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Side友梨佳 第24話

「……ユーミン、起きて。ユーミン……」

 懐かしい声が、遠くから波のように押し寄せてくる。次第に輪郭を帯び、耳の奥に鮮やかに響き始めた。

 弓がゆっくりとまぶたを開けると、視界に映ったのは、長く雪のように白い髪と、まだらに白い肌を持つ少女だった。

「……友梨佳ちゃん……?」

 その名を口にした瞬間、少女の表情が少し曇った。

「誰よ、それ。友梨佳って」

 はっとして、弓は思わず身を乗り出した。

「……真子? 真子なの……?」

 次の瞬間、込み上げる想いに突き動かされるように、弓は少女の胸に飛び込んだ。

「ずっと……ずっと会いたかった!」

「ふふ、そう? でも、最初に呼んだ名前、違ってたけど?」

 真子は肩越しに弓を見つめながら、いたずらっぽく微笑んだ。

「ごめん、違うの、あれは……」

 弓は慌てて身を引き、弁解するように言った。

「わかってるよ。ユーミンが、ずっと私のことを想ってくれてたって。だから、こうして会いに来られたんだもの」

 言葉を交わしながら、弓は周囲を見渡した。どこまでも続く青い空、波打つ水面、そして咲き誇る無数の花々。その風景は、かつてふたりで飛び込んだ知床の海岸によく似ていた。

「……ここ、知床……? 私……死んだの……?」

「まだよ。ここはね、現世とあの世の境界。どちらにも属さない、ほんの束の間の場所」

「そっか……。別に、死んでもよかったのに。むしろ、あのまま競馬場で死ねばよかった」

 弓の呟きに、真子は少しだけ寂しそうに笑って、砂浜にしゃがみ込んだ。白い指先で砂をすくい、それを静かにぽとりと落としていく。

「ねえ、ユーミン。あのとき、どうして……あなただけ助かったと思う?」

 その問いに、弓の胸がぎゅっと締めつけられる。何かを飲み込むように、しばらく言葉が出てこなかった。

「……わからない。気づいたら、海岸に打ち上げられてて……。波に飲まれて、冷たくて、苦しくて。真子の手を、ずっと握ってたはずなのに……いつの間にか、離れてた」

「ううん、違うよ」

 真子は静かに首を横に振った。海から吹く風が彼女の白い髪をなびかせ、その一瞬だけ、世界の時間が止まったように感じられた。

「ユーミンは、自分の意思で手を離したの。心の奥底で――本当は生きたいって、願ってたんだよ。きっと、気づかないままだっただけ」

「そんなこと……ない……」

「いいの。責めてるんじゃないよ。私はむしろ、嬉しかった。ユーミンが生きてくれて。だって、私の代わりに夢を追いかけてくれたでしょう? 騎手になるって、私、ずっと信じてた」

 弓の喉が詰まり、言葉にならなかった。

「真子……私、ずっと後悔してた。あのとき、真子を守れなかったことも、自分が手を離してしまったことも……。だからせめて、生きている間に、真子が見た夢の続きを歩こうって思ったの」

「それでいい。ユーミンが生きて、走ってくれてる――それが、私の救いなんだよ」

 真子の瞳は、どこまでも澄んでいた。悲しみも、怒りも、すべてを越えて。深く静かな、やさしい海のような色をしていた。

「でも……まだ、終わってないよね?」

「⋯⋯え、でも」

 戸惑う弓に真子はやわらかく微笑んで、そっと弓の手を取った。

「ひょっとしたら死ぬより苦しいことかもしれないけど、ユーミンなら大丈夫。だから、戻って。走り続けて」

 その瞬間、足元の砂がやわらかく揺れ、世界が淡く光を帯びはじめた。風が強くなり、花びらが宙に舞い上がる。

「真子! 私、あなたと一緒にいたい!」

 弓の叫びに、真子は微笑みながら小さく手を振った。

「うん。ユーミンがちゃんと走りきったら、また、ここで会おうね」

 眩い光の中で、真子の声が優しく届く。

「ユーミン――愛してるよ」

 その言葉を最後に、弓の意識はふたたび、暗く深い闇のなかへと沈んでいった。


 ***


 弓が目を開けると、視界にまず映ったのは、病院特有の無機質な天井だった。

 心電図モニターの波形を確認していた看護師が、弓の覚醒に気づいて顔を近づけてくる。

「天野さん、わかりますか? ここは淀中央病院です。レースのあと倒れて、丸二日間、意識がありませんでした」

 弓はぼんやりとした頭で自分の状態を探るように意識を巡らせた。

 酸素マスクが口を覆い、右腕には点滴が繋がれている。胸元には心電図モニターのリード。下腹部に違和感があり、目線を少し動かして確認すると、尿道留置カテーテルまで挿入されていた。

