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side友梨佳 第16話

 11月最終日曜日、東京競馬場。

 国際G1レース・ジャパンカップの開催日とあって、開門前から多くの観客が長蛇の列を作っていた。

 キャップを目深にかぶり、マスクで顔を隠した友梨佳は、府中競馬正門前駅で人混みを避けるように下車すると、観客の列を横目に見ながら、足早に関係者通用口から競馬場へと入っていった。

 持ち場に着いても、彼女はキャップもマスクも外さず、まるで誰にも気づかれたくないとでも言うように、黙々と準備を進める。

 友梨佳は、騎手控室に弓がその日使用する勝負服を届けると、他の騎手たちと顔を合わせぬよう、そそくさと廊下へ出た。

 その時、廊下の角から茜の姿が現れたのが見えた。

「……っ!」

 友梨佳は慌てて脇の通路に身を滑り込ませ、茜をやり過ごす。

 彼女の背が通り過ぎたのを確認して、そっと息をついたその瞬間——

「きゃあっ!」

 背後から、両胸をわしづかみにされた。

「友梨佳! 戻ってきたなら連絡くらいしてよ、水臭いじゃない」

 バレット仲間の女の子だった。

「ちょっ……! 後で揉ませてあげるから、静かにして!」

 友梨佳は慌てて廊下に顔を出し、周囲を見回す。誰もいないのを確認すると、ほっと息をついた。

「どうしたの? 誰かから逃げてたみたいだけど」

「今、弓さんのバレットやってるの。……ちょっと、顔合わせづらくて」

「弓さんって……天野騎手!? すごいじゃない! どうやってそんな大物と?」

「うーん、なんか、成り行きで……」

「さすが友梨佳、人と距離縮めるの上手いもんね。……あ、ヤバ、もう行かなきゃ! あとでランチしよ。みんな喜ぶよ」

 そう言い残して、彼女は廊下を駆け去った。

 やれやれと肩を落としたその時——

「……何コソコソしてんのよ」

 背後から、聞き慣れた声がした。

「ひっ……!」

 青ざめた表情で振り返ると、そこには茜がジト目で立っていた。

「あ、茜っち……」

「……怒ってる?」

 おそるおそる尋ねる友梨佳に、茜はふぅっとため息をついた。

「怒るわけないでしょ」

「ほんと?」

「誰のバレットになろうが、友梨佳の自由だもん。ただ、私は天野さんが苦手ってだけで……それは友梨佳には関係ない話だし」

「じゃあ、乗り替わりのことは?」

「一番人気を三回も裏切ったら、そりゃ降ろされても仕方ないわよ。悔しいけど。でも、私はもう前向いてる。次のチャンスのために、準備する方が建設的だから」

 茜はそこまで言って、一瞬言葉を区切った。

「……でもね、コソコソされるのは、ちょっと嫌。信頼されてないみたいでさ。……一応、私、あんたのお姉ちゃんみたいなもんなんだから……」

 その言葉に、友梨佳の顔がぱっと綻ぶ。

「そうだよね……ごめんね、お姉ちゃん!」

 感極まって茜に抱きつく。

「ちょ、やめなさいってば。……それより、あんたのことだから、天野さんのバレットになったの、何か理由があるんでしょ?」

 茜は友梨佳を軽く引き離しながら尋ねる。

 友梨佳はしぶしぶ離れると、弓がこの夏にイルネージュファームを訪ねてきたところから、泰造のことまで、これまでの経緯を話した。

「……そうだったんだ。泰造さん、良くなるといいね」

「……うん。抗がん剤とジュウリュシセンって治療を始めて、少しずつ癌が小さくなってるみたい」

「本当に? よかった」

 茜はホッとした表情を見せる。

「でもさ、やっぱり納得いかないわ。『たまたま近くに来た』なんて、そんな偶然ある? しかも調教までつけて、ちゃっかりアピールして……あー、ほんっと無理!」

