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side友梨佳 第27話

 夜明け前の薄明かりが、美浦トレーニングセンターのウッドチップコースを包んでいた。まだ東の空が白み始めただけの静けさの中、吐く息が白く立ちのぼる。各厩舎の馬たちが入れ代わり立ち代わりにコースへ入り、蹄音と騎手たちの声が絶え間なく響いていた。照明の光に照らされた馬体が次々と駆け抜け、朝の調教に熱が入る。

 その中で、リアンデュクールを駆る弓は、僚馬2頭を前に置き、軽めのキャンターでコースを周回していた。手綱を持つ指には力がこもっている。リアンデュクールは気性の勝った馬で、前に馬がいれば本能的に追い抜こうとする。今も僚馬を追い抜こうと首を上げ、ハミを噛んでイレ込んでいる。

「まだ、ダメ」

 小さくつぶやくと、弓は手綱を引いてリアンデュクールを制した。僚馬の背を視界に収めたまま我慢を重ね、残り600メートル。合図を出すと、リアンデュクールは躊躇なく加速を始めた。鞭を入れたのは残り200メートル。鋭く反応し、一気に僚馬を置き去りにした。

 調教スタンドでは、影山がその走りを黙って見つめていた。隣には、まだ関東馬の担当になって日が浅い綾乃が立っている。

「あ、あの。これって……いいタイムなんですよね?」

 不安げに尋ねる綾乃に答えることなく、影山はすっとその場を離れた。慌てて綾乃がその後を追う。

 スタンドを降りたところに、ちょうど調教を終えた弓とリアンデュクールが通りかかる。

「調子はどうだ、天野」

「ええ、良い意味で変わりません。力は十分に出せます」

 弓の言葉に、綾乃は慌ててメモ帳を取り出して書き留める。

「リアンのことじゃない。お前のことだ」

「それは、影山先生の方がご判断に長けていらっしゃると思いますが」

 弓は柔らかく微笑む。その笑みに影山は思わず吹き出す。

「お前も相変わらずだな」

 弓は肩をすくめ、リアンデュクールをゆっくり歩かせていく。

「あの、影山先生。リアンデュクールの調子は……ホームページに情報を上げなきゃいけなくて」

「自分で判断できないなら、見たこと聞いたことをそのまま書いとけ。それだけで十分だ。あとは読んだ人間が判断する」

「は、はい……。 それで、リアンデュクールの鞍上は?」

「天野は良い意味で変わっていない」

「……?」

「つまり、乗せない理由はないってことだ。ほら、早く報告してこい。友梨佳が首を長くして待ってるぞ」

「はい! ありがとうございます!」

 一礼して駆け出した綾乃だったが、タイミング悪く横から馬が現れ、慌てて尻もちをついた。立ち上がってペコペコと頭を下げると、再び走り去った。

「遥のやつ、まさかあの嬢ちゃんをうちで育てさせる気じゃないだろうな……」

 影山は苦笑しながらその後ろ姿を見送った。


 ***


 厩舎に戻り、弓はリアンデュクールから静かに下馬した。だが、着地したとたん膝に力が入らず、ぐらりと後ろによろける。誰かの腕に支えられて倒れずに済んだ。

「……茜」

 支えていたのは茜だった。

「……本当だったんですね。病気のこと。実際に見るまでは信じられませんでした」

「騎手を辞めたくて仮病使ってるのかもよ?」

「そういうところ、変わりませんね」

 弓はふっと笑い、茜の手を借りずに歩き出した。

「立ち話もなんだし、中で話そうか」

 二人は影山厩舎の休憩室に入っていく。弓は冷蔵庫からペットボトルを取り出したが、キャップを開けられない。茜が無言でそれを取り、開けて手渡す。

「ありがとう」

 そう言って椅子に腰を下ろした弓は、水を口に含んだあと小さく息をついた。

「たった一鞍乗っただけで、これよ」

「友梨佳から事情は聞いてます。どうして自分から弥生賞に乗るって申し出たんですか? まさか……弥生賞で死ぬ気じゃないでしょうね?」

「そんなことするわけないじゃない。友梨佳ちゃんにお願いされたのよ。ダービーに連れて行ってって」

「それだけですか?」

 弓は目を伏せ、水をもう一口含んだ。

 ふうッと息をつくと、茜をチラッと見た。

「……今のあなたじゃ、リアンを乗りこなせない。リアンの特性をまるで分かってないのよ。レースの組み立ても後手に回っている。だから3回も負けるのよ。あなたじゃ、友梨佳ちゃんの夢も叶えられないの」

