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side友梨佳 第28話

 中山競馬場のパドックに、騎乗命令のアナウンスが響く。

 各騎手たちは一斉に自分の馬へと駆け寄り、手早く鞍にまたがる。

 弓がリアンデュクールに騎乗する場面を、友梨佳は遥とともに関係者用のエリアから見守っていた。

 三枝が手綱を引き、弓は彼の手を借りて鞍へと登った。

 友梨佳は中山競馬場に来ること自体、最初はためらっていた。

 泰造のことが頭をよぎり、胸の奥がチクリと痛んだからだ。

 だが「せっかくの重賞チャンスでしょ。表彰式に生産者がいなかったら寂しいわよ」と遥に促され、陽菜にも「行っておいでよ。おじいちゃんには私がついてるから」と背中を押されて、ようやく足を運ぶ決意をした。

 陽光は柔らかく、3月の空の下でリアンデュクールの白毛が鈍く輝く。

 余計な脂肪は削ぎ落とされ、研ぎ澄まされた筋肉に血管が浮き立っている。まるで彫刻のように精悍な馬体が、パドックの他のどの馬よりも際立って見えた。

「さすが、影山先生。良く仕上がってますね」

 遥が、隣で同じようにリアンを見つめる影山に声をかけた。

「どこに出しても恥ずかしくない出来にはしたよ」

 影山は腕を組んだまま答え、顎でリアンの手綱を引く三枝を指した。

「みすぼらしく見えるとしたら、アイツのせいだな」

 三枝は誰かから借りたらしい、よれたワイシャツにサイズの合わないスーツを身にまとっていた。

 足元は履き古したスニーカー。まるでちぐはぐな装いだった。

「スーツの一着ぐらい作っておけって言ったんだけどな……。 友梨佳だってちゃんとスーツを着てるのによ」

 影山の言葉に、友梨佳は気まずそうに愛想笑いを浮かべた。

 本当は私服で来ようとしていたのだ。

 それを陽菜に強く咎められ、「社会人ならスーツの一着くらい持ってなさい」と叱られて、しぶしぶ買いに行った経緯がある。

 三枝の格好を責めることなど、とてもできなかった。

 遥が事情を知っているらしく、横でニヤニヤしているのがまた腹立たしい。

「発汗も抑えめだし、ユーミンが乗っても落ち着いてる。いい状態だね」

 話題を逸らすように、友梨佳が口を開いた。

「ああ。あとは本番でどう走るかだな」

 影山の目が鋭くなる。

「先手の取り合いになるだろう。相手は茜のホーリーグレイスだ。無理に競り合うなって、ふたりには言ってある。だから極端なハイペースにはならないはずだが……」

 影山の視線が、リアンとホーリーグレイスの2頭を追っていく。

 その横顔を見ながら、友梨佳は胸の奥に湧き上がる言いようのない思いを持て余していた。

 リアンデュクールには勝ってほしい――そう願わずにはいられない。

 けれど、もし茜が負けたら。

 あの誇り高い騎手は、もう二度とリアンの背に戻ってこられなくなるのではないか――。

 その矛盾した思いが、春の光にかすかに揺れた。


 中山競馬場に重賞のファンファーレと、観客の手拍子が高らかに響き渡る。

 リアンデュクールがこのファンファーレを聞くのは、これが初めてだった。

 ホーリーグレイスの鞍上にいる茜は、スターターを確認する。

 スターターは白濱さん。馬の脚並みがそろった瞬間、迷わずゲートを開けるタイプだ。

 次に視線を送ったのは、リアンデュクールの手綱を握る弓だった。

 白地に緑の山形一本輪、青い袖の勝負服――いまや天野弓の代名詞とも言える装いだ。

(リアンの気性を考えれば、必ず私の馬より前に出る。他に逃げ馬はいない以上、ペースは上がらない。私は番手につけて、リアンを徹底的にマーク。4コーナー手前で仕掛けて先に抜け出せば――)

 茜はゲートへと誘導されながら、頭の中でレースプランを緻密に組み立てていく。

 リアンデュクールはすでにゲート内に収まっていたが、落ち着きを保っているようだ。

 ゴーグル越しの弓の表情からは、何一つ感情が読み取れない。

 茜がホーリーグレイスを静かに落ち着かせた、その瞬間だった。

 ――ゲートが開く。

 同時に、ホーリーグレイスが鋭く飛び出す。理想的なスタートだ。

 すぐに横を確認する。だが、そこにリアンデュクールの姿はない。

 斜め後方を振り返っても、どこにもいない。

 茜はゴール板手前のターフビジョンに目をやった。

 そこには、最後方を走るリアンデュクールの姿が映し出されていた。

 スタンドからも、どよめき混じりの歓声が湧き上がる。

(出遅れた……? いや、まさか……作戦?)

