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side友梨佳 第26話

 友梨佳はふと目を覚ました。

 目に飛び込んできたのは、子供の頃から見慣れた天井。窓の外はまだ夜の帳が下りたままだ。

 枕元のスマホに手を伸ばすと、画面には「4:30」の文字が浮かんでいた。

 牧場の朝は早いとはいえ、さすがに少し早すぎる。それでも、二度寝には微妙な時間だった。

 そっと身を起こす。隣に寝ている陽菜を起こさないように、慎重に身体を動かす。

 上体を起こした友梨佳の素肌には、いくつもの赤い痕——陽菜のキスマークが残されていた。

(こりゃ、首まで隠れるインナー着ないとまずいな)

 苦笑しながら、友梨佳は手早く下着を身に着け、服を着込んでいく。その間も、寝息を立てる陽菜にちらりと目をやる。

(もし、陽菜がいなくなったら——)

 唐突に、そんな不吉な思いが脳裏をかすめた。

 自分ひとりで、この牧場を切り盛りしていけるのか。

 弓が、好きでもない競馬に身を投じ、死に場所を探すようにレースへと挑んでいたと聞いて、どこかで責める気持ちも確かにあった。

 けれど、今ならわかる。弓がどれほど孤独だったか。

 ましてや、弓は治らない病を抱えていたのだ。

(あたしだって、もし陽菜を失ったら……同じ道を選んじゃうかも)

 そんな弱気を振り払うように、両手で自分の頬を軽く叩く。

(いけない、しっかりしないと)

 小さく息を整えて、友梨佳は静かに部屋を後にした。


 ***


 夜明け前。空気は氷のように冷たく、あたりはまだ闇の中だった。

 パートが来るまでの間、友梨佳はひとりで朝飼の準備を始めた。

 バレットの仕事は好きだったし、最近は事務作業もこなせるようになってきた。

(でも、やっぱりあたしにはこういう仕事が合ってる)

 そう思いながら、来月に出産を控えた繁殖牝馬たちの腹を一頭ずつ確かめてまわる。

 今年の種付けのプランは、すでに全て友梨佳が考えてある。リアンデュクールの様な派手な配合ではないが、足元が丈夫な馬が生まる実践のある種馬をすでに予約している。

 コンスタントに活躍できる馬を作って、馬主や調教師からの信頼を得ることが次につながる。茜のバレット兼マネージャーをした時に得た教訓だった。

 そして、それこそ泰造が友梨佳に茜のバレット兼マネージャーをやらせて欲しいと影山に頼んだ狙いだった。

(おじいちゃんには、かなわないや)

