見計らいながら、泰造はファインダーをのぞく。
あの頃と同じ白い柵、同じ牧草の匂い。けれど立っている彼女は、確かに成長していた。
「おじいちゃん、ちゃんと撮ってよ。変な顔だったら、プリント禁止ね」
そう言って、両手でピースサインを作る。
「大丈夫だ。世界一いい顔で撮ってやるよ」
笑いながら、シャッターを切った。
***
その日、いつものように夕食の時間になっても、友梨佳は部屋から出てこなかった。
「友梨佳……開けてくれ。どうしたんだ?」
返事はなかった。
泰造は静かにドアに手を添えた。
しばらくして、ようやく漏れるように、友梨佳の声が聞こえた。
「……何で……わたしだけ、こんな目にあうの……」
それは、言葉というより呻きに近かった。
続く声は涙に濡れていた。
「話しかけても無視されて、机の中にゴミ入れられて、靴もなくなって……なにもしてないのに……あたし、もう、学校行きたくない……」
泰造は拳を握った。
その言葉ひとつひとつが、自分の胸を焼いた。
何より悔しかったのは、自分が知らなかったことだ。毎日、笑って「行ってきます」と言っていた孫が、ひとりでこの苦しみを抱えていたということ。
泰造はドアの前でそっと拳を額にあて、長い時間、動かずにいた。
壁の時計が音もなく時を刻む中、重苦しい沈黙が応接室を支配していた。
担任の男が口を開いたが、どこか曖昧な口調だった。
「……そういう話は、私どもも何度か耳にしましたが、生徒同士の行き違いというか、まだ確認段階でして……」
「“確認”してる間に、うちの孫は心を壊してるんです!」
声が自然と荒くなった。
「高校の人間関係で一生を潰されてたまるか。やった側をちゃんと調べて、罰を与えなきゃ、何のために大人がいるんですか。どうして、弱いほうがいつも泣き寝入りしなきゃならんのです!」
教頭が口を挟んだ。
「お気持ちは分かります。しかし、いじめと断定するには慎重な……」
「慎重さが必要なのは、何もせずに傍観することじゃない。傷ついた子どもに寄り添うことだ!」
泰造の声が、応接室の白い壁に跳ね返る。だが、その響きに応える者はなかった。
泰造はゆっくりと席を立ち、深く頭を下げた。
「……孫は、牧場を背負って生きていこうとしてる。あの子を折らせるわけにはいきません。先生方が何もしないなら、私が守ります」
その背中が扉を開けて出ていったあとも、応接室の空気は重く沈黙していた。
泰造が退学届けを叩きつけたのはその一週間後だった。