side友梨佳 第23話
ファンファーレが鳴り響き、リアンデュクールがゲートに誘導される。
茜はその様子を、中山競馬場の検量室にあるモニターでじっと見つめていた。
(スターターの榊さんは……全馬の脚がそろってから、イチ、ニで開けるはず)
モニターに映るゲートの様子に、茜の視線が釘付けになる。
全馬の脚が揃った――その瞬間、
(イチ、ニ……)
ガシャン、とゲートが開く。リアンデュクールは鋭く反応し、勢いよく飛び出すと、すぐさま先頭に立った。
(……やっぱり!)
茜は頷く。
午前中のレースで自らも試していたことだ。まだ馬が完全に落ち着くタイミングとスターターの癖を完全に掴めたわけではない。だが、致命的な出遅れは確実に減った。
タイミングが合えば好位置を楽に確保できる。それができれば、レースはずっと楽になる。
その成果もあって、今日はすでに3勝を挙げていた。
レースは進む。リアンデュクールは3馬身のリードを保ったまま、よどみないペースで先導する。
1000メートル通過――58秒。
(息を入れる隙もない……このペースじゃ、後ろはキツいわね)
茜はリアンデュクールの勝利を確信する。
けれど――ふと胸の奥にひっかかりが生まれる。
(でも、このメンバーなら逃げ切れるけど……相手が一気に強化される弥生賞、皐月賞じゃ通じない。天野さんなら、どうする……いや、私だったら?)
モニターに映る馬群を見つめながら、茜の眉間にしわが寄る。
レースは終盤へと差し掛かる。
4コーナー、リアンデュクールがそのまま先頭で回ってくる。
鞍上の弓が鞭を構え――軽く手綱をしごく。
リアンデュクールは応えるように、もう一段ギアを上げ、後続との差を広げにかかる。
(もう一度、合図が入れば――勝負あり)
茜は心の中で読み切った。
だが――弓は合図を入れない。
後方の馬たちが、一気に脚を伸ばしてきた。
「えっ……?」
思わず茜は声を漏らす。
(なんで!? 勝ちを確信している……?)
だが、脚色は明らかに違う。
リアンデュクールの脚が鈍り、差が一気に詰まってくる。
残り100メートル。背後から飲み込まれるように、影が迫る――。
***
――ピシッ、ピシッ――
骨がきしむ音が、最後の直線に入ってからずっと聞こえていた。
間違いない。リアンデュクールの脚からだ。
しかも、その音は次第に大きくなってきている。
(今ここで鞭を入れたら……脚がもたない)
内ラチへ激突するか、最悪、脚が折れて倒れて後続に巻き込まれる――
どちらにしても、無事には済まない。
(……ここで、終われる。騎手として、ターフの上で)
鞭を握る手に、力がこもる。
リアンデュクールが苦しげに、じわりじわりと内ラチに寄れてくる。
「苦しいよね……今、楽にしてあげる」
小さな声で、弓はささやく。
鞭が、空を切る一瞬前――
『ユーミン、あたしをダービーに連れてって』
『ユーミンのこと、好きだよ』
友梨佳の声が、弓の脳裏に鮮明に響く。
思い出すのは、嵐山で友梨佳と食べ歩きをした日のこと。笑いながら撮った自撮り写真。寄り添った温もり。
「……っ」
弓は顔を伏せ、鞭を振り下ろさなかった。
耳元に迫る、後続馬たちの蹄音。
(真子……ごめん。そっちに行くの、もう少しだけ待って)
前を向き、両手で一度だけ、手綱をしごく。
リアンデュクールが一瞬、踏ん張るように前へ出た。
後続は死力を振り絞って迫るが、半馬身差で――ゴール板を駆け抜けた。
2コーナーまで来たところで、弓はリアンデュクールを止め、足元を確かめる。
いまのところ、異常はない。
ホッと息を吐き、ゴーグルを上げて空を見上げた。
(……これでよかったのかな。真子)
その答えを探すように――あるいは、近い未来に自分に訪れる現実を少しでも遅らせるように、弓はリアンデュクールをスタンドへと導いていった。
***
検量室前にリアンデュクールが戻ってきた。
1番の枠場には、いつものように亮太と友梨佳が待っている。
弓がリアンデュクールから降りると、手際よく鞍を外した。
「ユーミン!」
そこに、友梨佳が右手を高く掲げて声をかけた。
弓は柔らかく微笑みながら、その手にハイタッチを返す。
「ありがとう、ユーミン。これで弥生賞に出られる。クラシックが、ほんとに見えてきたんだよ」
興奮を隠しきれない友梨佳の声に、弓は微かに笑みを浮かべたまま、リアンデュクールの前脚に目を落とす。
その眼差しは一変し、真剣そのものとなる。
「三枝君、影山先生は?」
「テキは今日、中山にいます」
亮太が応える。
「そう……」
弓はしばし黙考し、そして真剣な口調で言った。
「三枝君、友梨佳ちゃん。リアンの前脚、よく観察して。念入りにケアしておいて」
「いいけど、どうかしたの?」
友梨佳がたずねる。
「うん、ちょっとね」
それだけ言うと、弓は足早に検量室へと入っていった。
亮太は無言でしゃがみ込み、リアンデュクールの前脚に手を当て、優しく撫でながら状態を確かめていく。
「亮ちん、どう?」
友梨佳が覗き込むようにして聞いた。
「……少し熱を持ってる感じはあるけど、痛がる様子はないし、腫れも見当たらない。今のところ異常はないと思う」
「でも、ユーミンが言ってたなら……きっと、何かあるんだよ。この子、痛みを我慢しちゃうから……」
「わかった。クーリング、いつもより入念にやっとく」
「うん。後検量が終わったら、ユーミンに……」
その時だった。
――ガタン!
検量室から大きな物音が響き、続いてざわめきが湧き起こる。
「……今の、なに?」
振り向いた友梨佳の目に飛び込んできたのは、床にうつぶせで倒れている弓の姿だった。
「ユーミン!」
駆け出そうとした瞬間、誰かに肩を掴まれた。
「お前は、ここにいろ」
桐島だった。彼は短く言い残すと、人混みに割って入っていく。
「……ユーミン……」
友梨佳は、言葉を失ってその場に立ち尽くす。
「どうしたんですか?」
騒ぎを聞きつけ、美月が駆け寄ってきた。
ちょうどそのとき、弓が担架に乗せられて運ばれてくるところだった。
「……っ」
息を呑んだ美月の顔が青ざめる。
担架の上の弓は目を閉じ、顔色は悪く、息も苦しそうだ。
「ユーミン……」
友梨佳が声をかけると、弓はわずかに目を開け、かすかに手を伸ばしかけた。
だが担架はそのまま、何も言わずに通り過ぎていく。
「友梨佳」
後ろから桐島の声がした。
「お前はホテルに戻れ。明日以降のことは、あとで連絡する」
「私も、一緒に……」
ついていこうとする友梨佳を、桐島が静かに手で制する。
「ここから先は、マネージャーである俺の仕事だ。必ず連絡する。それまで待っててくれ」
淡々と、それでいて強い調子で言った。
「……きっと、だよ」
友梨佳はこらえきれない不安を押し殺しながら、しぶしぶ頷いた。
桐島は一つ頷き返し、担架の後を追うように廊下を歩いていった。
「私、代表に連絡します」
美月がスマートフォンを取り出し、その場を離れていく。
友梨佳はただ、祈るような気持ちで廊下の先を見つめ続けていた。