side友梨佳 第18話
1月の雪がちらつく京都。京都マークタワーホテルの宴会場でグランエターナルレーシング祝賀会が開かれていた。
宝塚記念優勝と古馬三冠の偉業を達成し、年度代表馬に選出されたグランドデュークとホープフルステークスを制し、最優秀2歳牡馬に選出されたロイヤルストライドの関係者や出資者が招待され、ビュッフェスタイルの祝賀会場は華やかな熱気に包まれていた。
会場には一年間でグランエターナルレーシングが勝ち取った15個の優勝レイやトロフィーが所狭しと並べられ、出資者たちは思い思いに記念写真を撮っていた。
グランドデュークとロイヤルストライドの主戦を務めた弓の周囲は常に記念写真やサインを求める人で囲まれていた。
友梨佳のもとにも『美しすぎるバレット』として何度かネット記事になったこともあり、記念写真を求める人が来たが、弓のそれとは比較にならなかった。
友梨佳は3周目となる食事を皿にとりながら改めて会場を見渡した。皆一様に嬉しそうにしている。大手クラブ法人であっても、競馬で勝つには並々ならぬ努力が必要なのだろう。何度もG1を勝っているだろうにグランエターナルレーシングの関係者とみられる人も嬉しさを隠さずにいた。
(シュバルブランのような小さなクラブ法人がダービーなんて……)
つい弱気な気持ちが湧きあがる。
友梨佳は慌てて首を振る。
「うちだって負けないくらい頑張ってるんだから、絶対大丈夫」
リアンデュクールは11月の未勝利戦を勝った後、短期の放牧に出だされた。年明けすぐに美浦に戻り、今月下旬に京都競馬場で行われる若駒ステークスに出走する予定だ。鞍上は引き続き弓に依頼された。
若駒ステークスをステップに、3月には弥生賞またはスプリングステークスに出走。4月に皐月賞、そして5月に日本ダービーへと駒を進める青写真を影山は描いている。
「皐月賞はユーミンはロイヤルストライドを選ぶはず。茜っちがリアンに乗ったら、今度こそ勝たせてくれる⋯⋯」
友梨佳が皿のステーキを頬張ろうとしたとき、どよめきが起きた。
振り返ると、人だかりの中で弓が両膝をついて腕を抱えていた。
「ユーミン!?」
友梨佳が人だかりを割って入る。
「……友梨佳ちゃん。ちょっと、飲みすぎたみたい。桐島君に連絡して車を玄関につけてもらって」
「わかった」
ホテル関係者に弓が介抱されている間に友梨佳は桐島に電話をかけた。
「マー君。ユーミンが飲みすぎたみたいで倒れ込んだの。車をホテルの玄関まで回してほしいって」
「呼吸は?」
「え、呼吸? ……呼吸は大丈夫そうだけど」
友梨佳は弓を見ながら答えた。
「分かった。すぐに向かう」
そう言うと桐島は通話を切った。
(……飲みすぎで呼吸状態聞く?)
不思議そうに首を傾げながら、友梨佳は両脇を抱きかかえられた弓と一緒に会場を後にした。
「これを一錠、飲ませて」
車に弓を乗せた後、運転席から桐島が小さな紙袋を差し出した。袋には『バクロフェン』のラベルが貼られている。
「……吐き気止めか何か?」
紙袋を受け取りながら、友梨佳が首を傾げる。
「まあ、そんなところだ」
桐島は短く答え、友梨佳にミネラルウォーターを押し付けた。
友梨佳は袋から一錠を取り出し、弓の顔を覗き込む。
「飲めそう?」
そっと手渡そうとしたが、弓の手は小刻みに震えたまま、まったく動こうとしなかった。
「……口に入れて飲ませて」
桐島が車をゆっくり走らせながら言った。
友梨佳は慎重に弓の唇に薬を運び、口の中に落とし入れる。次いでミネラルウォーターのペットボトルをそっと傾けると、弓は喉を動かし、無事に薬を飲み込んだ。
「ありがとう。すぐに効くはずだから……少し、こうさせて」
そう言って弓はゆっくり目を閉じ、友梨佳の肩に頭を預けた。まだ顔色は悪いが、意識はしっかりしている。
「ねえ、マー君。ユーミンってそんなにお酒に弱いの?」
友梨佳は小声で尋ねる。
「見た限り、そんなに飲んでるようには見えなかったけど……」
「いや。弱い方ではないよ」
ハンドルを握りながら、桐島は淡々と答えた。
「そっか。今日はお祝いだったし……私の見てないところで無理に勧められてたのかな」
友梨佳は、肩で静かな寝息を立てる弓の顔をそっと見下ろした。
バックミラー越しにその様子を確認しながら、桐島は小さく息を吐いてハンドルを握り直す。
「なあ、友梨佳」
桐島の声に、友梨佳が顔を上げた。
「ん?」
「お前、天野さんのこと……好きか?」
思いがけない問いに、友梨佳は一瞬考える。
「……うん。ユーミンのこと好きだよ。とっつきにくいところもあるし、何を考えてるのか分からない時もあるけど、話してみると穏やかで人当たりもいいし、レースの準備だってすごく真面目。それに──」
「それに?」
「馬が好きな人に、悪い人はいないと思うの」
「……そうだな」
桐島が、ふっと口元を緩めた。
「でもね……だからこそ分からなくなる時があるんだ」
友梨佳は少し声を落として、窓の外に目を向けた。
「なんで時々、あんなに荒い騎乗をするんだろうって。無理に馬群に突っ込ませたり、ふらふらの馬に鞭を入れたり……」
「……少しでも勝つ確率を上げ、ひとつでも上の順位を目指す。それが騎手の役目だろ?」
桐島は静かに言いながら、バックミラー越しにもう一度、友梨佳の目を見た。
「うん、分かってる。でも……ときどき、わざと馬の嫌がることをしてるんじゃないかって思えて……。そんなのを続けてたら、いつか──」
「友梨佳」
桐島がその言葉を遮るように、はっきりと口を開いた。
「俺も、天野さんのことが好きだ」
唐突な告白に、友梨佳は驚きで頬を紅く染め、手で口を覆った。
「……そういう意味じゃない」
桐島は苦笑し、少し咳払いをして言い直す。
「俺は、女性は恋愛の対象にならない。だから、これはそういう“好き”じゃない」
少し間を置いて、彼は静かに続けた。
「俺は、天野さんという人間が好きだ。だから、彼女が信じた道を進むなら、それを支えたいと思ってる。……友梨佳に、彼女を支えろとは言わない。ただ、最後まで、見守ってやってほしい」
「……どうして、そこまで?」
「命を預けたからな。天野さんに」
「命を……?」
「もう五年くらい前になるか……」
そう言って、桐島はゆっくりと語り出した。