side友梨佳 第30話
最終レースが終わり、私服に着替えてからも、弓はロッカーの前に座り込んでいた。
桐島がロッカーの荷物をすべて車へと運び終えるまで、じっとその場に残っていた。
通り過ぎる騎手たちに声をかけて、これまでの感謝をひとりひとりに伝えた。だが、誰もがどこかよそよそしく、足早にその場を後にしていった。
友梨佳も「おじいちゃんが心配だから」と、弥生賞の表彰式が終わるとすぐに帰ってしまった。
ガランとしたロッカールーム。人気のない検量室。
静けさが心にじんわりと沁みてくる。
「……いかにも、私らしい終わり方ね」
弓はぽつりと呟いた。
そのとき、ドアが開き、スーツ姿のJRA職員が入ってきた。
頭からつま先までピシッと整った所作。おそらく審判員だろう。
「失礼します。弥生賞での天野騎手の騎乗に疑義がございます。申し訳ありませんが、裁決室までお越し頂けますか」
「……引退レースで制裁を食らうの?」
思わず声が漏れ、弓は自嘲気味に笑った。
なんとも彼女らしい幕引きだと思いながら、審判員の後ろを無言でついて歩く。
歩きながら、レース内容を頭の中で反芻してみたが、いくら考えても心当たりはなかった。
ふと気づくと、彼女はいつの間にかパドックへ向かう通路に立っていた。
「あの、これはどういう……」
戸惑いながら口を開いた弓の視界に、見覚えのある姿が飛び込んでくる。
「……茜?」
「天野さん、みんな待ってますよ。これ、着てください」
桜木茜が歩み寄り、迷いなくピンクのTシャツを弓の胸元に押し当てる。
「ちょ、ちょっと茜……」
有無を言わさぬ勢いでTシャツを頭からかぶせられる。前面には銀色の筆記体で「Yuming」、背中にはこれまで彼女が制したG1レース名がプリントされていた。
唖然とする弓の背中を、茜がぐいと押す。
「さあ、行きましょう!」
抵抗する間もなく、パドックへと押し出された弓。
その瞬間——
地鳴りのような大歓声が湧き上がった。
パドックの周囲にはびっしりと観客が詰めかけていた。中央には、今日のレースに出走した騎手たちが、全員お揃いのピンクのTシャツを着て整列している。拍手が、四方から降り注いだ。
「お待たせいたしました! 天野弓騎手の登場です! 皆さま、拍手でお迎えください!」
司会者の高らかな声とともに、歓声がさらに一段と大きくなる。
電光掲示板には『天野弓騎手 引退セレモニー』の文字。
弓はその場に立ち尽くしたまま、目を瞬いた。
(……やられた)
苦笑いして振り返ると、茜と友梨佳が得意げに笑っていた。
その隣には、なんと桐島までがピンクTシャツ姿で並んでいた。
司会者に促され、弓はパドックの中央へと歩を進める。
「日本馬主協会連合会会長、日比谷明俊様より花束贈呈です」
紳士然とした日比谷が、丁寧に花束を差し出す。
そしてマイクを手に、ゆっくりと語り始めた。
「二年前、亡き妻の愛馬シャドウスプリントは、天野騎手の手綱でマイルチャンピオンシップを制しました。そのおかげで、彼は種牡馬となり、今年、初めての産駒が誕生しました」
温かな拍手が起こる。
「天野騎手のおかげで、シャドウスプリントの血がつながりました。彼の子供たちが走るたび、私は妻の魂とともにターフに立っていられる。こんなに嬉しいことはありません」
日比谷の目に、うっすらと涙がにじんでいた。
「あなたが遺した功績は計り知れません。どうか、病に屈することなく、今後も日本競馬界に力を貸していただきたい。天野騎手、本当にお疲れ様でした」
会場を割るような拍手が巻き起こる。
「続きまして、日本騎手クラブを代表して、桜木茜騎手より花束贈呈です」
茜が近づき、花束を手渡す。
「……やってくれたわね」
弓が少し照れくさそうに目を細める。
「一度くらい、出し抜かせてください」
茜は照れ笑いを浮かべながら、司会者からマイクを受け取った。
「あの……私は正直、天野さんのことが嫌いでした」
客席から笑いが起こる。
「今日みたいに完璧なレースしても出し抜かれるし、私にだけやたら厳しいし、たまに勝っても“天野弓じゃない方”って言われるし……」
