表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
51/62

side友梨佳 第31話

 弥生賞の勝利から一週間が経っても、高辻牧場には祝福の電話が鳴り続け、次々とご祝儀の酒が届けられていた。

 玄関先には紅白のしめ縄を巻いた酒樽が山のように積まれ、まるで年に一度の祭りのようなにぎやかさだった。けれど、その賑わいとは裏腹に、牧場の奥にある友梨佳の家には、晴れやかな空気がなかった。

 理由はふたつあった。

 ひとつは、ロイヤルストライドの存在だった。

 昨年のホープフルステークスを制し、皐月賞直行を表明していたロイヤルストライドが、突如としてスプリングステークスに出走した。

 弓から乗り替わった外国人騎手にロイヤルストライドの“試乗”をさせたいという陣営の思惑だった。

 結果は――圧勝だった。

 約4か月ぶりの実戦。馬体は幾分太めだったが、それを感じさせない走りだった。スタートから好位を確保し、4コーナーを回った瞬間には、すでに勝負が決していた。

 他馬を寄せつけず、むしろ突き放すその姿に、誰もが息を呑んだ。

 追われてからの伸び、脚の切れ、走りのフォーム、そして勝ち時計──すべてが完璧だった。

 競馬界には“絶対”がないはずだったが、ロイヤルストライドには誰もが一目置かざるを得なかった。もはや、ロイヤルストライドの一強ムードになっていた。

 ネット上でもSNSでも、リアンデュクールの名前は話題にすら上がらない。あの弥生賞の勝利が、まるで小さな地方レースのように扱われているのが現実だった。

「テン良し、ナカ良し、終い良しってやつだな。欠点らしい欠点が見当たらねえ。なあ、泰造さんよ」

 テレビ中継を眺めながら、大岩が呟いた。友梨佳と陽菜も、泰造の寝室でそのレースを一緒に見ていた。

 だが、ベッドに横たわる泰造からの返事はない。

 ――もうひとつの理由は、泰造の体調だった。

 弥生賞のあと、彼の体調は急速に悪化していた。今では一日のほとんどを眠って過ごし、起きていても倦怠感が強く、会話を交わすのも難しい。

 訪問診療の医師は言った。「会わせたい人がいるなら、今のうちに」と。

「全部が90点の馬だって、ユーミンが言ってた。賢くて、すごく乗りやすいって」

 友梨佳が泰造の手をそっと擦りながら言った。その手は以前よりもずっと細く、骨ばっていて、彼女の心を締めつけた。

「なに……競馬に絶対はねえ。影山先生と桜木が……きっと、何か……対策を立ててるさ」

 突然、泰造がゆっくりと目を開き、かすれた声で呟いた。

「おじいちゃん、起きてたの?」

 思いがけない反応に、友梨佳は驚きつつも嬉しそうに声を上げた。

「ああ……耳元で……べちゃべちゃ喋られちゃあ……寝るに寝れねぇよ」

 冗談めかしたその言葉に、友梨佳と陽菜は思わず顔を見合わせて笑った。

「そろそろ……集牧の時間だろ? 頼みがある。友梨佳の……作った馬が、見たい」

 泰造はゆっくりと上体を起こしながら言った。その動作ひとつひとつが、あまりにも慎重で、痛々しいほどだった。


 家の玄関先に6組の親子が集められた。春の陽射しのなか、まだあどけない顔をした仔馬たちが、母馬の影に寄り添いながら時折首を伸ばして周囲を見回している。どの子も柔らかな産毛に覆われ、小さな蹄でぎこちなく地面を踏みしめていた。

 泰造は車椅子に座りながら、ゆっくりと顔を上げた。その表情は、いつもの厳しさではなく、穏やかで柔らかかった。彼の目は、若い命のひとつひとつを見逃すまいとするように、真剣に、そして優しく輝いていた。

「よし……順番に見せてくれ」

 大岩が小さく頷き、最初の親子馬を泰造の前に誘導する。泰造は、枝のように細くなった腕をゆっくりと伸ばし、仔馬の首筋や背中、後肢までを丁寧に撫でた。かつて鍛えられた両手は、今では骨ばって力もない。それでも、その手が馬の皮膚に触れるたび、馬たちは安心したように瞳を細めた。

