Side陽菜 第4話
7月に入り、学校が夏休みシーズンに入ると、アルテミスリゾートは予約でいっぱいになる。
このリゾートでは、イルネージュファームで調教風景の見学や厩舎作業の体験ができる宿泊パッケージを販売しており、競馬ブームの影響もあって特に学生から人気を集めていた。
実際の競走馬の育成にほんの少しでも関われるという魅力が、多くの若者を惹きつけている。ファームのあちこちから、楽しげな声が響いていた。
仕事をしている身としては正直、騒がしさが気に障ることもある。しかし、大岩に誰かが怒鳴られているのを聞くよりは、何百倍も精神衛生上マシだった。
「去年までは、友梨佳とあんなふうに遊んでたな……」
パソコンに向かいながら、陽菜はふと過去を思い出す。帯広で学生をしていた頃は、毎週のように日高と帯広を行き来して遊んでいた。特に友梨佳は頻繁に陽菜のアパートに泊まりに来た。あまりに頻繁だったため、管理会社から「二人で暮らすなら正式に届けを出してほしい」と苦情が入ったほどだ。それを抜きにしても、帯広での学生生活は陽菜にとって人生で最良の時期だった。
「……あの頃は良かったな」
社会人1年目の誰もが一度は口にする言葉を、陽菜もつぶやく。
6月から当歳馬の出資募集が始まり、そのホームページ掲載作業に追われていた。それ以外にも、シュバルブラン所属馬の近況報告の掲載、預託厩舎や放牧先との連絡、会員からの問い合わせ対応など、目の回るような忙しさだった。
5月までは時々高辻牧場に行き、売店の手伝いを名目に息抜きをしていたが、募集が始まってからはその時間すら取れなくなった。それでも仕事が順調ならまだしも、どうしても満口にしたい「マシュマロ」の募集が芳しくない。芳しくないどころか、募集開始から1か月以上経っても、一口の出資もない。
当然と言えば当然だ。実績の乏しいクラブ法人の馬に、いきなり100万円を出す酔狂な人はそういない。遥もそれは織り込み済みで「2歳入厩までに60口集まれば十分」と言ってくれている。
それでも、あれだけ熱く語られた以上、何としても満口にしたい。陽菜は過去に問い合わせのあった人や、厩舎体験をした人に片っ端から電話をかけた。何人かは他の募集馬に出資してくれたものの、肝心のマシュマロはゼロ。
募集馬への勧誘や営業は金融商品取引法によって様々な規制があり、慎重を要する。それにもかかわらず結果が出ないとなると、精神的に堪える。AIが代わりに営業電話をしてくれないかと本気で調べたが、そんな便利な話はなかった。
「陽菜ちゃん、大丈夫? ちゃんとご飯食べてる?」
事務所でシュバルブランの業務にあたっている加耶が、心配そうに声をかける。
「大丈夫ですよ。ちゃんと食べてますから」
陽菜は笑顔で嘘をついた。
ここ最近、帰宅はいつも深夜だ。車椅子では風呂に入るのにも時間がかかり、風呂から上がる頃には日付が変わっていることも珍しくない。もともと食事に強い関心があるわけでもなく、適当にプリンや菓子パンを口に押し込んで済ませていた。
「なんなら、うちに来ていいからね。大したものは出せないけど」
「はい。ありがとうございます」
加耶の申し出はありがたかったが、大樹の世話で忙しいのが目に見えているため、気が引ける。陽菜は感謝の気持ちだけ受け取ることにした。
「馬でも見てこようかな」
気分が乗らない時は、馬と触れ合うのが一番だ。特に仔馬がベスト。首に両腕を回してたてがみをワシャワシャすると、自分の中の「悪い気」が洗い流される気がする。
ちょうど、募集馬の写真をホームページに更新する必要もあった。
「募集馬の写真を撮りたいんですけど、誰か手が空いてる人いますかね?」
「どうだろ? 誰かしらいるとは思うけど……」
「ちょっと行ってみますね。留守番お願いします」
気分転換を兼ね、陽菜はデジタルカメラを手に事務所を出た。
何時間ぶりの外の空気だろうか。暖かな風が心地よい。これから北海道は、ますます良い季節になる。
しばらく散策したい気分だったが、そうもいかない。誰か手の空いている人を探そうと、事務所の前で辺りを見回すが、誰の姿もない。