また笑いが起きる。弓も、肩を震わせて笑っていた。
「天野さんさえいなければって、ずっと思ってました。だから、あなたを負かすためにずっと研究してきたんです。だけど、研究すればするほど、あなたの凄さが分かってしまって。あまりに高い壁で、何度も心が折れそうになりました」
茜は拳を握りしめ、真っすぐに弓を見つめた。
「でも、そのたびにあなたは、何気なく煽ってきました。“そんなもんなの”って顔で……」
会場からクスクスと笑いが漏れる。
「悔しくて、もっと研究して、また負けて……でも気がついたら、私も重賞をいくつか勝てるようになっていました」
茜は一度目を閉じ、深呼吸するように息を吸い込んだ。
「今なら分かります。全部、私を成長させるためだったんですよね」
その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「私はあなたが嫌いでした。でも今は、感謝と尊敬しかありません」
そして力強く続けた。
「重賞では一度もあなたに勝てませんでした。だから私はダービーを獲ります。天野さんが勝てなかった、唯一のレース。私が勝って、あなたを超えてみせます。それが私にできる、最大の恩返しです!」
茜は両手でマイクを握りしめ、大きく息を吸い込んだ。
「女性初のダービージョッキーに、私はなる!!」
弓は一瞬ぽかんと口を開ける。観客席からは失笑と拍手がパラパラと起きた。
「茜っち、そういうとこなんだよなぁ……」
友梨佳が呆れたように、しかしどこか愛おしそうに呟いた。
微妙な空気に、茜は固まってしまう。
「えー……以上でよろしいでしょうか?」
司会者が冷や汗をぬぐうような声で締めに入った。
「あ……天野さん、お疲れ様でした……」
茜は顔を真っ赤にしながら、そそくさと友梨佳の隣へ戻った。
「茜っち、どうすんの、この空気」
友梨佳がひそひそと耳元でささやく。
「……だって、しょうがないじゃない」
茜は消え入りそうな声でつぶやいた。
「えー、日本騎手クラブを代表して、“天野弓じゃない方”からお言葉をいただきました!」
司会者の絶妙なフォローに、場内が一気に盛り上がる。
「……私よりウケてんじゃん」
「そりゃプロだもん。茜っち、後でちゃんとお礼言っときなよ」
友梨佳がニヤニヤしながら言うと、
「むー……」
茜は頬をふくらませてそっぽを向いた。
「それでは最後に、天野騎手。よろしくお願いいたします」
司会者が丁寧にマイクを差し出すと、弓は一瞬戸惑ったように立ち尽くした。視線を巡らせると、舞台袖で見守っていた茜と友梨佳が「いけいけ!」と両手を振って盛り上げている。恥ずかしそうに肩をすくめて、弓は思わず苦笑いをこぼした。
「こういうの、苦手で……ずっと避けてきたので、少しだけ……」
控えめに口を開いた瞬間、会場のざわめきがすっと消えた。ライトがあたるパドックの中央、静寂に包まれた空気の中で、弓の声だけがすっと響いた。
「私が騎手になったのは……高校のときに亡くなった、大切な親友の夢を継ぎたかったからです。正直言って、最初は馬が好きだったわけじゃないし、騎手という仕事にも誇りは持てませんでした」
少しうつむいて、両手でマイクをぎゅっと握りしめる。
「だから、どれだけ勝っても、どれだけ称賛されても……心はずっと冷めていて。斜に構えて、誰にも本当の自分を見せずに……私はずっと、ひとりなんだって思ってました」
ふと、友梨佳の方をチラリと見る。その瞳が優しく返すように揺れた。
「でも、ある人に出会って……少しだけ心がほぐれて、自分を少しさらけ出すことができたときに、ようやく気づいたんです。……もしかして、私、この仕事が好きかもしれないって」
小さく息を飲み、弓はまっすぐ正面を見据えた。
「そして、今日ここに立って、ようやく実感しました。私、たくさんの人に支えられてきたんだって。ずっとそばにいてくれたんだって。……私は、ひとりじゃなかった。競馬が……仲間が……みんなのことが、大好きだったんです」