 はっきりとした口調に、茜は顔をしかめた。実力を否定されただけでなく、友梨佳の名前まで持ち出されたのだ。

「……天野さんこそ、途中で落馬しないでくださいね。リアンは私が実力で奪い返します。友梨佳の夢も、私が叶えます!」

 弓はくすっと笑い、立ち上がって茜の肩を軽く叩く。

「楽しみにしてるわ。頑張って」

 そして休憩室を出ようとすると、扉のそばで綾乃がメモ帳を胸に立っていた。

「あら、今の聞いてた?」

「あ、あの、い、いえ……」

 しどろもどろの綾乃に弓はそっと顔を近づけ、耳元で優しく囁いた。

「今のは記事にしないでね」

「ひゃい……」

 真っ赤になりながら綾乃はうなずいた。

 弓が厩舎を出て行ったその瞬間、バンッと勢いよく休憩室の戸が開いた。

「だーもう、ムカつく! なんなのよ、あいつ!」

 茜が頭をかきながら廊下をズカズカと歩く。

「あ、あの……どちらへ……?」

「決まってるでしょ! 研究よ、天野弓をぶっ潰すための!」

「で、でも……リアンが負けたら皐月賞には……」

「私が勝って、リアンが3着までに来ればいい話しよ! それとも、天野に忖度しろって言うの!?」

「い、いえ、そんなつもりでは……」

 綾乃が言い終わる前に、茜はそのまま事務所に飛び込んでいった。

「おー、荒れとるなあ」

 いつの間にか影山が後ろに立っていた。

「わ、私、桜木さんを怒らせてしまったでしょうか……?」

「いや、嬢ちゃんは悪くない。さすが天野だ。茜のやる気スイッチがどこにあるか良く分かってる」

 影山は目を細めて言った。まるで、望んでいた展開を確認したかのようだった。


 ***


「友梨佳! 友梨佳!」

   和室から、泰造のしわがれた声が響いた。

「おじいちゃん、どうしたの?」

 台所で朝食の支度をしていた陽菜が振り向き、急いで襖を開ける。

「友梨佳なら、仔馬の出産で厩舎に行ってるけど⋯⋯」

「おお、香織さんか。友梨佳はどこに行った? さっきから姿が見えんのだ」

 布団から半身を起こした泰造が、陽菜の顔をじっと見て言う。

「私、香織じゃないよ⋯⋯陽菜だよ」

「良樹に言って探させないと。どこかで腹をすかせて泣いてるかもしれんからな」

「⋯⋯香織さんと良樹さんって、友梨佳の亡くなったご両親だよね⋯⋯?」

 陽菜は動けなかった。胸の奥が重く沈み、目の奥が熱くなる。

 泰造はしばらく虚空を見つめていたが、やがてふと我に返ったように顔をあげた。

「あ、ああ。陽菜か。どうした、何かあったか?」

「ううん、おじいちゃんが気になって、ちょっと様子を見に来ただけ」

 陽菜はかろうじて微笑みながら言ったが、声が震えていた。

「そうか。友梨佳は大丈夫か? 仔馬の出産が重なっているんだったな」

「うん。大岩さんが手伝ってくれてるから、安心して」

「厳の奴も、こんなところで油を売ってないでさっさと嫁を取って、親父さんを安心させてやればいいんだ」

 そう言って泰造は小さく笑ったが、大岩は泰造と五つしか年が離れておらず、もちろん両親もすでに他界している。

 陽菜は、目に涙を浮かべながらそっとうなずいた。

「おじいちゃん!」

「泰造さん、失礼するぞ!」

 大きな声とともに、友梨佳と大岩が駆け込んできた。

「おじいちゃん、無事に産まれたよ! 元気な男の子が2頭!」

「おお、そうか、ご苦労だったな。朝飯があるぞ、食べていけ。おーい、香織さん! 友梨佳と厳に飯を出してくれ!」

 泰造の言葉に、友梨佳と大岩は息を呑んで顔を見合わせた。

「⋯⋯おじいちゃん、お母さんはもういないんだよ」

 友梨佳がそっと言うと、泰造は一瞬戸惑いの色を見せた。

「いない? ⋯⋯あ、ああ。そうだったな。すまん、寝ぼけてたようだ」

 泰造は頭をかきながら、どこか照れたように笑った。

「おいおい、泰造さん、しっかりしてくれよ。ボケるにはまだ早えぞ」

 大岩がわざとらしく笑って場を和ませようとする。泰造もそれに応じて笑みを浮かべた。

 そのやりとりを見ながら、友梨佳は陽菜の手をぎゅっと握りしめた。

 陽菜が驚いて顔を向けると、友梨佳の瞳には涙があふれそうになっていた。


 リビングで、三人は沈黙の中、テーブルを囲んで座っていた。

「⋯⋯いつからだ?」

 重たい沈黙を破って、大岩が低く問いかける。

「今朝からです。急に私のことを香織さんって呼んで」


「癌が脳に転移しているのか?」

「分からない。でも、せん妄が出てきたってことは⋯⋯」

 陽菜の声は震え、目元には涙が滲んでいた。

 友梨佳は黙ったまま、拳を膝の上で強く握りしめていた。

「⋯⋯長くねぇかもしれねえな」

「友梨佳、大丈夫?」

「⋯⋯うん。お別れの覚悟はしてたから。でもね⋯⋯」

 言葉の続きが詰まり、唇が震える。

「でも、段々あたしの知っているおじいちゃんじゃなくなるのを見るのはつらいよ⋯⋯」

 堪えていた涙が、ぽろりと落ちた。

 陽菜がそっと、友梨佳の背中に手を添えて優しく撫でた。

 その時、陽菜のスマホが鳴った。ディスプレイには「綾乃」の名前。

「もしもし、綾乃? うん、分かった。ありがとう」

 陽菜は通話を切って言った。

「リアンの鞍上が天野さんに決まったって」

「⋯⋯ユーミンが?」

「そうか。桜木には申し訳ないが、今回ばかりは天野の方がいい」

「でね、厩舎で天野さんにあおられて、桜木さんが相当頭にきてるみたい」

「なんだ!? 大丈夫なのか?」

「大丈夫。ユーミンはわざとあおったんだよ。茜っちのやる気を出させるために」

 友梨佳は涙をぬぐい、微笑みを浮かべた。

「⋯⋯ユーミン、本当にこれを最後にするつもりなんだ」

 そう呟いた友梨佳の胸の奥には、言葉にならない想いが渦巻いていた。


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