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Side友梨佳 第32話

 皐月賞当日。高辻家は朝から活気に満ちていた。

 イルネージュファームの面々に加え、泰造と親交の深い人々までが続々と集まり、15時のテレビ中継が始まるころにはリビングも廊下も来客でいっぱいになっていた。

 友梨佳はもちろん、加耶や陽菜も来客対応に追われ、休む暇もない。

 一方、美月と綾乃は遥と中山競馬場に同行している。

 泰造の寝室にある小さなテレビでは人が見切れないと判断し、遥の留守をいいことに、大岩と小林が65インチのテレビをイルネージュファームから運び込んできた。

「……うちは映画館じゃないぞ、厳」

 ベッドで上体を起こしている泰造が、苦笑混じりにぼやく。

「懐かしいだろ? ガキの頃、この辺で初めてテレビが入った牧場に、みんなで入り浸ったじゃねえか」

「……お前は集牧の時間に遅れて、よく親方にぶん殴られてたな……」

 泰造が淡々と返すと、大岩は愉快そうに笑い、一升瓶を手にベッド脇に胡坐をかいた。

「調子はどうだ?」

「俺はもうじき死ぬ。……それ以外はまあ、順調だな」

 かすれ声ではあるが、久々に泰造がよく喋るのを見て、大岩は嬉しそうにニッと笑った。

「へへ、なら上等だ。おい、友梨佳、コップをふたつ持ってきてくれ!」

 大岩が声を張ると、すぐに友梨佳がコップを手に現れる。

「ちょっと厳さん、おじいちゃんに飲ませるつもり?」

「前祝いだ。俺だけ飲むなんて無粋だろ?」

 そう言いながら、大岩は自慢げに瓶を掲げた。

「十四代本丸。俺の秘蔵っ子だぜ」

 コップに酒を注ぎ、泰造のオーバーベッドテーブルにそっと置く。泰造は震える手で慎重にコップを持ち上げ、ゆっくりと香りを嗅いだ。

「……ほお、こいつはたしかに、いい酒だな」

「だろ? なんたって“本丸”だ。ここを落とされたら、後がないってヤツさ」

 冗談を交えながら、大岩も自分のコップに酒を注いだ。

「友梨佳も一杯どうだ?」

「リアンが勝ってからにする」

 友梨佳が笑って返すと、大岩は「そうか」とうなずき、口元をほころばせた。

 久しぶりに穏やかな時間が流れるのを感じ、友梨佳の胸も少し軽くなった。

 弥生賞以降、泰造の体調は急速に悪化し、今では起きている時間もほとんどない。目を覚ましている時も、かつての出来事を夢と現の境でつぶやくだけだった。

 食事も水分もほとんど摂れず、訪問看護師からは「今後の変化」について説明を受けた。

 24時間つながる連絡先を渡された上で、「決して救急車は呼ばないように」と強く念を押された。

 最初、友梨佳はその意味がわからなかった。だが、陽菜がそっと教えてくれた。

 救急隊や救命の現場は「命を助ける」のが職務であり、本人や家族の意思に関わらず、処置と入院が前提になるのだと。

 納得したと同時に、陽菜の存在のありがたみが胸に染みた。――一緒に暮らしていて、本当に良かった、と。

「皐月賞でこの騒ぎなら、ダービーの時はどうなるんだろうね」

 ひと段落ついた加耶が、陽菜と一緒に寝室に顔を出してきた。

「公民館でパブリックビューイングだな」

 テレビの前に腰を下ろしていた小林が冗談を飛ばす。

 その隣では大樹がきちんと正座して、じっと画面を見つめていた。

 以前は友梨佳にべったりだった大樹も、年長さんになってからは小林と遊ぶことが多くなった。女の人に甘えるのは、ちょっぴり恥ずかしくなってきたようだ。

「そんなに大げさな……」

 友梨佳が笑う横で、陽菜はスマホを操作している。

「え、陽菜……本気で公民館の利用条件、調べてるの?」

「備えあれば憂いなし、でしょ?」

 その言葉に返す暇もなく、テレビの方から「おおっ!」と歓声が上がった。

 中継がパドックに切り替わり、白く輝くリアンデュクールの馬体が画面に映し出されたのだ。

 陽光を反射して白いオーラをまとうようなその姿に、場の空気が一気に高揚する。

 応援の横断幕がパドックの半分以上を埋め尽くし、人気の高さを物語っていた。

 とはいえ、馬券のオッズは4番人気。

「心と財布は別ってやつか……世知辛ぇな」

 大岩が肩をすくめた。

 リアンデュクールの馬体重は500キロちょうど。前走から4キロ増。

 引綱を持つ三枝を引っ張るように力強く歩き、入れ込みの兆候はない。

 元女性騎手の解説者も「完成度が高い」と太鼓判を押し、状態の良さを褒めていた。

 ――だが、解説の中で最も高く評価されたのはロイヤルストライドだった。

 父譲りの黒い馬体に浮かぶ筋肉の隆起は、まさに“王者の装い”。

 黒のローブを身にまとった王のようなその姿に、圧倒的な存在感があった。

 単勝1.5倍の断トツ人気も頷ける。

 小林が持っていたスポーツ紙には、

「王道とは、ロイヤルストライドが来た道と、これから進む道の総称である」

 と、大見出しが踊っていた。

 パドック中央には多くの馬主関係者が並ぶ中、遥と美月の姿も映っていた。

「遥さん!」

 テレビ画面を指差して、大樹が無邪気に叫ぶ。

「……陽菜ちゃんだけでも行ったらよかったんじゃない?」

 と、加耶が言う。


 友梨佳はあの時のやりとりを思い出し、苦笑を浮かべた。

 泰造の容態が悪化し、友梨佳は最初から「中山競馬場には行かない」と決めていた。

 陽菜も迷った末、家に残ると決断し、代わりに美月を同行させることにした。

 最初、美月は陽菜と一緒に皐月賞を見たいと渋っていた。

 けれど陽菜に「他の施設の代理なんて大役は美月にしか務まらない。お願いよ」と言われ、耳元の髪の毛をそっとすくい上げられた瞬間――

 顔を真っ赤にして、こくんとうなずいた。

 無自覚な陽菜の振る舞いに、「イケ散らかして、軽率すぎる」と文句を言って、一晩中ケンカになったのだった。


「はい。G1の舞台は、これからも何度でもありますから。今は……」

 陽菜がそう言って、泰造の寝顔に視線を落とす。

 誰も、それ以上は何も言わなかった。

 ――騎乗命令がかかり、茜がリアンデュクールに跨った。

 シュバルブランの勝負服に身を包んだ茜。その姿は、懐かしくも頼もしい。

 友梨佳は、影山厩舎で茜のバレットを務めていた日々を思い出し、胸が熱くなる。

 本馬場入場。返し馬もスムーズ。リアンデュクールの脚取りには力強さと落ち着きがあった。

 高辻家に集った誰もが、ロイヤルストライドとの一騎打ちを夢見て、胸を高鳴らせていた――。


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