涙が一筋、弓の頬を伝って落ちた。
「……馬鹿ですよね。全部終わってから気づくなんて。もっと早く気づいていれば……きっと、違う騎手人生があったかもしれないのに……」
その瞬間、観客席から大きな声が飛ぶ。
「まだ終わってないよ!」
「まだまだこれからだよ!」
「病気に負けるな!」
割れんばかりの拍手と声援が会場を包み込む。弓は驚いたように目を見開き、きょろきょろと観客を見渡した。誰もが、まるで自分のことのように、真剣に、温かく拍手を送っていた。
「……みんな、ありがとう……ほんとうに、ありがとう……!」
弓の声が涙に震え、ついには堰を切ったように嗚咽を漏らした。泣きじゃくる弓に、友梨佳と茜がすかさず駆け寄って抱きつき、遅れて桐島も飛び込んできた。
その様子に、他の騎手たちも一斉に中央へと集まってくる。
「友梨佳、もう……やっちまうか」
桐島がニヤリと笑って言うと、
「やろう、やろう!」
友梨佳もすぐさま乗っかった。
「え、やるって……何を……?」
弓が戸惑って問いかける間に、茜がさっと手から花束とマイクを奪い取り、近くのスタッフに預けた。
「はいはい、預かりまーす!」
「よし、いくぞ!」
桐島と友梨佳が弓の体を軽々と抱き上げた。弓の目が丸くなる。
「ちょ、ちょっと待って……!」
「せーのっ!」
茜の音頭で、弓の身体が宙に舞う。
「わっしょい!」「わっしょい!」
観客席からも自然と掛け声が湧き起こり、その声に応えるように弓は何度も空を舞った。最初は驚きで固まっていた弓の顔にも、やがて自然な笑顔が戻ってくる。
「ねえ、茜っち……これ、何回やるの……?」
胴上げの合間に友梨佳が聞く。
「決まってるでしょ? 天野さんが重賞を勝った回数よ!」
「ちょ、ちょっと待て。それ……100超えるぞ」
桐島が焦って目を見開いた。
「え、うそ!? ちょっとストップ!」
弓が空中に持ち上げられたまま胴上げが中断される。
「じゃあ、G1は? ごめん、ちょっと天野さんをもっと高く持ち上げて」
茜の言葉に弓は高く持ち上げられる。
「ちょ、茜! 降ろして! なんか……生贄みたいになってるんだけど!」
「大丈夫。すぐ終わりますから」
そう言いながら、弓の着たTシャツのバックプリントのG1レースを数える。
「19個。これならなんとか……」
「茜っち、隣に何か数字書いてない?」
友梨佳がスマートグラスを起動しながら指摘する。
「あ、西暦か。勝った年が書いてあるんだ……え、桜花賞、3回も勝ってる」
「マジ!? うわ、天皇賞春秋あわせて4回だって!」
「有馬記念も3回! エグッ……」
周囲の騎手たちも集まって背中をのぞき込む。
「ちょっと、もういい加減にして!」
弓が半泣きになりながら体をよじって、胸元を腕で隠すように抱え込む。
「ユーミン、なんで隠してるの?」
「だって……なんか恥ずかしいのよ!」
「もう単純にG1レースの数でよくね? だから19回で」
騎手のひとりが提案する。
「じゃあ、交流重賞はどうするよ? 帝王賞とか勝ってたろ」
「それを言うなら、香港のG1もあるし……」
次々に声が飛び交い、誰かが笑い、誰かがツッコミを入れる。
「天野さん、重賞勝ちすぎなんですよ。もう数えるの面倒になってきたから、年齢でいきましょう」
茜があっさり言い放った。
「……はっ!? ちょ、ちょっとそれは――」
「マーくん、ユーミンって今何歳?」
「えっと、たしか三十……」
「あー……」
一斉に深いため息が巻き起こる。
「ちょっと! 失礼でしょ! もう本当に降ろしてってば!」
必死に叫ぶ弓に、ついに全員が大笑い。彼女の声はその笑いにかき消されていった。
照明の下で、笑顔と涙が入り混じったパドックは、まるで祝福と惜別が同時に降り注ぐ不思議な空間だった。歓声の中で弓はようやく地上に降ろされ、仲間たちに囲まれながら、深く深く息を吐いた。
拍手はしばらく止まなかった。
その音の向こうで、春の夜風が少しだけ冷たく吹いた。たくさんの笑いと声に包まれながら、どこか切ない名残惜しさが、友梨佳の胸の奥にそっと残っていた。