side友梨佳 第31話
弥生賞の勝利から一週間が経っても、高辻牧場には祝福の電話が鳴り続け、次々とご祝儀の酒が届けられていた。
玄関先には紅白のしめ縄を巻いた酒樽が山のように積まれ、まるで年に一度の祭りのようなにぎやかさだった。けれど、その賑わいとは裏腹に、牧場の奥にある友梨佳の家には、晴れやかな空気がなかった。
理由はふたつあった。
ひとつは、ロイヤルストライドの存在だった。
昨年のホープフルステークスを制し、皐月賞直行を表明していたロイヤルストライドが、突如としてスプリングステークスに出走した。
弓から乗り替わった外国人騎手にロイヤルストライドの“試乗”をさせたいという陣営の思惑だった。
結果は――圧勝だった。
約4か月ぶりの実戦。馬体は幾分太めだったが、それを感じさせない走りだった。スタートから好位を確保し、4コーナーを回った瞬間には、すでに勝負が決していた。
他馬を寄せつけず、むしろ突き放すその姿に、誰もが息を呑んだ。
追われてからの伸び、脚の切れ、走りのフォーム、そして勝ち時計──すべてが完璧だった。
競馬界には“絶対”がないはずだったが、ロイヤルストライドには誰もが一目置かざるを得なかった。もはや、ロイヤルストライドの一強ムードになっていた。
ネット上でもSNSでも、リアンデュクールの名前は話題にすら上がらない。あの弥生賞の勝利が、まるで小さな地方レースのように扱われているのが現実だった。
「テン良し、ナカ良し、終い良しってやつだな。欠点らしい欠点が見当たらねえ。なあ、泰造さんよ」
テレビ中継を眺めながら、大岩が呟いた。友梨佳と陽菜も、泰造の寝室でそのレースを一緒に見ていた。
だが、ベッドに横たわる泰造からの返事はない。
――もうひとつの理由は、泰造の体調だった。
弥生賞のあと、彼の体調は急速に悪化していた。今では一日のほとんどを眠って過ごし、起きていても倦怠感が強く、会話を交わすのも難しい。
訪問診療の医師は言った。「会わせたい人がいるなら、今のうちに」と。
「全部が90点の馬だって、ユーミンが言ってた。賢くて、すごく乗りやすいって」
友梨佳が泰造の手をそっと擦りながら言った。その手は以前よりもずっと細く、骨ばっていて、彼女の心を締めつけた。
「なに……競馬に絶対はねえ。影山先生と桜木が……きっと、何か……対策を立ててるさ」
突然、泰造がゆっくりと目を開き、かすれた声で呟いた。
「おじいちゃん、起きてたの?」
思いがけない反応に、友梨佳は驚きつつも嬉しそうに声を上げた。
「ああ……耳元で……べちゃべちゃ喋られちゃあ……寝るに寝れねぇよ」
冗談めかしたその言葉に、友梨佳と陽菜は思わず顔を見合わせて笑った。
「そろそろ……集牧の時間だろ? 頼みがある。友梨佳の……作った馬が、見たい」
泰造はゆっくりと上体を起こしながら言った。その動作ひとつひとつが、あまりにも慎重で、痛々しいほどだった。
家の玄関先に6組の親子が集められた。春の陽射しのなか、まだあどけない顔をした仔馬たちが、母馬の影に寄り添いながら時折首を伸ばして周囲を見回している。どの子も柔らかな産毛に覆われ、小さな蹄でぎこちなく地面を踏みしめていた。
泰造は車椅子に座りながら、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、いつもの厳しさではなく、穏やかで柔らかかった。彼の目は、若い命のひとつひとつを見逃すまいとするように、真剣に、そして優しく輝いていた。
「よし……順番に見せてくれ」
大岩が小さく頷き、最初の親子馬を泰造の前に誘導する。泰造は、枝のように細くなった腕をゆっくりと伸ばし、仔馬の首筋や背中、後肢までを丁寧に撫でた。かつて鍛えられた両手は、今では骨ばって力もない。それでも、その手が馬の皮膚に触れるたび、馬たちは安心したように瞳を細めた。
「……いい肩をしてる。首差しも悪くねえ。バネがあるな、この子は」
触れて、確かめ、記憶する。その目は今でも、馬の将来を見抜く眼差しだった。
「初めてにしては、上出来だ。筋の通った馬体だし、何より脚元がいい。育てた人間の顔が見えるようだ……」
そう言って、泰造はわずかに顔を上げ、友梨佳の方を見た。まるで、かつての自分の若き日を重ねているかのように、少しだけ照れたような笑みを浮かべた。
「そりゃあそうだよ。おじいちゃんに教わったんだもん」
友梨佳が、泰造の肩にかけたちゃんちゃんこの襟元を整えながら言った。
陽菜が横から言葉を添える。
「馬主の後藤さんからね、高辻牧場の馬をぜひ見たいって連絡があったの。全部買いそうな勢いだったよ」
泰造は驚いたように目を見開いたが、すぐに満足げに細め直すと、かすれた声で言った。
「そうか、そうか……。 信頼される仕事が、次の仕事を運んでくる……だろ?」