このまま待っていても埒が明かない。陽菜は厩舎へ向かおうと、車椅子の車輪を押した。
ガチッ。
不吉な音とともに、車椅子が動かなくなった。見ると、前輪が側溝のフタにがっちりとはまり込んでいる。
陽菜は後輪を前後に動かそうとするが、ビクともしない。
(やっちゃった)
助けを呼ぼうにも、スマホは事務所に置いたままだ。こうなってしまった以上、誰かが通りかかるのを待つか、恥を忍んで大声で助けを求めるしかない。
誰かを待っていても時間の無駄だ。陽菜は覚悟を決め、「誰か!」と叫ぼうとした瞬間。
「どうかしました?」
背後から男性の声がした。
陽菜が驚いて振り返ると、スーツ姿の男性が立っていた。20代後半ほどの年齢で、ベリーショートの髪にシルバーのフレームの眼鏡をかけている。知的な雰囲気を醸し出すその姿に、思わず言葉を詰まらせた。
「あ……前輪が側溝のフタにはまってしまって」
陽菜は慌てて口元を手で覆い、視線を車椅子の前輪へ落とした。
「ああ、なるほど。ちょっと失礼します」
男性は背もたれの持ち手を掴み、後輪を支点にして軽々と前輪を持ち上げる。そして、側溝のフタから脱出させると、何事もなかったかのように微笑んだ。
「ありがとうございます。車椅子の扱いに慣れていらっしゃるんですね」
陽菜が車椅子を向き直して礼を言うと、男性は柔らかく微笑んだ。
「昔、祖母の介護でよく押していましたから。これくらい朝飯前ですよ」
爽やか系のイケメンだ、と陽菜は思った。向かい合ったまま、少しの沈黙が流れる。
「あの、牧場に何かご用ですか?」
陽菜が話を切り出すと、男性は軽く頷いた。
「ああ。失礼しました。代表の青山様にお会いできますでしょうか。私、株式会社トップエッジの真田と申します」
そう言いながら、彼は名刺を差し出した。
名刺には「株式会社トップエッジ 技術部主任 真田涼平」と記されている。トップエッジといえば、建築設計支援ソフト開発で国内トップシェアを誇るだけでなく、世界的にも名の知れたIT企業だ。この若さで技術部門の主任を務めているとは、相当優秀なのだろう。
それに、彼の姓……真田。すぐに思い当たることがあった。
トップエッジの代表取締役社長、真田泰人は個人馬主としても知られ、これまでにいくつものタイトルを獲得している。目の前の真田は、彼の息子ないしは親族に違いない。だとすれば、目的はひとつ……マシュマロの購入交渉。
遥からは「マシュマロの購入依頼はすべて断れ」と言われている。彼の真意は分からないが、とりあえず牽制しておこう。
「あいにく青山は出張中です。もし競走馬のご購入をご検討でしたら、『当牧場で生産しました当歳馬』をご紹介できますが」
アルテミスリゾートの富樫と接するうちに、遠回しな伝え方が身についてしまった。
しかし、真田はその言葉を聞くと、なぜか嬉しそうに笑みを浮かべた。
「あの、何か?」
「失礼。名刺を一枚渡しただけで、ここまで先を読める方は社内にも中々いませんので。お話が合いそうで、つい嬉しくなってしまいました。よろしければ、お名前を伺っても?」
「主取です」
「主取?」
「主取陽菜です」
「主取陽菜さん……」
真田は自分の頭を人差し指でトントンと叩きながら、名前を繰り返した。
「覚えました。ありがとうございます」
「はあ……」
なんだかクセの強そうな人だ。
「私の目的は、スノーキャロルの25ではありません。牧場経営についてお話を伺いたいと思い訪ねたのですが……どうやら日を改めた方がよさそうですね。突然の訪問、大変失礼しました」
真田は一礼すると、事務所前の駐車場に停めたレクサスへと向かおうとした。
「あの、牧場経営の具体的なお話は控えさせていただきますが、見学程度でしたらご案内できます」
マシュマロ目当てでないのなら、イルネージュファームの顧客になる可能性もある。無下にはできない。
「それはありがたい。ぜひお願いします」
真田の少年のような無邪気な笑顔を見て、陽菜は彼を悪い人ではないと感じた。
「それでは、こちらへどうぞ」
陽菜は厩舎へと案内した。
「当牧場は生産部門と育成部門に分かれており、こちらは生産部門の厩舎です。現在、繁殖牝馬50頭とその仔馬を繋養しています」