「今、先生をお呼びしますね」

 そう言い残して看護師は足早に病室を出て行った。

 薬で眠らされていたせいか、身体は意外なほど軽かった。弓はゆっくりと手足を動かしてみる。反応は悪くない。

(動く……)

 何度も、両手を開いたり握ったりして確認する。

「天野さん」

 病室の扉が開き、桐島が入ってきた。

「目を覚まされたんですね。ひとまず安心しました」

「……二日寝てたみたいね」

「正確には今日で三日目です。今は火曜日の朝ですよ」

 桐島はベッド脇の椅子に腰を下ろすと、静かに続けた。

「いい夢は見られましたか?」

「ええ。真子に、久しぶりに会えた」

「彼女は、何て?」

「“走りきったら、また会おう”って」

「若駒ステークスを、最期の舞台に選ぶ気がしていました」

「なのに、止めなかったじゃない」

「それが僕の約束でしたから。天野さんが望む形で、騎手としての道を支えると」

 弓はかすかに笑みを浮かべた。

「そうだったわね……」

 桐島はベッドのリモコンを操作し、弓の上半身をゆっくりと起こす。

「JRAには病状をすべて報告しました。今後の騎乗依頼はすべてキャンセルです」

「リアンデュクールは?」

「影山先生からは連絡ありませんが、普通に考えれば、桜木さんに乗り替わりでしょう」

 点滴やカテーテルの様子を一瞥し、桐島は静かに尋ねた。

「……これが、あなたの望んだ“結末”なんですか?」

「約束しちゃったのよ。友梨佳ちゃんを、ダービーに連れていくって」

 弓は天井を見上げながら、ぽつりと答えた。

「仮に、ダービーに行けたとして……その先は?」

 しばらく沈黙が流れる。弓はゆっくりと目を閉じて、そしてまた開いた。

「考えてなかったわ。私……いずれ動けなくなるんだったわね」

「人工呼吸器も必要になります。その時には、声も失います」

「……そうね」

「それでも」

 桐島の声が低く、切実になる。

「それでも、本音を言えば、俺は天野さんに生きていてほしいです」

「桐島君……」

 そのとき、病室の扉が乱暴に開いた。

「ユーミン!」

 叫び声とともに、友梨佳が弓のベッドに駆け寄り、その体にしがみついた。

「……友梨佳ちゃん。もう北海道に帰ったと思ってた」

 弓は彼女の髪を優しく撫でながら言った。

「帰れるわけないじゃん。なんで、病気のこと、教えてくれなかったの? なんで、倒れるまで乗ったの?」

「それは――」

「……レース中に死ぬつもりだったんですよね?」

 陽菜が病室に入ってきて、冷たい声で言い放つ。

「え……? 死ぬって……どういうこと?」

 友梨佳の顔に困惑が浮かぶ。

「ALS――筋萎縮性側索硬化症。いずれ全身の筋肉が動かなくなり、人工呼吸器が必要になる病。その未来を悲観して、あえて気性難の馬を選び、無茶な騎乗で事故を狙ったんでしょう?」

「本当なの、ユーミン……?」

 友梨佳が不安そうに見上げてくる。弓は短く息を吐いた。

「“悲観”の一言で片付けるには、事情は少し込み入ってるけど……まあ、だいたい合ってるわ」

「どんな理由があったって、死ぬために馬に乗るなんて、馬主や生産者への侮辱です。騎手としての誇りはないんですか? ⋯⋯それと、友梨佳を離してください」

 弓は友梨佳をぎゅっと抱きしめた。

「“持てる者は、持たざる者に分け与えよ”って、聖書に書いてなかったかしら?」

「馬用の筋弛緩剤なら、いくらでも分けますけど」

 思わず、弓はクスリと笑った。

「冗談よ」

 弓は友梨佳から手を離し、少し息を整えてから、ぽつりと口を開く。

「騎手という仕事に誇りを持ったことは、たぶん、一度もないわ。べつに、好きでもなかった。ただ、これしか、生きる術がなかったのよ」

 窓の外に視線を向ける。

 冬枯れの山々が、遠くに霞んで見えた。


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