side友梨佳 第20話
「……ユーミンはマー君の命の恩人なんだ」
友梨佳は弓の背中をさすりながら呟いた。
「今考えればやっていること無茶苦茶だけどな」
信号待ちの間、桐島はハンドルに上体を預けながら言った。
「でも結果的にマー君を救ってくれた。私も18の時に陽菜に出会わなければ、今頃どこで何やってるか。……だから分かるよ。その人の望むことを叶えたいって気持ち」
「……そうか」
「ねえ。マー君そんなに引きが強いなら、リアンの馬券買ってくれればいいのに」
「マネージャーも中央競馬の馬券は買えねえよ。まあ、仮に買えたとしても駄目さ。あれから何度か地方競馬の馬券を買ったことがあるが、俺の買う馬だけことごとく来ない。試しに最低人気の馬以外の単勝を全部買ったら、その最低人気の馬が来やがった」
「うへぇ……」
「それ以来馬券は買ってない。天野さんに救われたあのレースで、俺の競馬運は使い果たしたんだよ」
「珍しいじゃない。自分語りなんて」
弓がからかうように呟いた。
「ユーミン、大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。嬉しかったわ。あたしの事好きって言ってくれて」
弓はそのまま、友梨佳の肩に体を預けながら微笑んだ。
「え、聞いてたの!? あれはそういう意味じゃ……」
「ふふ。分かってるわよ」
弓は悪戯っぽく微笑んだ。
「大丈夫って言うわりには、まだ寄りかかったままですけど?」
「いいじゃない。ちょっとくらい。ね、友梨佳ちゃん」
弓が上目づかいで見上げる。
「う、うん。あたしは……構わないよ」
友梨佳はどきまぎしながらも答えた。
「それならよかったです。もうすぐマンションに着きますけど、このまま帰る方向で?」
桐島がバックミラー越しに確認する。
「そうね……」
弓はゆっくりと窓の外に目を向け、しばし考える。
「ねえ、友梨佳ちゃん。嵐山って、行ったことある?」
「ううん、ないよ」
「じゃあ、ちょっとだけデートしましょう。こぶ付きで申し訳ないけど」
「体調は……平気なんですか?」
運転席から桐島が問いかけた。
「少しだけなら大丈夫。心配しないで。……友梨佳ちゃん、湯葉ソフトって食べたことある?」
「……湯葉ソフト?」
友梨佳の目がぱっと輝いた。
「抹茶クレープもあるのよ?」
「行く!」
友梨佳は満面の笑みで即答した。
「少しだけですよ?」
桐島は苦笑しながら、ハンドルを静かに嵐山方面へと切った。
嵐電嵐山駅の脇に広がる「京友禅の小路」。
京友禅の華やかな柄をまとった色とりどりのポールが約600本、整然と並び立ち、内部か
ら灯るLEDの光が、まるで幻想の世界を作り出していた。夕暮れ時の空気に淡く滲むその輝
きは、まさに錦絵そのものだった。
「すごい……! きれい……!」
スマートグラス越しに映し出される風景に、友梨佳は目を輝かせた。
視界いっぱいに広がる色彩の饗宴に、彼女は思わず声を漏らす。
「陽菜、ここ知ってるかな……」
抹茶クレープを片手に、スマホを操作しようとしたその瞬間――
「今は私とデートでしょ?」
弓がにこっと笑って、彼女のスマホをするりと取り上げた。
「ちょ、ユーミン返してよ!」
「だーめ」
スマホをひらひらと掲げながら、弓はくるっと踵を返し、小路を軽やかに駆けていく。
「ユーミン!」
笑いながら追いかける友梨佳。その様子を見ながら、桐島は苦笑してゆっくりと後をついていった。
やがて小路を抜けると、京友禅に囲まれた小さな池――「龍の愛宕池」が姿を現した。
静けさの中に、どこか神秘的な空気が漂うその場所に、友梨佳は足を止める。
「こんなところに池があったんだ……」
「知ってる? 友梨佳ちゃん。この池の龍に願いをかけると希望が叶うって言われてるの。しかも、湧き出る愛宕の水に手をひたすと、心が安らいで幸せへ導かれるんだって」
そう言いながら、弓はそっと池の水に手を触れた。
「ええっ、そうなの!?」
「何をお願いする? やっぱりダービー制覇?」
「……うーん、それができれば良いけど」
龍の彫刻にそっと手を置きながら、友梨佳は考え込むように目を伏せた。
「今はそれより、おじいちゃんに元気になって欲しいし、陽菜には幸せになって欲しいし、イルネージュファームももっと大きくなってほしいし、茜っちにはG1を勝たせてあげたいし……ユーミンにはまたリーディング取ってもらいたいし」
「全部他人のことじゃない。友梨佳ちゃん自身の願いは? ダービー獲れなくていいの?」
「うーん……牧場が賑やかになることも、視力が良くなることも、陽菜と付き合うことも叶っちゃったしなあ。これ以上望んだら、バチが当たりそう」
そう言って、友梨佳は照れくさそうに笑った。
「ま、自分のことは自分で何とかするって決めてるし。とりあえず……湯葉ソフトが食べたい」
「じゃあ、私が友梨佳ちゃんの願いがひとつでも多く叶うようにお願いしてあげる」
弓は優しく微笑むと、もう一度龍に触れた。
それを見て、友梨佳もふんわりと笑みを浮かべる。
「さ、湯葉ソフト食べに行こっか!」
弓が声を上げて駆け出す。
「こっちよ、真子!」
「……真子?」
その一言に、友梨佳が眉をひそめる。
弓もハッと立ち止まった。
「……えっと、ごめん、間違えた」
桐島の顔に、一瞬だけ陰が差す。
「ぷっ……あはははっ!」
空気を破るように、友梨佳が大笑いした。
「ユーミンでもそういうことあるんだ! 大丈夫だよ、あたしなんてしょっちゅうだから。この前なんて、茜っちのこと『ママ』って呼んで怒られたし!」
「なによそれ、小学生じゃないんだから!」
弓も思わず吹き出し、桐島もつられて笑った。
「だって、口うるさくてほんとにママみたいなんだもん」
茜が小言を言っている姿を想像して、弓は笑いが止まらなくなった。
「ね、いいから早く湯葉ソフト食べに行こう? あと、スマホ返して」
「はいはい。そうだったわね」
弓は笑いながらスマホを返し、ふたり並んで歩き出す。
小路の向こうに姿を消すふたりを見届けてから、桐島はひとり、静かに龍に手を添えた。
そして何かを心の中で祈るようにして、ふたたび歩き出し、彼女たちのあとを追って行っ
た。