「いくつも牧場を回っていますが、ここまで清潔な牧場はなかなかありません。木の香りがするのは、寝藁ではなくウッドチップを使っているからですね」
車椅子を押しながら進む陽菜の隣を歩きながら、真田が話した。
「ここまで馬房を綺麗に保つのは、コストパフォーマンス的に不利になるのでは? 藁に比べて掃除の手間もかかりますよね」
「おっしゃる通りです。しかし、馬にとって清潔で安心できる環境を整えるのが、青山のこだわりです」
「なるほど。イルネージュファーム様の繁殖牝馬の受胎率と出産率をお伺いしても?」
「受胎率は平均で90%ほど、出産率はほぼ100%です」
「ほう、素晴らしい数字ですね」
真田はにこやかに厩舎内を見ているが、陽菜はまるで口頭試問を受けているような気分だった。受胎率について質問されたのは初めてだ。
厩舎を抜けると、なだらかな丘陵地に広がる育成牧場が目の前に現れた。
「ほお……」
真田は感嘆の声を漏らした。
そこは、高辻牧場の敷地を買い取り、3年前に開業したイルネージュファームの競走馬育成施設だった。イルネージュファームと高辻牧場だけでなく、日高地域の生産牧場からも育成を引き受けている。
育成牧場まで歩いていくのは難しいので、その場で概要を説明することにした。
「向こうに見えるのが弊社の育成牧場です。馬房数は50あります。ご存じかと思いますが、1歳の秋からトレセンへの入厩まで、こちらで育成します」
「あれは坂路調教施設ですね?距離と高低差はどれくらいですか?」
真田は丘陵地を登るように細長く伸びるダートコースを指さした。
「600mです。高低差は約30mです。坂路以外には、1周1000mの周回コースとウォーキングマシンを備えています」
質問に対して的確に答える陽菜に、真田は好印象を抱いたようだ。
良かった。少なくとも牧場に悪い印象は与えていない。馬を2、3頭は買ってもらえるかもしれない。
「立派な施設を維持するのは大変でしょうね」
「楽ではありませんが、馬房の稼働率は80%以上を維持しているので、なんとかできています」
陽菜は最近身につけた営業スマイルで答えた。自分では完璧だと思っているのだが、友梨佳には「わざとらしい笑顔」と言われてしまう。
「主取さんは北海道のご出身ですか?」
真田が突然尋ねたので、一瞬戸惑ってしまった。
「あ、いえ。出身は横浜です」
「それは奇遇ですね。私も横浜出身なんですよ。新高島駅の近くに住んでいました」
みなとみらい周辺か、なるほど、と陽菜は思った。横浜カーストの上位に位置する地域だ。
「主取さんは横浜のどちらですか?」
一番聞かれたくない質問が飛んできた。陽菜は横浜と言っても青葉区出身で、距離的には横浜の中心地に行くよりも川崎市の方が近い。
「私は青葉区です……。 あざみ野と言って分かりますか?」
「ええ、分かりますよ。閑静な住宅街ですね。たまプラーザに友人がいて、あざみ野駅前をよく通っていました」
出てくる地名が、いちいち高級住宅地だ。
「では就職を機に北海道に?」
「いえ。北海道には進学を機に来ました」
「北大ですか?」
「帯広畜産大学です。牧場経営を学びたかったので」
「なるほど、優秀ですね。さすがです」
優秀ともさすがとも自分では思わないが、明らかにエリートの人から褒められて悪い気はしない。
そのとき、馬の親子を引いている銀髪碧眼の若い女性が手を振ってきた。友梨佳だ。 真田さんを紹介しておいても高辻牧場に損はないかもしれない。
「高辻さん、ちょっといい?」
友梨佳は名字で呼ばれて一瞬けげんな表情をしたが、陽菜の隣にスーツ姿の男性らしき人が立っているのが分かると「ああ、営業か」と納得した。
友梨佳が馬を引きながら陽菜たちのところに来ると、陽菜が真田を紹介した。
真田が名刺を差し出したので、友梨佳は持っていた引綱を陽菜に預けてそれを受け取った。
「どうも。高辻友梨佳です」
「高辻友梨佳さん⋯⋯」
友梨佳が名乗ると、真田は自分の鼻をトントンと叩き、「覚えました」と笑顔になった。
「いまの何?」と陽菜が聞こうと振り返ると、そこにいるはずの陽菜の姿がない。