 胸をよぎる疑念を、茜はすぐに振り払った。

(他に先行する馬はいない。リアンの爆発的な末脚を活かした追い込みで来るつもりなら、出来ないようにさせてもらう)

 バックストレッチに入ると、茜は意図的にペースを落とした。

 リアンデュクールの動向を警戒してか、誰も茜に絡んでこない。

 前半1000メートル――62秒。

(私にとっては完璧な流れ)

 3コーナーを回っても隊列は変わらず、リアンデュクールは依然として最後方。

 理想的な展開に、茜の心拍数は上がり、手綱を握る手にも汗が滲む。

 4コーナー手前、実力的に劣る2番手集団に焦れた後続の馬群が外に持ち出す。

 リアンデュクールはさらにその外を回らなくてはならない。

(よし、思った通り!)

 茜はタイミングを計って、ホーリーグレイスにゴーサインを送る。

 最内を鮮やかに回り込み、じっくり溜めた末脚を解き放つ。

 直線だけの勝負になれば、前にいる馬が断然有利だ。しかもリアンデュクールは大外をまわらなくてはならない。

 残り200メートル。

 ゴール前の急坂にかかっても、ホーリーグレイスの脚は衰えを見せない。

(勝った! リアンにも、天野弓にも!)

 勝利を確信したその刹那、茜の背筋に戦慄が走る。

 殺気とも呼べる視線が、まるで刃のように彼女の背を貫いた。

 顔面を冷や汗が一気に覆う。

(……!?)

 茜は、恐る恐る視線を左に向けた。

 芝を巻き上げ、大外からリアンデュクールが疾風のごとく迫ってくる。

 その迫力は、まさに鬼神。

(抜かせるか!)

 しかし、内ラチ沿いにいる茜では、馬体を合わせにいく余裕もない。

 リアンデュクールは白い矢のようにホーリーグレイスを追い抜いた。

 その背で、弓は鞭を使うことなく、リアンデュクールの動きに身を委ね、静かに手綱を押していた。

(……やられた)

 茜が負けを悟ったその瞬間――

「ピシッ」と、乾いた音が空気を裂いた。

(……今の音は?)

 その疑問が浮かぶ間もなく、茜は2着でゴールを駆け抜けた。

(天野さんからテキに伝わった話……本当だったんだ)

 馬を徐々に落ち着かせながら2コーナーへ向かう。

 そこに、リアンデュクールを駆る弓が静かに近づいてきた。

「リアンの脚……本当だったんですね」

「聞こえた? そうよ。だからスパートをかけられるタイミングは限られる」

「じゃあ、どうして追い込みなんか……」

「ここまでなら、逃げても何とかなったかもしれない。でも、皐月賞は無理。ましてダービーなんて。ここで何としても追い込みを教えこんでおきたかった。リアンの弱点をカバーするにはこれしかないから」

「⋯⋯リアンの気性で、よく後方待機ができましたね」

「調教で教え込んだから。でも、誰にでもできることじゃないわね」

 茜はうつむいた。

「茜以外にはね」

 弓の言葉に、茜ははっと顔を上げた。

「本来なら、その子は2桁着順でもおかしくなかった。茜が、先手を打ってレースを組立て、その子の100%を引き出したからこその2着よ。……さすがね。今の茜なら、たとえ2400メートルでもリアンの力を引き出せる」

 そう言って、弓はヘルメット越しに茜の頭をポンと叩いた。

 笑顔を浮かべたその瞳には、確かに涙がにじんでいた。

「ありがとう。一緒に走ってくれて。……最後に茜とレースができて、本当に良かった」

 弓はゴーグルをかけ直し、リアンデュクールをゆっくりとスタンドの方へ向けて走らせる。

「……天野さん……」

 茜もまたゴーグルをかけ、彼女の後を追ってスタンドへ戻っていった。


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