Side友梨佳 第33話
『まもなく、注目のクラシック第一冠──第88回皐月賞の発走時刻が迫ってまいりました。スタートまで、残りおよそ10分となっております。ゲートの後ろ、芝の上では、各馬が静かに、しかしどこか張り詰めた空気の中で周回を重ねています』
実況アナウンサーの緊張をはらんだ声が、高辻家に響く。テレビ画面には、ゲート入りを前に落ち着かぬ様子のサラブレッドたちが映し出されていた。誰も言葉を発せず、ただ画面を見つめている。
あと十五分もすれば、結果が出る。
「泰造に……せめて皐月賞だけでも獲らせてあげたい」
それは、そこにいる全員の願いだった。
ダービーまでは六週間。そのときを迎えられる保証は、泰造にはもうない。
友梨佳と陽菜は、まるで神にすがるような思いで泰造の手を握っていた。泰造はただ黙って、テレビの画面をじっと見つめている。表情は動かない。だが、その手にはかすかな震えがあった。
「おっと、ここでアナウンスがあるようです」
突然、実況の声がトーンを変える。次の瞬間、マイクが競馬場の場内アナウンスに切り替わった。
『お知らせいたします。中山競馬第11レース、5番リアンデュクールは発走地点で馬体検査を行います。発走時刻が遅れますのでご了承願います』
その言葉が流れた瞬間、高辻家の空気が凍りついた。誰もが顔を見合わせる。
「えっ……リアン……?」
「なんで……?」
リアンデュクールは“ガラスの脚”と呼ばれるほど繊細な脚を持つ馬だ。しかし、パドックでも返し馬でも、その足に違和感など一切見せていなかったはずだった。
茜を背に颯爽と駆けた姿が、ついさっきテレビに映ったばかりだった。
大岩も、小林も、揃って眉をひそめる。理解が追いつかない。
友梨佳と陽菜は、胸の奥が締めつけられるような思いで、泰造の手をさらに強く握った。
どうか、無事でいてと──祈るように。
しかし、時間だけが過ぎていく。発走予定時刻を越えても、追加のアナウンスは流れない。
画面には、係員たちに囲まれながら、何度も常歩や速歩を繰り返すリアンデュクールの姿が映し出される。人の目にはわからぬ違和感を、獣医師は見逃さない。サラブレッドたちの脚は、紙一重の綱渡りの上にある。
静寂が支配する部屋。全員が息を詰めて、ただリアンの様子を見守る。
そして、ついに。
『中山競馬第11レースの発走除外をお知らせします。5番リアンデュクールは、馬場が原因で故障が発生したため、発走を除外します』
非情なアナウンスが響いた瞬間、競馬場全体がどよめいた。そのざわめきは、画面越しにもはっきりと伝わってくる。
高辻家の居間に、沈黙が走った。
「……どうなってんだよ」
大岩が、震える声で呟くように言った。
その視線が、友梨佳と陽菜に注がれる。
「わかんない……」
泣き出しそうな声で、友梨佳が首を振った。
「おじいちゃん……リアンに、何かあったら……どうしよう……」
泰造は、目を閉じたまま、何も言わなかった。ただ、その表情には深い影が落ちていた。
そのとき、陽菜のスマートフォンが震えた。
画面に「遥」の名前が表示される。
一瞬、誰もが動きを止めた。
陽菜は急いでスピーカーに切り替え、電話に出た。
「もしもし、代表……リアンは? 」
焦る気持ちを抑えきれず、陽菜がまくし立てる。
『今、美月を影山先生のところに走らせてる。──みんなの様子は?』
「発走除外自体は……慣れてるけどよ……」
大岩が口を開くが、その先の言葉が出てこない。
厩舎の誰もが、何度も経験してきたはずの「除外」。だが、それが皐月賞の舞台で、自分たちが夢を託した馬に起きた現実として、受け入れるにはあまりに重すぎた。
『……うん、わかった。状況が分かり次第、また連絡する』
遥の声がかすかに震えていた。
通話が切れると、部屋に再び静寂が落ちる。
ベッドを挟んで、泰造の手を握る友梨佳が、堪えきれずに嗚咽を漏らした。陽菜の頬にも、静かに涙が伝っていく。
大岩は唇をかみしめ、震える拳を握りしめたまま、テレビ画面を睨みつける。
そこには、茜がリアンから下馬し、静かに鞍を外している姿が映っていた。
リアンデュクールは、三枝に曳かれながら、無言でコースを後にする。その先には、後部扉を開けて待機する馬運車。
ゆっくりと、しかし確実に現実が近づいてくる。
夢のひとつが、たった今、音もなく崩れ落ちたのだ。
友梨佳と陽菜は、堪えきれずに、声をあげて泣いた。
加耶は口元を押さえ、静かに寝室を出ていく。
泰造は、黙って友梨佳を抱き寄せ、陽菜の頭をそっと撫でた。
その手に力はなかったが、その温もりは、残されたわずかな強さだった。
何が起きているのか分からず、不思議そうに見つめている大樹の頭を、小林がそっと撫でた。
そのとき、画面から皐月賞の出走を告げるファンファーレが鳴り響いた。
それは、無慈悲に時を進める現実の音だった。
***
中山競馬場内、静まり返った影山厩舎に、リアンデュクールを乗せた馬運車が到着した。
影山と遥が緊張した面持ちで見守るなか、重々しい音を立てて馬運車の扉が開く。
「美月、動画を撮っておいて」
遥が冷静に指示を出すと、「はい」と美月はすぐにスマホを構え、カメラを馬運車に向けた。
