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side友梨佳 第21話

 夜。誰もいなくなった影山厩舎の休憩室。

 薄明かりの中、茜は一人、レースのVTRを食い入るように見つめていた。

 映っているのは弓のスタートシーン。巻き戻しては再生し、また巻き戻しては再生する。その動きは、まるで答えを見つけようとする執念のようだった。

 やがて、茜は大きなため息をつき、椅子の背もたれに身を預ける。

「共通点なんて……ないや。馬の個性が違うんだから、当たり前か」

 今度はリアンデュクールが勝ったレースの映像を再生する。画面の中で弓は、スタート前のリアンデュクールの気を逸らせ、絶妙なタイミングでゲートを切らせていた。

「直前まで落ち着かなかったリアンの顔を横に向かせて……気を逸らせて……向き直った瞬間にゲートが開く……」

 その手際の良さに、茜は思わず唇を噛んだ。

「やっぱり……センスの問題なのかな。じゃあ、私……一生勝てないじゃん……」

 もう一度、大きく息を吐き出しながら、次のVTRへと切り替える。弓がリアンデュクールと同じ仕草でスタートを決めている場面だった。

「……これ、リアンのときと同じ……」

 思わず身を乗り出した茜は、急いでレースの成績表を引っ張り出す。

「何か、共通点があるはず……絶対に……!」

 2枚の資料を交互に目で追う。しかし、はっきりとした共通点は見当たらない。

「きっと、どこかに……」

 そのとき、視界の隅に映ったスターターの姿に気づいた。

 茜は目を見開き、二つのVTRを交互に再生する。

「スターター……同じ人?」

 その瞬間、全身に電流が走ったような感覚を覚えた。

「スターターによって、馬を落ち着かせるタイミングを変えてる……ゲートを開ける“癖”を把握してるんだ……!」

 スターターの数は限られており、重賞で起用されるのはさらに絞られる。その癖を読み取るのは、センスではなく、観察と分析の積み重ね――。

「これか……これが天野弓のスタートの秘訣……!」

 茜は思わず声を上げた。自分にも、まだ可能性がある。そう信じたかった。

「……やるしかない。皐月賞までに、絶対にリアンを取り戻す」

 決意のこもった声とともに、茜は関東を中心に活動するスターターの映像を再生し始め、自分が今週騎乗する馬の資料と照らし合わせていった。


 ***


 府立医科大学病院の上空には厚い鉛色の雲が垂れ込め、空気は冷えきっていた。今にも雪が舞い落ちそうなほど、静かで、凛とした冷気が漂っている。

 ロビーに設置されたベンチのそばで、友梨佳は車椅子を押していた。無言のまま、ただ冷たい現実を噛みしめるように。

 今日の診察結果――重粒子線と抗がん剤の効果は見られず、腫瘍マーカーの数値が急上昇。手術の適応もない。主治医は緩和治療を提案していた。

 テレビでは、冬の京都の名所が流れている。

 その画面を、泰造はじっと見つめていた。

「……友梨佳」

 不意に、泰造が口を開いた。

「うん?」

「介護タクシーをキャンセルしてくれ。普通のタクシーを呼んでほしい」

「いいけど……どうして?」

「……ちょっと、行きたいところがあるんだ」

 テレビ画面には、雪をかぶった上賀茂神社の楼門が映っていた。


 ***


 通りに面した大きな一の鳥居をくぐると、凛とした冷気が身体を包む。

 参道の両脇には白い玉砂利が敷かれ、しんとした静けさの中に、木々のざわめきと川のせせらぎが微かに響いていた。

 やがて二の鳥居が見えてきた。その傍らにあるのは「神馬舎」と書かれた大きな馬小屋。中には雪のように白い馬が、静かに佇んでいる。神馬舎には第十一代神馬「神川」と書かれた木札がかけられていた。

 息を白く吐きながら、訪れる人々を見つめていた。

「おじいちゃん! 神社に……馬がいるよ!」

 友梨佳は車椅子を押しながら駆け寄った。

「……カミウマ? カミカワ……?」

「『しんめ、こうせん号』だ。昔は神社に本物の馬を奉納していたんだ。馬は高価だから、次第に絵に描いた馬を奉納するようになった。それが“絵馬”の由来だよ」

「へぇ……」

 友梨佳はお金を入れ、テーブルに置かれていた人参を一つ、神馬へと差し出した。白馬は優しくそれを食べた。

「上賀茂神社はな、競馬の発祥の地とされていて……今でもこうして神馬がいるんだ」

 境内には、静寂の中に神聖な空気が漂っていた。

 鳥の声、風が揺らす木々の葉音、遠くから聞こえる祝詞の声――。その全てが時の流れを忘れさせるほどに美しかった。

 立砂のある細殿の前を通り、朱塗りの楼門が見えてきた。

 だが、そこには段差があり、車椅子では通れない。

「どうする……?」

 友梨佳が言いかけた時、泰造はゆっくりと車椅子から立ち上がった。杖をつきながら、一歩ずつ、静かに歩を進める。

 拝殿の前で、友梨佳が追いつく。ふたりは並んで賽銭を投げ、手を合わせた。

 長い祈りの時間。手を下ろすと、泰造はふと後ろを振り返った。

 冬の冷気が張りつめた境内には、澄んだ静けさが漂っていた。玉砂利を踏む足音が遠くにかすかに響き、時折、風に乗って楼門のしめ縄がわずかに揺れる音が聞こえる。枝を払った裸木の奥に広がる山々は白く霞み、まるで別世界への入り口のように見えた。

「ここは……昔と、何も変わらんな」

「来たことあるの?」

「ああ。幸江……お前のばあ様とな。結婚して間もない頃、やっと時間を作って来た。たった二泊の京都旅行だったけどな」

「えっ、初耳だよ!」

 友梨佳は笑いながら、階段下の車椅子を広げた。

「幸江は鞍馬に行きたがっていたが、無理を言ってここに来た。競馬発祥の地だと聞いて、どうしても見たくてな……。その代わり、ずっと言われたよ。『本当は鞍馬に行きたかった』ってな」

 泰造は、思い出に笑いながら話した。

「もう一度、幸江と来たいと思っていた。それは叶わなかったが、代わりに、こうしてお前と来られた」

 彼は、隣でしゃがんだ友梨佳の頭をそっと撫でた。

「もう……心残りはなにもない。さあ、北海道に帰ろう。みんなが、待ってる」

「……うん」

 友梨佳は、泰造の肩に頭を預けた。


 ***


「そうか……分かった。今度の開催が終わったら帰るんだな。天野さんには俺から伝えておく。友梨佳は泰造さんの傍にいてやれ」

 桐島はスマホを切り、無機質なリビングに立っていた。生活感のない部屋にはテレビとソファだけが置かれている。

 静寂の中、寝室のドアを開けると、弓がベッドに横たわっていた。酸素マスクをつけ、点滴に繋がれている。

「友梨佳ちゃんから……?」

「はい。泰造さんの治療は……もう、効果がないそうです。今度の開催が終わったら、北海道に帰ると」

「……そう。仕方ないわね」

 弓はスマホを手に取り、画面を開く。そこには、京友禅の小路で撮った、友梨佳との笑顔の自撮り写真が表示されていた。

 彼女は微笑み、指でそっと、友梨佳の顔をなぞる。

「若駒ステークス……乗るんですか?」

 桐島が静かに問いかけると、弓は枕元に目を戻した。

「ええ。乗るわよ」

「……これを“最期”に?」

「……どうかしら」

 弓はスマホを静かに閉じ、枕元へと置いた。

 ただ、夜の静けさだけが、部屋を包んでいた。

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