side友梨佳 第19話
新宿歌舞伎町の裏路地。喧騒から少し離れたその場所に、ひっそりと佇む小さなバーがある。
その店内の薄暗がりで、桐島は一本のロープを静かに手繰りながら輪を結んでいた。客の姿はない。冷えた空気の中で、グラスの残響が耳に残る。
「……こんなもんでいいのか」
結んだ輪を見つめ、桐島は吊るせそうな場所を探した。しかし、どこを見渡しても、自分の体重を支えられそうなものはない。
ふと、視線が入り口のドアノブに止まった。
無言でロープを括りつけ、膝を放り出すように伸ばせば宙に浮ける体勢を整えられる。桐島は輪に首を通した。ちょうどその瞬間——。
ドン、と勢いよく扉が押された。
驚きとともにロープから首が抜け、桐島はもんどり打って床に倒れ込んだ。
「ごめんなさい。準備中だったかしら?」
扉の隙間から、女が顔を覗かせる。黒髪をゆるくまとめた、涼しげな瞳の女——弓だった。
「い、いや……そういうわけじゃ」
咄嗟に体を起こしながら、桐島は首筋をさすった。
「そう。よかったわ」
弓は店内に入ると、すぐにドアノブに巻き付けられたロープに目を留めた。
「あ、いや、それは……」
慌てる桐島をよそに、弓はため息をつきながらロープを外す。
「だめよ、こんなんじゃ。すぐに外れちゃうわ」
慣れた手つきで輪を結び直すと、軽く引いて強度を確かめ、桐島にロープを投げ返す。
「これなら解けないわ」
さらりとそう言うと、弓はカウンターの前に腰を下ろした。
「でも、その前に一杯ちょうだい。山崎25年ってあるかしら?」
「あるわけないでしょう、こんな場末のバーに」
「そう。じゃあ、山崎50年は?」
「25年がないって言ってるのに、なんで50年ならあると思うんですか。俺だって飲んでみたいですよ」
「ふふっ、そうよね。死ぬ前に一度くらい飲んでみたかったんだけど」
弓は遠い記憶に触れるように呟いた。
「……あなた、死ぬんですか?」
桐島はカウンターの中に入り、棚をあさりながら聞いた。
「そのうちね」
「そりゃ誰だって、そうでしょうよ……」
弓はフフっと笑う。
「でも、そうね、願わくばターフの上で死ねたら本望かしら」
「あなた、ジョッキーなんですか」
「ええ」
桐島は白州12年のボトルを取り出し、氷を入れたグラスに注いで差し出した。
「山崎はないけど、白州12年ならあります」
「いただくわ」
弓はグラスを受け取り、ゆっくりと香りを確かめるように口をつけた。
そのとき、バーの扉がまた開いた。
無言で立っていたのは、一目で裏社会の人間とわかる男。桐島と目が合うと、顎で外をさす。
桐島は観念したように肩を落とし、黙って男の後に続いた。
扉の向こうからは、怒鳴り声と肉の打ち合う音、そして鈍く何かが崩れる音が響いた。
弓は音の方向に一瞥をくれると、再び静かにグラスを傾ける。
やがて、桐島が戻ってきた。顔は腫れ、シャツは血と泥で汚れていた。
「ずいぶんと色男になったじゃない」
桐島はテーブル席のソファにどかりと座り込んだ。
「俺が死のうと思った理由、話してませんでしたね」
「いくら借りたの?」
「三百万です。妹が訪問看護ステーションを立ち上げたいって言ってたんで……支援してやりたくて。だけど、投資詐欺に引っかかって……」
「ずいぶん妹思いなのね」
「両親が離婚して、俺らは父親に引き取られました。でも、その父親が……虐待してたんです。最初は俺だけだった。でも、妹が中学に上がる頃からは……あいつ、妹にまで手を出すようになって」
弓の眉がわずかに動いた。
「すぐに妹を連れて警察に行きました。父は逮捕されて、俺たちは児童養護施設に保護されました。だから……妹は、俺にとって唯一の家族なんです」
桐島は床に落ちたロープを拾い上げた。
「連中、金を用意できなきゃ妹のとこに行くって……だから、俺が死ねば少しだけど保険金が入る。妹に迷惑をかけるより、そっちの方が……」
「馬鹿ね」
「……分かってますよ」
沈黙が落ちる。時計の針の音だけが、空間を切り裂いていた。
「——ねえ、どうせ死ぬ気なら、その命、私に預けてみない?」
「は?」
「競馬って、やったことある?」
「……いいえ」
「今度の日曜日。東京競馬場のメインレース——第11レースよ。私の単勝に、持ってるお金全部賭けなさい。運が良ければ、借金も返せるし、妹さんへの援助もできる」
「ここで300万、俺に貸すって選択肢はないんですか?」
「初対面の人にお金を貸すほど、お人好しじゃないの」
弓は立ち上がり、カウンターに一万円札を置いた。
「間違えないで。東京競馬第11レース、ネイビーブルー。分からなかったらビギナーズコーナーで、"天野弓が乗る馬はどれですか"って聞けば教えてくれるわ」
そう言い残し、弓はドアを開けて出ていった。
日曜日の東京競馬場。
雑踏の中、ひときわ浮いた存在のように、桐島がバッグを胸に抱える姿があった。バッグには彼のすべてが詰まっている――いや、命すら入っているようだった。
彼はパドック脇の「ビギナーズコーナー」へ足を運び、係員からマークシートの記入方法や馬券の買い方を教わった。震える手で記入を終え、馬券の券売機に向かう。
買ったのは、ネイビーブルーの単勝馬券。額は、有り金すべて――二十万円。
オッズは22.5倍。弓が勝てば、払い戻しは四百五十万円を超える。
(天野さんが勝てば……借金も清算できる。妹にだって……)
脳裏をよぎるのは、薄暗い店内と、ドアノブから垂れるロープ。胸の奥がひやりと冷えたそのとき、GⅠレースの発走を告げるファファーレが鳴り響いた。
ゲートが開く。
1番、白い帽子のネイビーブルーが好スタートを切る。勢いのまま先頭に立つと、そのままレースを引っ張り始めた。
後続との差はじわじわと開いていき、5馬身、6馬身……4コーナーを回る頃には、8馬身にまで広がっていた。
場内にどよめきが走る。
(行ける……!)