扉の隙間から、暗がりの中でリアンデュクールの影が揺れる。
三枝が引綱を手に軽く引いたが、リアンは一歩も動こうとしなかった。
「三枝、どうした?」
影山が眉をひそめて問いかける。
三枝は戸惑いの色を隠せない表情で、振り返った。
「リアンが……動かないんです。左前脚を気にしているみたいで、痛がってるようです」
「痛がってる!?」
遥の顔に驚きが走る。返し馬の時には何の異常も見られなかったはずだ。
影山がすぐに馬運車に乗り込む。
リアンの左前脚に目をやると、蹄の縁にかすかに打撲の跡があり、触れると微かに熱を帯びていた。腫れも感じられる。
「……確かに、熱があるな」
低くつぶやく影山。
「獣医師に診てもらうが、これくらいならすぐに良くなるだろう」
リアンの様子を見守っていた三枝が、引綱リを握る手に力を込めてうなずいた。
二人が慎重にリアンを馬運車から降ろす。蹄を庇うような歩き方で、明らかな跛行が見られた。
「これは……いつからですか?」
遥が息を呑んで問う。目にはうっすらと光が浮かんでいた。
三枝はクーリング用のホースを手に取り、水をかけながら言葉を選ぶように口を開いた。
「ゲート裏で輪乗りしていた時も、自分の目には何も異常があるようには見えませんでした」
声には自責の念が滲んでいた。
彼は少し間を置いてから、さらに続けた。
「急に桜木さんが発走委員を呼んだんです。“何かおかしい”って」
三枝は顔を上げ、目を遥に向けた。
「発走委員も最初は“異常なし”と判断したんですが、桜木さんはどうしても納得していなかった。それで……最終的には委員も桜木さんの判断に従うことになって」
三枝の声が次第に低くなっていく。
「桜木さん、最後まで迷ってました。何度も空を見上げて……でも、“降ります”って」
「そう。じゃあ今回は桜木さんのファインプレーね」
遥が小さく頷きながら言った。
「このまま走らせていたらと思うと、ゾッとするわ」
「でも、どうして急に?」
動画を撮り終えた美月が、ぽつりと問いかける。
「蹄をぶつけたのは、馬房の中か装鞍所のどこかだろうな」
背後から、いつの間にか近づいてきた大滝が口を開いた。
「返し馬で走って血流が良くなって、そこで痛みと腫れが一気に出てきたんだと思う」
「桜木さんも皆さんも、本当にすごいですね……。 それにひきかえ私なんて⋯⋯」
美月は肩を落として俯いた。
遥はふと笑みを浮かべた。
「……?」
美月が顔を上げると、遥は優しく答えた。
「ごめんなさい。陽菜も同じことを言ってヘコんでなって思い出して」
「陽菜先輩もですか?」
「ええ。大変だったんだから。最初はみんな同じ。それを乗り越えてきたの。だから美月も大丈夫よ」
陽菜と自分を重ねられて、美月は思わず顔を赤らめた。
「だぁームカつく!!」
「ひっ!」
突然の大声に、美月が飛び上がる。振り返ると、いつの間にか背後にいた茜が拳を握りしめていた。
「あの外国人騎手、人差し指を掲げやがった!」
皐月賞はロイヤルストライドの完勝で幕を閉じた。これで無敗の5連勝。口取り式で、鞍上のジャン・トッドは人差し指を高々と掲げた。
それは“まずは一冠”を意味すると同時に、“狙うは三冠”という宣言を意味した。茜の闘志に火がつくには十分すぎる挑発だった。
「ダービーで絶対に潰す。いや、ぶっ殺す」
美月が青ざめる一方で、遥と影山はむしろ落ち着いた様子だった。
「今日のヒーローの登場ね。桜木さんのおかげで、リアンは救われた」
遥はリアンの脚に視線を落とす。
クーリングされる脚元を見て、茜の表情がふと陰る。
「よかった……いえ、よくはないけど……」
「ううん、気持ちはわかる。難しい判断だったと思う。本当に、ありがとう」
遥は静かに頭を下げた。
美月もその隣で、深く頭を下げた。
「いえ……騎手として、当たり前のことをしただけです。でも……泰造さんのことを思うと……」
その場に、重たい沈黙が落ちた。
「だからこそ、ダービーは勝ちましょう」
遥が真っ直ぐに顔を上げた。
「今日のこの判断を、無駄にしないためにも」
「はい。絶対に勝ちます」
茜が力強く頷く。
遥と茜がグータッチを交わす。
その光景を見ながら、美月は顔を赤くしてつぶやいた。
「ふたりとも……格好いい……」
その時、遥のスマホが鳴った。発信者は綾乃だった。
「もしもし。綾乃、どうしたの? うん、うん、分かった。美月を行かせるから」
スマホを切ると、遥が振り返って美月に声をかけた。
「馬主席受付前で綾乃が会員さんに説明を求められてるって。悪いけど、説明に行ってくれる? ここで見聞きしたことを話してきて。動画も見せていいから」
「分かりました!」
美月は頷き、小走りで駆け出す。
ちょうどその時、美月のスマホが鳴った。通話に出た美月は、心配そうな声で呼びかける。
「綾乃、どうしたの? 大丈夫、今行くから……。 え、綾乃が泣いてどうするのよ……」
通話しながら歩いて行く美月の背を、遥は微笑みながら見送った。
リアンデュクールの脚を冷やす水音が静かに響く厩舎に、風が吹き抜ける。
陽は西に傾き始めていたが、誰の胸にもまだ灯は消えていなかった。
皐月賞は終わった――だが、本当の勝負は、これからだ。