 茜は自分の髪をわしゃわしゃと掻き乱した。

「でも一番無理なのは、三回も不甲斐ない騎乗をした私自身よ。見てなさい、絶対リアンを取り返すんだから!」

「ふふ……じゃあ、取られないように私も頑張らなきゃ」

 いつの間にか弓が、二人の背後に立っていた。

「茜が本気になったら、私なんて足元にも及ばないもの」

 余裕たっぷりの口調で、弓はシュヴァルブランの勝負服を見せつけるように微笑んだ。

 茜の表情が、悔しさにゆがむ。

「……ジャパンカップ、負けませんから」

「私も全力を尽くすわ。たとえ、あなたに敵わなくても」

 茜の拳が静かに震えていた。

「前検量が始まるわ。行きましょう、友梨佳ちゃん」

 弓の声に、友梨佳は弾かれたように返事をする。

「う、うん」

 後ろ髪を引かれる思いで茜を振り返ると、彼女はうつむいたまま、その場に立ち尽くしていた。


 検量室前——。

 2歳未勝利戦、芝2000メートルに出走する16頭の馬たちが、目の前をゆっくりと歩いていく。

 7番ゼッケンをつけたリアンデュクールが、静かに通り過ぎた。

 青いヘルメットの下、束ねられた黒髪が馬の動きに合わせて柔らかく揺れている。

 陽菜はその姿に手を組み、目を伏せ、小さな声で祈りの言葉を紡いでいた。

 友梨佳はリアンを見送ると、陽菜の手をそっと握る。

 その小さな手は、かすかに震えていた。

 昨日、ロイヤルストライドが京都2歳ステークスを圧勝し、弓とのコンビで世代最強候補に名乗りを上げた。

 一方、リアンデュクールは——今日勝てなければ、クラシックへの道は閉ざされてしまうかもしれない。

「大丈夫。天野さんが勝たせてくれる。マルスを乗りこなしたあの人なら、きっと」

 陽菜は力強く言った。

「……うん。そうだね」

 でも、友梨佳は心の奥で願っていた。

 できるなら、茜に勝ってほしいと——。

 モニターには本馬場に入場するリアンの姿が映っていた。

 その時、不意に背中にバンっと衝撃を受けた。

「何しけた顔してるのよ。言ったでしょ、私は切り替えてるって。あんたは余計なこと考えないで、リアンの勝利だけを祈ってなさい」

「……茜っち」

「もしこのままリアンが勝ち進めば、皐月賞で天野さんはロイヤルストライドかリアン、どちらかを選ばなきゃならない。……でも、馬主との関係性を考えれば、ロイヤルストライドを選ぶはず。そう思うでしょ、陽菜さん?」

「はい。私もそう思います」

「だからこそ——皐月賞も、ダービーも、必ず勝つ。そして言ってやるのよ」

 茜はぐっと拳を握りしめ、静かに言葉を続けた。

「『ありがとう、リアンを仕上げてくれて。調教の成果を奪われる気分って、どんなのか教えてくれる?』ってね」

 茜の捨てゼリフに、友梨佳と陽菜は思わず顔を見合わせた。

(――気持ちは分かるけれど、そこまで言う……?)

 陽菜も友梨佳も返す言葉を失い、軽く苦笑いを交わしながら、ふたりは再びモニターに視線を戻した。


 スタート地点。ゲート入りを待つ間、弓はスターターの様子をじっと観察していた。

(今日のスターターは白濱さんか……)

 ファンファーレが場内に鳴り響く。奇数番号の馬から順にゲートへと誘導されていく。

 弓はリアンデュクールの首筋に軽く手を添えながら、次々と入ってくる他馬を横目に見つめた。リアンは興奮気味に首を上下させ、落ち着かない様子を見せる。

(白濱さんは、全馬の脚がきっちり降りたら間髪あけずにゲートを開く……。なら、あえてギリギリまでリアンを動かして、直前に落ち着かせれば——)

