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side友梨佳 第15話

 11月に入り、日高の空気はぐっと冷え込んだ。 冬の気配が、もうすぐそこまで忍び寄っている。九月の終わり、リアンデュクールは影山厩舎に戻った。馬体は一回り大きく逞しくなっていたが、他馬に寄せられると立ち止まってしまう癖は、依然として抜けなかった。

 復帰した茜を背に、リアンデュクールは十月最終週の東京競馬場、未勝利戦に出走した。しかし結果は二着。直線で寄せられ、思うように伸びを欠いた。この一戦で、リアンデュクールの“攻略法”は関係者たちに知れ渡ってしまった。

 一方で、泰造の体調もまた、高辻牧場とイルネージュファームの両方に、重苦しい影を落としていた。検査の結果、膵臓に癌が見つかり、すでに動脈を巻き込み、肝臓への転移もみられた。すでに手術の適応はなく、余命は六か月――医師はそう告げた。泰造は延命のための治療を拒み、静かに自宅での緩和ケアを選んだ。

 友梨佳は、泰造の前では絶対に泣かないと心に決めていた。

 仕事でも私生活でも、いつも通り明るく振る舞っていたが、ある晩、陽菜のアパートに遊びに行ったとき、積み重ねてきた想いがついに決壊した。言葉もなく、ただ泣いた。陽菜は黙って一晩中そばにいてくれた。

 晩秋の朝日が、毛布にくるまる二人の肩を柔らかく照らしたとき、友梨佳は静かに顔を上げた。そして、心に一つの決意を刻んだ。

「おじいちゃん……あたしの、最初で最後のわがままを聞いてほしいの」

 自宅に戻った友梨佳は、リビングのソファに腰掛けている泰造の前に立ち、まっすぐに言った。表情も口調も、これまでになく真剣だった。

 泰造は薄く笑った。

「それは、今まで一度もわがままを言ったことがない奴のセリフだな。むしろ、わがままを言わなくなった最近のほうが、よっぽど薄気味悪かった。……で、なんだ?」

 少しだけ眉をひそめながらも、どこか楽しげに泰造は促した。

「京都に、一緒に行ってほしいの。弓さんが、がん治療の専門医を紹介してくれるって。治療してる間、あたしは弓さんのバレットとして働く。牧場のことは、遥さんと相談してやりくりするから……」

「俺は治療はしないって言ったはずだが」

 泰造の声は落ち着いていたが、強い拒絶の響きはなかった。

「このままじゃ……絶対に悔いが残る。あの時、治療を受けさせていたらって。効果がなかったり、治療が辛かったら途中で帰ってもいいから……お願い……」

 涙をこらえきれず、友梨佳の声が震える。

 泰造はしばらく黙って彼女を見つめていたが、ふっと目を細め、わずかに笑った。

「……お前の両親や、ばあ様に京都土産の一つでも持って行くのも悪くないだろう。だが、いつ帰るかは俺が決める。医者の話を聞いたその日に帰るって言っても、文句は言うなよ」

「……うん、わかった。ありがとう……」

 友梨佳は両手で顔を覆い、堰を切ったように涙を流した。


 ***


「高辻さん。ご無沙汰しています」

 伊丹空港の到着ロビー。桐島が姿を見せ、友梨佳と泰造に穏やかな声をかけた。

「桐島さん……でしたか。このたびはお世話になります」

 泰造は車椅子に座ったまま、丁寧に頭を下げる。

「いえ、こちらこそ。長旅、お疲れ様でした。お車までご案内します」

 そう言って桐島は、友梨佳たちの荷物を自然な手つきで引き取り、送迎用の駐車場に停めてある弓の車へと先導した。

 後部座席に乗り込むと、助手席にいた弓が振り返って微笑んだ。

「言った通り、またお会いできましたね、泰造さん」

「ええ、このたびはご厄介になります。お忙しい中、何から何まで申し訳ない」

「いえ、ちょうど優秀なバレットを探していたところですから」

「優秀かどうかはさておき、体だけは丈夫ですので。まあ、使い走りくらいにはなるかと」

 冗談めかした泰造の言葉に、弓も声を上げて笑い返す。そのやり取りを、友梨佳はすねたような表情で黙って聞いていた。

 車はやがて名神高速に乗り、京都方面へと北上していく。

「京都駅の近くにマンスリーマンションを借りています。阪神競馬場からは少し距離がありますが、病院への通院を考えると、大阪より京都の方が便利かと思いまして」

 運転席の桐島が振り返らずに言った。

「府立医科大学病院までは、タクシーで30分も見ておけば着きます。タクシー代も、遠慮なく請求してください」

「いえ、それには及びません。介護保険が使えますので。それよりも、良いお座敷をひとつ紹介していただけると助かりますな」

 軽口に、桐島と弓がくすっと笑う。

「承知しました」と、弓が応じた。

「弓さん、11月は基本的に京都競馬場?」

「ええ。来週のジャパンカップ以外は京都よ」

「グランドデュークか。まず勝ち負けは間違いないだろう」

「実は、もう一頭、楽しみにしている馬がいるんです」

「ロイヤルストライドならジャパンカップ前の京都2歳ステークスだろう?」

「――リアンデュクールです」

「えっ!」

 思わず、友梨佳が声を上げた。

「今朝、影山先生から連絡がありました」

「テン乗り? それとも主戦を交代するってこと……?」

「それは、遥さんの判断次第でしょうね」

「茜っち……」

 リアンデュクールに付きっきりで調教をつけていた茜の姿が、友梨佳の脳裏に浮かぶ。

 乗り替わりなんてこの世界では、珍しくない話だ。それでも、リアンデュクールから降ろされる茜を思うと、胸がきしむ。

 一方で――弓がリアンデュクールに乗ったなら、どんな走りを見せてくれるのだろう。そう思わずにはいられなかった。

 応援したい気持ちと、寂しさと――相反する感情が胸の奥でもつれ合い、友梨佳はただ静かに、流れる車窓の景色を見つめた。

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