「……いい肩をしてる。首差しも悪くねえ。バネがあるな、この子は」

 触れて、確かめ、記憶する。その目は今でも、馬の将来を見抜く眼差しだった。

「初めてにしては、上出来だ。筋の通った馬体だし、何より脚元がいい。育てた人間の顔が見えるようだ……」

 そう言って、泰造はわずかに顔を上げ、友梨佳の方を見た。まるで、かつての自分の若き日を重ねているかのように、少しだけ照れたような笑みを浮かべた。

「そりゃあそうだよ。おじいちゃんに教わったんだもん」

 友梨佳が、泰造の肩にかけたちゃんちゃんこの襟元を整えながら言った。

 陽菜が横から言葉を添える。

「馬主の後藤さんからね、高辻牧場の馬をぜひ見たいって連絡があったの。全部買いそうな勢いだったよ」

 泰造は驚いたように目を見開いたが、すぐに満足げに細め直すと、かすれた声で言った。

「そうか、そうか……。 信頼される仕事が、次の仕事を運んでくる……だろ?」

 その言葉を聞いた友梨佳は、ふいに胸が詰まったように、泰造の肩にそっと手を乗せた。

「うん。そうだね……」

 泰造はその手を、弱々しくも優しく叩いた。まるで、「よくやったな」と言っているかのように。

 残りの仔馬たちも次々と前に引かれてきた。泰造はどの馬にも同じように時間をかけ、触れ、目を凝らし、声をかけた。

「この子は気が強そうだな。気性も競争には必要な資質だ……」

「こいつは目がいい。利口な馬になる」

「背中がいい。鞍がよく馴染む。騎手を選ばねえな」

 言葉のひとつひとつに、長年の経験と愛情が滲んでいた。彼にとって馬を見るということは、ただの仕事ではない。命の営みを受け継ぎ、育て、未来に繋ぐという、人生そのものだった。

 友梨佳は、そんな泰造の横顔を見つめながら、自然と涙がこぼれそうになるのをこらえていた。こんな風に、馬を通して祖父と会話ができる時間が、あとどれだけ残されているのか──そう考えるだけで胸が詰まった。

 でも、泰造の手が仔馬に触れたとき、そこには確かに生きた時間が流れていた。その温もりが、たとえ泰造がこの場所からいなくなったとしても、ずっと残っていく気がした。


 夕陽が海の向こうへ沈もうとしていた。光の帯が波に映り、遠くを金色に染めている。

 小高い丘を登った先、放牧地の端に立ち尽くしながら、友梨佳は海の方を眺めていた。隣の陽菜も、言葉を発さずにその風景を見つめていた。

「陽菜、この辺り……覚えてる?」

 ふいに友梨佳が口を開いた。

「うん。高校のとき、初めてスノーベルに乗って、ここまで来たよね」

 陽菜は、懐かしい記憶をたぐるように呟いた。

「ずいぶん変わったよね。イルネージュファームは大きくなって、隣にはグランピング施設までできた。うちにもログハウスと体験乗馬施設ができて……」

「うん。みんな、すごく頑張った」

 友梨佳は頷いたあと、少し間を置いて言った。

「……でもね、うちって、小さいよね」

「小さい……?」

「お金も、人も。事業提携はしてるけど、イルネージュファームやアルテミスリゾートと比べたら、全然対等じゃない。何かあったら、すぐに飲み込まれちゃいそうで……」

 陽菜は、否定できなかった。

 それが現実だった。今はまだ何も起きていない。でも、将来はわからない。

「それでもね、前は……それでもいいかなって思ってたの。遥さんのところと一緒になって、馬とお客さんを相手にする仕事、楽しいし」

「……友梨佳」

 陽菜は驚いたように顔を向けた。

「でも、おじいちゃんのことがあって……この牧場を守らなきゃって、初めて本気で思った。パパとママと、おじいちゃんとの、たくさんの思い出が詰まってる場所だから」

 そう言うと、友梨佳は静かに陽菜の目を見つめた。

「それでね、高校のとき陽菜が言ってたでしょ? ホースセラピーを自治体と協力してできないかって」

「……ああ、うん。そんなこと……言ってたかも」

「覚えてなくてもいい。でも、あれってすごくいいアイデアだと思うの。リアンがダービーを勝ったら、たくさんの人がこの町に注目する。観光資源を探してる舞別町にとっても、悪い話じゃないよね」

「本気で……?」

「うん。でも、あたし一人じゃ無理なの。陽菜、覚えてる? 高校のとき、あの海辺で交わした約束。一緒に牧場をやろうって」

 その言葉に、陽菜はまっすぐ友梨佳を見た。

「もちろん。忘れるわけないよ」

 友梨佳は少しだけ笑って、言った。

「あたしと一緒にやろう。たくさんの人が集まる、思い切りにぎやかな牧場を、ふたりで」

 陽菜の目が潤んだ。けれど、その瞳には迷いはなかった。

「うん、やろう」

 短く、でも力強くそう言った。

 その言葉を聞いた瞬間、友梨佳の胸の奥がじんと熱くなった。言葉にできない何かが喉の奥までせり上がり、それをこらえるように、そっと陽菜の手を握った。

 二人の間に吹き抜ける潮風が、緩やかに髪を揺らした。放牧地の馬たちのいななきが遠くで響き、海には夕日が落ちていく。

 不安がないわけではなかった。資金も人手もまだまだ足りないし、現実は理想のようにはいかないことも多い。それでも、諦めずに歩いていくと決めた。泰造がそうしてきたように、自分たちの手で道を切り拓くと決めたのだ。

 友梨佳と陽菜は、ゆっくりと放牧地を見渡した。風に揺れる草原と、遠く輝く海と、そこに溶けていく茜色の空。ここが自分たちの場所であり、これからも守っていく場所なのだと、互いの目に誓うように見つめ合った。

「ありがとう、陽菜……」

「こちらこそ、ありがとう」

 未来はまだぼんやりとしていて、どんな困難が待っているかは分からない。でも、二人ならきっと乗り越えられる。笑って、悩んで、ときには泣きながらでも、一歩ずつ進んでいける。

 まだ果たしていなかった約束を今こそ果たそう。

 ――海辺の約束を。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