その言葉を聞いた友梨佳は、ふいに胸が詰まったように、泰造の肩にそっと手を乗せた。
「うん。そうだね……」
泰造はその手を、弱々しくも優しく叩いた。まるで、「よくやったな」と言っているかのように。
残りの仔馬たちも次々と前に引かれてきた。泰造はどの馬にも同じように時間をかけ、触れ、目を凝らし、声をかけた。
「この子は気が強そうだな。気性も競争には必要な資質だ……」
「こいつは目がいい。利口な馬になる」
「背中がいい。鞍がよく馴染む。騎手を選ばねえな」
言葉のひとつひとつに、長年の経験と愛情が滲んでいた。彼にとって馬を見るということは、ただの仕事ではない。命の営みを受け継ぎ、育て、未来に繋ぐという、人生そのものだった。
友梨佳は、そんな泰造の横顔を見つめながら、自然と涙がこぼれそうになるのをこらえていた。こんな風に、馬を通して祖父と会話ができる時間が、あとどれだけ残されているのか──そう考えるだけで胸が詰まった。
でも、泰造の手が仔馬に触れたとき、そこには確かに生きた時間が流れていた。その温もりが、たとえ泰造がこの場所からいなくなったとしても、ずっと残っていく気がした。
夕陽が海の向こうへ沈もうとしていた。光の帯が波に映り、遠くを金色に染めている。
小高い丘を登った先、放牧地の端に立ち尽くしながら、友梨佳は海の方を眺めていた。隣の陽菜も、言葉を発さずにその風景を見つめていた。
「陽菜、この辺り……覚えてる?」
ふいに友梨佳が口を開いた。
「うん。高校のとき、初めてスノーベルに乗って、ここまで来たよね」
陽菜は、懐かしい記憶をたぐるように呟いた。
「ずいぶん変わったよね。イルネージュファームは大きくなって、隣にはグランピング施設までできた。うちにもログハウスと体験乗馬施設ができて……」
「うん。みんな、すごく頑張った」
友梨佳は頷いたあと、少し間を置いて言った。
「……でもね、うちって、小さいよね」
「小さい……?」
「お金も、人も。事業提携はしてるけど、イルネージュファームやアルテミスリゾートと比べたら、全然対等じゃない。何かあったら、すぐに飲み込まれちゃいそうで……」
陽菜は、否定できなかった。
それが現実だった。今はまだ何も起きていない。でも、将来はわからない。
「それでもね、前は……それでもいいかなって思ってたの。遥さんのところと一緒になって、馬とお客さんを相手にする仕事、楽しいし」
「……友梨佳」
陽菜は驚いたように顔を向けた。
「でも、おじいちゃんのことがあって……この牧場を守らなきゃって、初めて本気で思った。パパとママと、おじいちゃんとの、たくさんの思い出が詰まってる場所だから」
そう言うと、友梨佳は静かに陽菜の目を見つめた。
「それでね、高校のとき陽菜が言ってたでしょ? ホースセラピーを自治体と協力してできないかって」
「……ああ、うん。そんなこと……言ってたかも」
「覚えてなくてもいい。でも、あれってすごくいいアイデアだと思うの。リアンがダービーを勝ったら、たくさんの人がこの町に注目する。観光資源を探してる舞別町にとっても、悪い話じゃないよね」
「本気で……?」
「うん。でも、あたし一人じゃ無理なの。陽菜、覚えてる? 高校のとき、あの海辺で交わした約束。一緒に牧場をやろうって」
その言葉に、陽菜はまっすぐ友梨佳を見た。
「もちろん。忘れるわけないよ」
友梨佳は少しだけ笑って、言った。
「あたしと一緒にやろう。たくさんの人が集まる、思い切りにぎやかな牧場を、ふたりで」
陽菜の目が潤んだ。けれど、その瞳には迷いはなかった。
「うん、やろう」
短く、でも力強くそう言った。
その言葉を聞いた瞬間、友梨佳の胸の奥がじんと熱くなった。言葉にできない何かが喉の奥までせり上がり、それをこらえるように、そっと陽菜の手を握った。
二人の間に吹き抜ける潮風が、緩やかに髪を揺らした。放牧地の馬たちのいななきが遠くで響き、海には夕日が落ちていく。
不安がないわけではなかった。資金も人手もまだまだ足りないし、現実は理想のようにはいかないことも多い。それでも、諦めずに歩いていくと決めた。泰造がそうしてきたように、自分たちの手で道を切り拓くと決めたのだ。
友梨佳と陽菜は、ゆっくりと放牧地を見渡した。風に揺れる草原と、遠く輝く海と、そこに溶けていく茜色の空。ここが自分たちの場所であり、これからも守っていく場所なのだと、互いの目に誓うように見つめ合った。
「ありがとう、陽菜……」
「こちらこそ、ありがとう」
未来はまだぼんやりとしていて、どんな困難が待っているかは分からない。でも、二人ならきっと乗り越えられる。笑って、悩んで、ときには泣きながらでも、一歩ずつ進んでいける。
まだ果たしていなかった約束を今こそ果たそう。
――海辺の約束を。