 そう思いながら友梨佳は繁殖牝馬のお腹を見てまわった。

 すべての馬を見終える頃には、空がほのかに白み始めていた。

 早番のパートと交代し、朝飼を終えた友梨佳は家へ戻る。

 リビングに入ると、陽菜が朝食の準備をしていた。

 室内用のコンパクトな車椅子を器用に操りながら、キッチンとテーブルを行き来している。

「陽菜、ありがとう。ほんと助かる」

「ちょうどできたとこ。友梨佳、おじいちゃん呼んできて」

「うん、わかった」

 友梨佳はリビングを出ながら、「おじいちゃーん!」と大きな声で呼んだ。

 陽菜は苦笑しつつ、器用に茶碗を並べていく。

 泰造の食欲は最近めっきり落ちてきており、今では茶碗に三分の一のご飯を食べられればいい方だった。

 それでも、口に運べるうちはまだ元気な証拠だと、友梨佳は内心ほっとしていた。

「さっき、おじいちゃんとも話してたんだけどね……」

 陽菜が茶碗を置いて、少し真面目な表情で言った。

「私、この家で暮らそうと思うの」

「えっ、本気?」

「うん。友梨佳ひとりじゃ大変だし、ヘルパーさんが来られない日もあるでしょ。牧場のことは無理でも、家のことなら手伝えるから」

「……そりゃ、助かるどころじゃないけど……おじいちゃんはいいって?」

「賛成してくれたよ。ね、おじいちゃん」

「あ、ああ。放っておいたら共倒れだって脅されちまったからな……」

「それだけ?」

 陽菜がにやにやと笑いながら問いかける。

「……友梨佳の作る飯より美味いしな」

「なによ、それ!? もう、おじいちゃんの好きなだし巻き玉子作ってあげないから」

「作ったことねぇべや」

「そ、それは……でも、明日にでも作るかもしれないでしょ? あーあ、私のだし巻き玉子食べられないなんて、かわいそう~」

「陽菜のだし巻き玉子で充分だ」

「『で充分』って、なに?」

 陽菜は頬をふくらませる。

「……一番は幸江のだし巻き玉子だ」

「あ、それは敵わないや」

 陽菜は肩をすくめて笑った。

「だね」

 友梨佳もつられて笑う。

 陽菜と、おじいちゃんと三人で囲む食卓——。

 それは、陽菜と出会った頃を思い出させてくれる、静かで穏やかな時間だった。

 この幸せが、少しでも長く続いてほしい。

 心からそう願いながら、友梨佳は湯気の立つ味噌汁をそっと口に運んだ。

 その時、友梨佳のスマホが軽快な着信音を奏でた。画面には「遥」の文字が表示されている。

「遥さんからだ」

 友梨佳は一言つぶやき、通話をスピーカーに切り替えて応答した。

「もしもし、遥さん? 治ちゃん、どうだった?」

 遥は、交際相手の前川に会うために美浦へ向かっていたはずだ。

『ええ。最後通告を叩きつけてきたわよ』

 その一言に、友梨佳の脳裏に浮かんだのは、覚悟を問われた前川の、困惑とも怯えとも取れる、複雑に揺れる表情だった。

『でもね、電話したのはそのことじゃないの。来月の弥生賞の鞍上について、先に伝えておこうと思って』

「鞍上?」

『天野さんに乗ってもらうわ』

「え!?」「ええっ!?」

 友梨佳と陽菜が、驚きのあまり同時に声を上げた。

 リアンの鞍上は茜に決まりきっていると思っていた。陣営の誰もが、そう受け止めていたはずだった。

「茜っちじゃないの?」

『その予定だったのよ。でも、本人が断ってきたの。“天野さんから譲られるんじゃなくて、勝ち取りたい。リアンの鞍上に相応しいって認められるまで、私は乗らない”って』

 遥の声には、半ば呆れたような、それでいてどこか誇らしげな響きがあった。

(茜っちらしいな……)

 友梨佳は、真っ直ぐで融通が利かない、でも誠実な茜の顔を思い浮かべた。

『それにね、天野さんからも正式に依頼があったのよ。リアンに乗せてほしいって』

(ユーミンがまた、レースに出る——)

 友梨佳は胸の奥で、言葉にならない高揚を感じていた。懐かしさと期待が入り混じる。

 だが、その空気を遮るように、陽菜が厳しい声を上げた。

「天野さん、どういうつもりなんですか? 引退の花道を飾りたいだけなんていうのなら、私は反対です」

「ちょっと、陽菜……!」

「だってそうよ。リアンだってクラシックがかかってるのよ。感傷で鞍上を決めるわけにはいかないわ」

 陽菜の真剣な言葉に、室内の空気が一瞬ぴんと張りつめる。だが、遥は電話の向こうで笑った。

『陽菜もいたのね。ちょうどよかった。もちろん、条件付きよ。最終追い切りに天野さんが乗って、その上で影山先生がゴーサインを出したら、という話』

 遥は一拍置いて、続けた。

『天野さんの本音は、私にも測りかねる。でもね、リアンをここまで勝たせてきたのは、あの人よ。もし身体的に問題がないなら、実績のある騎手を選ぶのは、当然の判断じゃないかしら?』

「……そういうことでしたら、異存はありません」

 陽菜は渋々ながらも、納得したように口を閉じた。

「でも、もしユーミンがリアンに乗ることになったら……茜っちは?」

『桜木さんは、後藤さんのホーリーグレイスに乗ることになるわ。ホーリーグレイスは自在の脚質らしいから、騎手の腕の見せ所ってわけね』

 言葉の端に、遥の期待がにじんでいた。

 通話が終わり、しばし沈黙が落ちた。

 友梨佳はふっと息を吐いて、窓の外に視線を向ける。

 ——これが、天野弓の最後のレースになるかもしれない。

 そう考えたとき、胸の奥が静かにざわめいた。引退の花道を飾るためでも、思い出づくりでもない。本気で勝ちに来る者だけが立てる場所。その舞台に、茜と天野が並び立つのだ。

 二人は似ていない。でも、どこまでも真っ直ぐだ。譲らず、屈せず、それぞれの誇りを背負ってゴールを目指す。

 ——どちらが勝つにしても、きっと、壮絶なレースになる。

 想像しただけで、全身の血が熱くなる。期待と不安と、ほんの少しの祈りが入り混じる中、友梨佳はただ静かに、その日を待とうと思った。


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