陽菜は厩舎に帰ろうとする馬の親子に引っ張られていた。
「エシャロット! こっちおいで!」
真田が思わず肩をすくませるほどの大声と「チッ、チッ、チッ」と舌鼓を打つと、2頭とも陽菜を引っ張って戻ってきた。
「素晴らしいですね」
「まあ、慣れてるからね。で、真田さんは馬主さん? ここの馬を買いに来たの?」
友梨佳は真田をまじまじと見ながら聞いた。真田に興味があるというより、友梨佳はアルビノ特有の弱視なのでこうしないと顔がよく分からない。
「馬主は私の父です。私は牧場経営について教えを請いに来ました」
「真田さん、牧場をやりたいの? そんなにゆるくないよ」
「友梨⋯⋯高辻さんは、弊社と業務提携を結んでいる高辻牧場に勤めています。時々、弊社の馬の馴致を手伝っているんです」
陽菜は引綱を強く握り、息を切らせながら友梨佳を紹介した。
「ほう。そうすると、将来的には跡を継がれると」
「将来的にはね」
「個人牧場ですと営業キャッシュフローをプラスにするのは大変ではないですか?」 「は? キャッシュカード?」
「いえ、本業の現金の流れのことです」
「現金の流れって、口座からカードか通帳で降ろすか振り込みするだけだけど」
陽菜は友梨佳の袖を引っ張った。
「牧場経営で儲けるのは大変じゃないかって聞いてるの」
「なんだ、最初からそう言えば良いのに。まぁ、ぼちぼちかな」
「最初からそう申し上げたつもりでしたが」
真田の表情は相変わらず柔和だが、一瞬右の眉が吊り上がったのが見えた。
友梨佳は目も合わさず、髪先を指でくるくると弄んでいる。
これ以上ふたりで話をさせたらまずい。このままだと馬を買ってもらえないどころか、下手をしたら父親経由で両方の牧場の悪い評判が広がりかねない。
「あ、あの……そろそろ」
「新規事業を立ち上げるにも個人牧場単体でキックオフからローンチまで行うのは難しいでしょうね」
「うちはサッカーやらないし、何かあったら銀行でローン組むから大丈夫でしょ」
陽菜が話を切り上げようとするのも構わずに、かみ合わない会話を続ける。
お互いにピリピリした雰囲気を醸し出している。
(お願いだからこれ以上しゃべらないで!)
陽菜の心の叫びが届いたのか、加耶から着信が入る。
『もしもし陽菜ちゃん。大丈夫? ホームページの更新が遅れてるって代表が心配して電話してきたよ』
「すみません、来客対応をしていました。今すぐ戻ります」
(加耶さんナイスタイミング)
陽菜は心底ほっとした。
「申し訳ございません。別件の業務が入ってしまいまして……」
陽菜は通話を切るとできるだけ申し訳なさそうな表情をつくり、話を切り出した。
陽菜が、真田の乗ったレクサスが牧場から走り去るのを見届けたところに、エシャロット親子を馬房に戻した友梨佳が来た。
「なんかクセが強そうな人だったね」
「でも悪い人じゃないと思うよ。馬が好きな人に悪い人はいないんでしょ?」
「それはそうなんだけど。あの人、馬に興味あるのかな?」
「どうして? 牧場の事すごく詳しかったよ」
「馬の事は何か言ってた?」
陽菜は、あっと思った。振り返ってみれば聞かれたのは牧場の事だけだ。あとは自分の事を聞かれたくらいか。
「いくら牧場見学が目的だとしても、馬が側に来たら何かしら反応するでしょ。でもあの人はエシャロットにほとんど見向きもしなかった」
友梨佳の人を見る目というか観察眼には驚かされる時がある。物心ついた時から生き物を相手にしているからだろうか。
陽菜は二の句が継げなかった。
「まあでも、腹を探るような話もしてこなかったし、悪い人ではないと思うよ。あたしは友達になれそうにないけど」
「そっか。友梨佳さすがだね。私、牧場をアピールする事しか考えてなかった」
「まあそれが陽菜の仕事だしね。陽菜、もう少し肩の力を抜いていいんじゃない?」
「仕事と言えば、ホームページ用の写真撮るんだった。友梨佳、馬を出してくれる?」
「うん。いいよ」
真田の真意は何だったのか気にはなるが、今は目の前の仕事をこなすことを優先しよう。そう考えながら、陽菜は友梨佳と並んで厩舎のなかに入って行った。