side友梨佳 第17話
弓が自分のロッカーの前に腰を下ろした瞬間、全身から力が抜ける。
両手も両足も硬直し、呼吸がうまくできない。
なんとか手を伸ばし、ロッカーを開けて携帯用酸素ボンベを取り出す。
マスクを口に当て、深く息を吸い込む。
ようやく呼吸が落ち着き、思考もクリアになってくる。
(骨がきしむ様な音が確かに聞こえた。もし骨がきしむ音だとしたら、スピード能力に骨が耐えらないのだろう……。 そして、あの子は骨が砕けても走り続けようとする)
酸素ボンベをロッカーに戻し、弓は静かに立ち上がった。
「リアンデュクール……真子が引き合わせてくれたのかもしれないわね」
ぽつりと呟かれた声には、覚悟にも似た深い色があった。
その瞳の奥には、沈んだ鋼のような鈍い光が静かに灯っていた。
最終レースが終わり、競馬場に夜の帳が下りる。
メインレースのジャパンカップでは、弓の騎乗したグランドデュークが堂々の勝利を収めた。先月の天皇賞に続いての連勝で、次の有馬記念を制すれば、古馬三冠という偉業に手が届く。
一方の茜は、ジャパンカップでハナ差の惜敗。レース後、馬主と調教師に頭を下げた彼女は、誰とも言葉を交わさず、静かに競馬場を後にしていた。
がらんとした関係者駐車場で、陽菜が興奮気味にタブレット端末を掲げ、友梨佳に見せていた。
「見て! リアンが勝ったあと、こんなに祝福と応援のコメントがついてるの。しかも、シュヴァルブランには募集馬への出資の問い合わせまで来てるみたい!」
「……そうなんだ。良かったね」
友梨佳はどこか上の空で、素っ気ない返事を返す。
「……桜木さんのこと、気にしてるんでしょ?」
「ごめん。ずっと近くで見てたから、どうしても……」
「友梨佳から見て、桜木さんってどんな人?」
「……前向きで、負けず嫌い。絶対に諦めない人」
「うん、私もそう思う」
陽菜はうなずき、続けた。
「天野さんの影に隠れがちだけど、桜木さんだって何百勝もしてるトップジョッキーだよ。あのレベルにたどり着くには、並の精神力じゃ無理。今は天野さんとの技術差にショックを受けてるかもしれないけど、きっと乗り越えて、もっと強くなって帰ってくるよ」
「……そうだよね。私が信じなくてどうするの、だよね」
「そうそう、妹が信じなきゃ誰が信じるのよ」
陽菜がニッと笑って、友梨佳の腰を軽く叩いた。
「……うん、ありがとう。って、ちょっと待って……なんで知ってるの?」
「だって桜木さん、あちこちで言ってたよ。“妹ができたんだ”って」
「えっ、あたしには『くっついてくるな』って言うくせに……ほんと、ツンデレなんだから」
思わず笑ってしまい、二人は顔を見合わせて微笑んだ。
「ねえ、友梨佳。このあとご飯行くでしょ? 私、実家に帰るんだけど、一緒に来ない?」
「ごめん……このあと弓さんと京都に戻らなきゃ。おじいちゃんのこともあるし……」
「……そっか。うん、わかった。ごめんね、急に」
「栗東に来ることがあったら連絡して。京都案内するよ。けっこう詳しくなったんだから」
「……うん。楽しみにしてる」
ちょうどそのとき、弓と桐島を乗せたタクシーが駐車場に滑り込んできた。
「……じゃあ、行かないと」
「……うん。またね」
名残惜しそうに言葉を交わすと、友梨佳はタクシーへと歩き出す。
後部座席に乗っていた弓が顔を上げた。
「彼女とは、大丈夫だった?」
「うん……」
友梨佳は窓から陽菜のほうを振り返る。
陽菜は運転席に乗り込み、車椅子を助手席に積み込んでいるところだった。
「それじゃ、運転手さん。東京駅まで――」
「マー君、ちょっと待って!」
助手席に座っていた桐島に向かって、友梨佳が突然声をかけた。
「マー君?」
弓がからかうように首をかしげる。
桐島は気まずそうに視線をそらした。
友梨佳はタクシーを飛び出し、陽菜の車へと駆け寄る。運転席の窓を叩くと、陽菜が「どうしたの?」と窓を開けた。
その瞬間――
友梨佳は陽菜の顔に両手を添え、唇を重ねた。
深く、ゆっくりと。
舌が触れ合い、互いの息が交じる。
陽菜の指先が、そっと友梨佳の腕に触れる。
「……続きは、また今度会ったときにね」
唇を離して、友梨佳がささやく。
陽菜は頬を赤らめ、そっと頷いた。
「……ボーっとして事故らないでよ?」
「……バカ」
陽菜がかすかに笑い、そう返した。
友梨佳は微笑みながら、ふたたびタクシーへと走って戻った。
「もう、大丈夫?」
後部座席に乗り込んだ友梨佳に、弓が優しく声をかける。
「うん。大丈夫」
友梨佳がうなずく。
桐島が無言で運転手に合図を送り、タクシーは静かに動き出す。
車が進み始め、友梨佳がふと後ろを振り返ると、陽菜の車が反対方向へ走り去るのが見えた。
「ねえ、さっきの“マー君”って何? あなたたち、いつの間にそんな仲良くなったの?」
「マー君がそう呼べって言ったの」
「ちょ、違いますよ! いや、厳密には違わないけど……一度、病院帰りに祇園を案内したときに、友梨佳が“キリシマン”と“マー君”どっちがいい?って聞いてきて……」
「で、“マー君”を選んだの!?」
弓が吹き出しそうになる。
「小学生の頃、“キリシマン”ってあだ名でからかわれてたんですよ……だから」
「だからって、“マー君”にする?」
弓は堪えきれずに笑い出した。
「ほかにも考えたよ。『タカシ・マーク・キリシマ』で“TMK”とか。でも“卵かけご飯みたいでイヤだ”って却下された」
「た、卵かけご飯って……」
弓はお腹を抱えて笑いながら、涙をぬぐった。
「……笑いすぎですよ」
桐島は不満そうに呟きながらも、内心では――
(こんなに笑ってるところ、初めて見た)と思っていた。
「ねえ、友梨佳ちゃん。もし私にあだ名をつけるなら、何て呼ぶ?」
弓が、ふと微笑みながら聞いてくる。
「弓さんはね、“ユーミン”一択」
「ユーミン、か……」
弓は、かつて真子が「弓ちゃんのあだ名は“ユーミン”一択だね」と言ってくれた日のことを思い出していた。
「……いいわね。気に入ったわ」
そう言って、中央自動車道から見える東京競馬場の灯が遠ざかっていくのを、窓越しに静かに見つめていた。