 やがて、全馬がゲートに収まり、リアンを覗いた馬はゲートで直立している。

 弓はリアンデュクールの顔をくっと横向きにして一瞬落ち着かせたかと思うとすぐに真っすぐに戻す。

 そのタイミングと同時にゲートが弾けるように開き、リアンデュクールが真っ先に飛び出した。


 最初の100メートルを通過した時点で、すでに二番手の馬を三馬身引き離している。

(やればできるじゃない……いいわ、そのまま突っ走っちゃいなさい。ふふ、他の騎手たちのレースプランは、もうぐちゃぐちゃね)

 リアンデュクールは先頭を独走する。場内からどよめきが起こる。

 600メートル地点。後続との差はさらに広がり、五馬身になっていた。

 ペースを落とそうと弓が手綱を緩めかけたとき——リアン自身が速度を緩めた。

「え……?」

 二番手集団が距離を詰めようとする。が、リアンは彼らが迫ってきた瞬間、再び加速した。

 まるで相手の反応を見て楽しんでいるかのように。

(ソラを使ってる? いえ……これは——)

 また速度を落とす。そして、再び迫ってきた相手に対し、リアンは同じ行動を繰り返した。

 結果、2番手集団は追いつくどころか、騎手が促してもついてこれなくなっていく。

 弓の背筋にぞくりと電流が走る。

(まさか……この子、他の馬の心を折ろうとしてるの!?)

 4コーナーに差し掛かる頃には、2番手集団はずるずると後退していた。

 弓の胸が高鳴る。身体が震える。

「なんて意地悪なの……あなた最高よ!」

 4コーナーを回った瞬間、待機していた後方馬たちが一気に追い上げてくる。

「さあ、リアン。あなたの狂気を、もっと見せて」

 弓は手綱をしごき、鞭を一閃させる。

 リアンデュクールの身体が一度深く沈み、次の瞬間には矢のように直線を駆け出した。

 風が耳を裂き、後ろへと引きちぎられるように流れていく。

「もっと、まだ出せるはずよ!」

 もう一度、弓は鞭を入れた。

 リアンデュクールはさらに加速。弓は上体が一瞬浮きあがるのを感じた。

 そのままリアンデュクールはゴール板を駆け抜けた。

 2位の馬を10馬身以上引き離し、しかもコースレコード。

 場内が一瞬沈黙したかと思うと、地鳴りのような歓声が爆発した。

「本当に……最高よ。いったい、その狂気はどこから来たの?」

 弓はリアンの頭を撫でながら、そっと囁いた。

「……いえ、やっぱり真面目なのね、あなた」

 弓はバックストレッチまで来るとリアンデュクールを止めた。

「……手を抜くことも知らないで。闘争心のままに走るなんて」

 弓はつぶやくと、リアンデュクールをゆっくりと走らせ、地下馬道へと向かう。


 ――ピシッ――


 前脚のあたりから、かすかな音が聞こえたような気がした。

 弓は思わずリアンを止め、様子を窺う。

 しかし、リアンは変わりない。歩様も変わらないようだ。

 検量室前に戻ると、友梨佳と亮太涼平が待ち構えていた。

 ふたりとも、顔をくしゃくしゃにして笑っている。

 弓は馬から降りると、真っ先にリアンデュクールの両前脚に手を当てた。

 熱はない。痛がる素振りもない。

(……思い過ごし?)

 弓は鞍を外し、ゼッケンと鞭を友梨佳に手渡す。

「……ありがとう、弓さん」

 友梨佳のサングラスの下から、涙がぽろりと落ちる。

 弓はニコッと微笑み、友梨佳の頭をぽんと叩くと、検量室に入っていった。

 後検量を終え、鞍を友梨佳に託した弓は何も言わず、そのまま女子更衣室へと向かった。

 茜はひとり、モニターの前に立ち尽くしていた。

 レースの映像はすでに終わっているはずなのに、目を離せずにいる。

 顔はこわばり、額を伝う汗が顎先から滴った。

「茜っち……」

 友梨佳がそっと声をかける。

 しかし茜は何も言わず、ふらりと騎手控室へと入っていった。



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