side友梨佳 第25話
「――少し、自分の話でもしようかしら」
弓の声は穏やかだったが、その響きの奥に、重たいものが沈んでいた。窓の外に目をやったまま、遠くを眺めるように語り出す。
「私は、児童養護施設で育ったの。赤ん坊の頃に、いわゆる赤ちゃんポストに捨てられてたのよ。そして、もう一人一緒に捨てられてた子がいた。戸籍がなかったから、当時の市長が奥さんの名前――天野真弓から、天野真子と天野弓って命名してくれたらしいわ。それからずっと、姉妹みたいに、あるいは……それ以上に、近かった」
友梨佳も陽菜も、声を出さずに耳を傾けている。桐島だけがわずかに眉を動かし、昔の話を思い出すように目を伏せた。
「中学生になった頃には、もう、お互い恋人みたいになってた。周囲に気づかれないようにしてたけどね。真子は馬が好きで、“将来は一緒に騎手になるんだ”って、夢みたいなこと言って……私も、真子が笑っていればそれでよかった」
弓は目を伏せながら、かすかに笑みを浮かべた。けれど、その表情はどこか遠くを見ているようで、懐かしさと痛みが入り混じっていた。
「真子は尋常性白斑って病気で、皮膚のメラニン色素が徐々に抜けて、その部分が白くなるの。真子は頭皮のメラニン色素が抜けてたから真っ白な髪の毛だった。友梨佳ちゃんみたいにね」
弓の視線がそっと友梨佳に向けられる。言葉の端に、愛しさと、少しの哀しみがにじんでいた。
弓はそこで一度、浅く息を吸った。喉がひときわ細く震えた。
「でも、高校に上がる直前……真子は、施設の男にレイプされた。あの時代はまだ、そういうことが表に出る場所じゃなかった」
その言葉に、友梨佳が息をのむ。陽菜は静かにまぶたを伏せた。病室の空気が、ぴたりと重く沈んだ。
「私、何もできなかった。助けてあげることも、代わってあげることもできなかった。悔しかった。怖かった。……それ以来真子は、笑わなくなった」
弓の目に、初めて涙が浮かぶ。けれど、それを拭う手は動かない。ただ、淡々と続けた。
「ある日、真子が言ったの。“ここから出よう”って。“死んで、全部終わらせよう”って」
沈黙が落ちる。病室に聞こえるのは、心電図のリズムだけ。
「真子が望むなら私に異存はなかった。施設の金庫からお金を盗んで、真子が憧れていた知床まで行ったの」
弓はベッドに横たわったまま、遠く記憶の岸辺を手探りでたどるように、言葉を選びながら話す。
「お金が尽きるまで知床で過ごして、そしてふたりで、一緒に知床の海に飛び込んだの。でも、私だけ助かった」
言葉のあとに、空白のような時間が流れた。誰も口を開かない。重く、揺るがせない真実がそこにあった。
「それから、どうしたらいいか分からなくて……私は、とにかく施設を出たかった。何か、別の場所に行きたかった。逃げ場が欲しかった。そんな時、競馬学校の募集を見つけて……何も考えずに、受けたの。まさか、受かるとは思わなかった」
苦笑するように言って、弓はそっと目を閉じた。
「夢だったのよ。真子の。私のじゃない。でも、それ以外に生きる手段がなかったから。私はただ、“生き残ってしまった”という事実に、罰を与えるみたいに、走り続けてきたのかもしれない」
沈黙が再び病室を包む。友梨佳は目に涙を浮かべたまま、声を震わせて言った。
「……だからって、自分の命を使い捨てる理由にはならないよ」
弓はゆっくりと首を横に振った。
「命を捨てるつもりじゃなかった。ただ、終わらせるタイミングを……選びたかったのかもしれない」
その言葉には、諦めとも覚悟ともつかない、深い孤独が滲んでいた。
「リアンデュクールに乗った時、真子が引き合わせてくれたと思ったわ。これで終われるって」
弓は窓の外に目をやった。曇り空の向こうに、山の稜線がぼんやりと浮かんでいる。
「リアンデュクールには致命的な弱点がふたつある。ひとつは、他の馬に馬体を合わせられると走らなくなること」
彼女の声はあくまで静かだった。
「もうひとつは、2000メートル走ると脚が軋むこと」
「……軋むって?」
友梨佳が思わず声を上げた。椅子から身を乗り出す彼女の顔には、驚きと不安が入り混じっていた。
「リアンデュクールの爆発的なスピードと瞬発力に、骨がついていけないのね。だから2000メートル以上の距離で、何度も鞭を入れて加速させると──多分、骨が砕ける」
弓は言葉を選ぶように、ひと呼吸置いてから続けた。
「でもリアンデュクールの気性なら、骨が砕けようときっと走り続ける。その先に待っているのは……」
部屋に一瞬、重たい沈黙が流れた。
「でも、ユーミンはリアンを勝たせてくれた」
友梨佳の声には、戸惑いと尊敬が入り混じっていた。
「私の失敗は、友梨佳ちゃんをバレットに誘い込んだことね」
弓は微笑みながらゆっくりとベッドにもたれ、天井を仰ぐように視線を上げた。
「最初は、真子に似た友梨佳ちゃんに、私の心の隙間を埋めてもらおうと思ってた。他の女性たちと同じように……」
淡々と語られるその言葉に、友梨佳は目を伏せた。
「でも、友梨佳ちゃんと過ごした日々が想像以上に楽しくて。いつの間にか、ずっとこうしていられたらって……そう思うようになってた」
弓の声に、かすかに笑みがにじんだ。
「そんな友梨佳ちゃんに“ダービーに連れてって”て言われたら……死ぬ訳にいかないじゃない」