桐島の胸が高鳴る。その瞬間、背後から一頭、猛然と迫る馬影が視界に入り込んだ。観客席の熱が一気に高まる。
「逃げろ!」
「逃げろ、逃げてくれ!」
叫びがスタンドを揺らす。桐島も思わず声を上げた。
「頼む、逃げてくれ! 香!」
口をついて出たのは、妹の名前だった。
後続の馬が懸命に差を詰める。鞭を打ち続ける弓の姿が、一瞬スローモーションのように目に焼き付いた。
2馬身……1馬身……半馬身……クビ差……。
そして、二頭並んだまま、ゴール板を駆け抜けた。
桐島は息を呑み、電光掲示板を凝視した。
1着と2着の間に表示されたのは──『写』の1文字。
場内に緊張が走る。ターフビジョンにはスロー映像が流れるが、桐島は怖くて目をそらした。
「ハナ差、差し切っただろ」
背後の観客の言葉に、桐島の心臓が凍る。
(終わった……)
再び思い浮かぶのは、あの暗い店とロープ。 そのときだった。
割れんばかりの歓声が、場内を包んだ。
恐る恐る顔を上げると、電光掲示板の1着の欄に、はっきりと「1」の数字が光っていた。
「……勝った」
呆然と呟く。すぐに我に返り、バッグを抱えたまま自動払い戻し機へと駆け出す。
だが、馬券は戻ってくるばかり。何度やっても同じだ。
(なんでだよ……!)
半ばパニックになった桐島に、警備員が声をかけてくる。事情を説明すると、有人窓口に案内された。
窓口で馬券を渡すと、番号札を手渡された。少しして呼び出され、差し出されたのは百万円の束が五つ。最終的なオッズは25倍に跳ね上がっていたという。
桐島は震える手で札束をバッグに収め、両手でしっかりと抱きかかえる。そして、獣に追われるかのように競馬場を後にした。
バーの扉が開き、弓が中へ入る。
カウンターには桐島がいた。客は一人もいない。それでも彼の表情には、以前にはなかった生気が宿っている。
「そこにいるのが幽霊じゃなければ、上手くいったみたいね」
弓が微笑みながら席に腰を下ろすと、桐島は白州12年の水割りを差し出した。
「天野さんのおかげで、再出発できます。本当にありがとうございました」
深く、頭を下げる。
「私は競馬をしただけよ」
弓は淡々と言い、水割りに口をつけた。
「でも……どうしてレース前から、あんなに確信があったんですか?」
「確信? そんなの、あるわけないじゃない」
「え?」
「でも、勝機はあった。スタートを決めて、スローに持ち込めればね。そのための準備はしてきたわ」
桐島は言葉を失う。
「レースが始まったら、あとは流れ次第。今回はあなたが命を預けてくれたから、運を引き寄せられたのかも。私の方こそ、お礼を言わないと」
弓は穏やかに笑った。
(……格好いい)
桐島は素直にそう思った。生き様も、人としての器もまるで違う。
「天野さん。俺を、あなたのそばに置いてもらえませんか?」
「え、嫌よ。私に何のメリットがあるの?」
「俺の命、預けたじゃないですか」
「じゃあ今すぐ返すわ」
「返さなくていいです。俺、こう見えてマネジメントには自信あるんです」
「借金で首をくくろうとしたくせに」
「それは、投資詐欺のせいです。俺、天野さんのマネージャーになります。天野さんが望む形で騎手人生を全うできるよう、全力で支えさせてください」
「望む形……ね」
「はい」
弓は考えを巡らせた。
(⋯⋯アシスタントを置いておいても悪くないか)
「山崎50年、手に入る?」
「ツテを総動員します!」
弓はふっと笑い、カウンターのペーパーナプキンに何かを書いた。
書かれていたのは、彼女の電話番号だった。
「一週間後、京都に来なさい。一日でも遅れたら、この話はなしよ」
「あ、ありがとうございます……!」
桐島は、泣きそうな顔で何度も頭を下げた。
弓はその様子を見て、苦笑いしながら水割りに口をつけた。