彼女は肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
「……でも、その前に身体に限界が来て今に至るって訳よ。ざまぁないわね」
彼女はあっけらかんとした口調で言ったが、その目の奥に滲む悔しさを、友梨佳は見逃さなかった。
「さ、私の話は終わり。生きる意味のなくなった私の所にいても仕方ないわ。陽菜さんと一緒に帰りなさい」
弓の声は静かだったが、その言葉の奥には、どこか諦めと哀しみが滲んでいた。
「そんな、生きる意味がないなんて……」
友梨佳が思わず声を上げる。しかし、それ以上の言葉が見つからず、口を閉ざしてしまう。胸の奥で何かがきしむような感覚があった。
「いずれ私は動けなくなるどころか、口もきけなくなる。ただ起きて、寝て、食べて、出すだけ。そんな植物みたいな人生に何の意味があると思う?」
弓は淡々と語るが、その目には深い絶望が宿っていた。
「……」
友梨佳は下唇を噛んだまま、言葉を失っていた。
弓に待ち受けている過酷すぎる現実を想像すると、どんな励ましも虚しく感じられる。
「騎手として死なせてあげた方が……」そんな残酷な考えが、一周、頭をよぎる自分に愕然とした。
その沈黙を破ったのは、陽菜だった。
「⋯⋯思うんですが、そもそも、人生に意味なんてあるんでしょうか?」
静かな声。しかし、その中に揺るぎない芯があった。
「生物として見たら、ヒトも植物も一緒です。生まれて、食べて、出して、成長して、やがて死ぬ。ただそれだけ。そこに意味なんてありません」
弓はわずかに目を細め、陽菜の言葉に耳を傾けた。
「でも、例えば花の周りに人が集まり、憩いの場になれば、その花には意味が生まれます。つまり、大切なのは“意味を持てるかどうか”。人生に意味を与えるのは、結局自分自身だと思うんです」
そう語る陽菜の顔には、過去の痛みを超えた強さが浮かんでいた。
「私はある日突然、下半身の機能を失いました。排泄の感覚もありません。定時的に自己導尿が必要で、長時間外出する時はカテーテルを入れてます」
そう言って、陽菜はロングスカートの裾をめくり上げた。内腿に固定された小型の蓄尿袋が、彼女の言葉の現実味を裏付けていた。
「もっと困るのはお通じです。薬を使って出すしかなくて、それでも不意に失禁することがあります。授業中にそれが起きた時……人としての尊厳なんて、一瞬で吹き飛びました」
一瞬、彼女の声が震えた。しかし、すぐに視線を上げ、弓をまっすぐ見つめた。
「15歳の女の子にとって、それは死にたくなる理由として十分です。私も、ずっと死ぬ方法ばかり考えていました。でも、偶然見つけた聖書の言葉に救われ、リハビリで訪れた先にあった高辻牧場で友梨佳と出会って、生きる意味を見出すことができたんです」
弓は黙ったまま、陽菜の話を聞いていた。その表情に、わずかだが揺れが見えた。
「人生の意味づけ……私にできるかしら?」
ぽつりと漏らすように弓が言った。その声には、不安と自嘲が混じっていた。
「さあ、分かりません」
陽菜は即答した。少し冷たく聞こえたかもしれない。
「……冷たいのね」
弓がふっと笑った。
「ひとの彼女にちょっかいを出す人に、優しくする義理はありません。でも――大丈夫じゃないですか? 天野さんには、競馬があります」
「私は別に、競馬が好きってわけじゃないわ」
弓は視線を逸らし、そっけなく返す。しかし、その目に宿る光を、陽菜は見逃さなかった。
「そんなはずないです。トップジョッキーになるためには、相当な努力と自己管理が必要です。しかも、病気が分かってからも成績を維持していた。それって、競馬が好きで、騎手という仕事に誇りがなきゃできないことだと思います」
弓は反論しようとして口を開きかけたが、言葉が出なかった。
「天野さんほどの方なら、きっと何らかの形で競馬と関わる道があるはずです。その中に、生きる意味を見出せるかどうかは、天野さん自身が決めることです」
しばしの沈黙のあと、陽菜はさらりと言葉を付け加えた。
「もし、それでもどうしても意味が見出せないなら、連絡ください。カリウム製剤を個人輸入できるサイトを教えますから」
一瞬、空気が凍りついた。
弓は何も言わず、ただ窓の外を見つめていた。
その横顔に浮かんでいたのは、怒りでも、絶望でもなく――静かな葛藤だった。
「帰るよ、友梨佳」
陽菜が静かに言う。
「でも……」
友梨佳は一歩を踏み出しかけて、ためらい、弓を見つめたまま立ち止まった。彼女の目には、深い心配と未練が浮かんでいた。
そんな彼女の背に、陽菜がそっと手を置いた。その手のひらは温かく、そして確かな意志に満ちていた。
「友梨佳は、おじいちゃんのそばにいてあげないと。天野さんには、桐島さんがいるから」
その言葉に、桐島が穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「……わかった」
友梨佳は小さく返事をし、弓の方へ向き直る。
「ユーミン、また会えるよね?」
その問いに、弓は少し驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべ、ゆっくりと頷いた。
その眼差しには、過去への悔いと、未来へのかすかな光が宿っていた。