side友梨佳 第14話
泰造は厩舎の側に置かれた木製の椅子に腰掛け、放牧地を駆け回る仔馬たちの姿を目で追っていた。
このひと月で、彼の体力は目に見えて衰えた。階段の昇り降りさえままならず、杖が手放せない。
近く病院に行く予定だが、どうにも胸の奥に重い予感が渦巻いていた。良い結果は期待できそうにない――そんな確信めいた不安があった。
「こちら、イルネージュファームかしら?」
ふいに声がして、泰造は顔を上げた。見慣れぬ女性が立っていた。姿勢は凛としていて、どこか品がある。
「いや、ここは高辻牧場だよ。イルネージュファームは隣さ。あそこに見えるだろ、育成施設が」
泰造が顎で示すと、その視線の先に、周回コースと坂路が広がっていた。
「天野さん、すみません。道を間違えました」
桐島が車から降り、女性に小走りで駆け寄った。
「どこかで見た顔だと思ったら……あんた、天野弓じゃないか。トップジョッキー自ら来てくれるとは縁起がいい」
「ふふ。縁起がいいなんて、私は力士じゃありませんよ」
弓は笑いながら、泰造の隣にしゃがみ込んだ。膝を折るその動きに、無駄のない柔らかさがあった。
「ここ、高辻牧場はリアンデュクールの生産牧場です」
桐島が、弓の耳元にささやくように言った。
「いかにも。リアンはうちの生産馬だよ」
「やっぱり。素敵な牧場ですね」
弓は放牧地を見渡し、奥に佇むログハウスにも目をやった。
「孫娘のアイデアなんだ。人が集まって、笑い声の絶えない牧場にしたいってね」
「もしかして、お孫さんって……桜木騎手のバレットを務めている高辻友梨佳さんですか?」
「友梨佳を知ってるのかい?」
「ええ。とても優秀だと、評判ですよ。お祖父様としては鼻が高いでしょうね」
「ありがたいことだ。今はこの牧場に戻って、いろいろと手伝ってくれている。今はイルネージュファームでリアンの調教にも関わってるがね」
「そうなんですね。あとでご挨拶させていただきます」
弓はどこか嬉しげに微笑み、柔らかく目を細めた。
「ときに、天野さん。あんた、リアンの気性をどう思うかね?」
泰造がふいに声を潜め、問いかけた。
「リアンデュクールの、ですか……」
弓は小さく息を吸い、遠くの空を仰いだ。
「ただの気性難とは、少し違う気がします。とても賢くて、真面目……自分に課したルールを、他者にも求めてしまうような。人間にもいますよね、そういう、扱いづらいけれど誠実な人」
「真面目か……なるほど。そう言われると、余計に不憫だな」
「不憫……ですか?」
「一世一代の大博打だの、舞別の夢だの、余計な荷物を背負わせちまった。リアンにとってはいい迷惑だろうさ。クラシックだのダービーだの、そんなもん気にせず、自由に走らせてやれればよかった」
泰造の視線が、再び放牧地に向かう。
「あり余る才能がある馬だ。そのうち、どこかで大きいところを獲るさ。それでも……」
「それでも?」
弓が泰造の言葉の続きを促す。
「それでも、欲が出ちまう。もしかしたら……ダービーに届くんじゃないかってな。……これが業なんだろうな、この世界に生きる者の」
「正直な方ですね、ご自分の欲にも。そういうの嫌いじゃありません」
「はは、老い先短いからな。まあ、せめてこの牧場と、少しばかりの金を友梨佳に残せれば、それでいいと思ってる。ダービーを獲れなくても、きっと悔いはないさ」
「……羨ましいですわ」
「騎手としてもまだ若いんだ。ダービーを狙えるチャンスはいくらでも来るだろう」
泰造は弓の表情をじっと見つめた。
「いえ。ダービーは別にどうでもいいんです」
「⋯⋯?」
「人生の締め方の話しです。騎手として、例えばターフの上で死ねたら幸せでしょうね」
「それなら簡単なことだ」
「?」
「レース中に馬から飛び降りればいい」
泰造がニヤリと笑うと、弓は吹き出すように笑った。
「それは名案です。参考にさせていただきます」
冗談めかして言いながら、弓は立ち上がった。しかしふらりとよろめき、すかさず桐島がその身体を支えた。
「お名前を伺っても?」
「高辻泰造だ」
「泰造さん。今日はいいお話を聞けました。また、きっとお会いしましょう。今度はゆっくりと」
「会えるかね……?」
「会えますよ。きっと」
そう言って、弓はもう一度、澄んだ空を見上げた。
***
「おっしゃっていただければ、お迎えに上がりましたのに」
イルネージュファームの厩舎を案内しながら、遥が弓に穏やかに声をかけた。
「いえ、こちらの都合で伺っただけですから。それにしても、素晴らしい施設ですね。設備も整っていて……成績が上向いているのも納得です」
「恐縮です。ありがとうございます」
「こんな場所で一度、馬を走らせてみたいものです。きっと気持ちがいいでしょうね」
「ええ、機会がありましたらぜひ」
軽やかな会話を交わしながら、遥、弓、そして桐島の三人はリアンデュクールの馬房の前で足を止めた。リアンデュクールは一瞬だけ弓に鼻先を近づけたが、すぐに興味を失ったように顔を背けた。
「さすが綺麗な馬体ですね。馴致は順調ですか?」
「……はい。おかげさまで、順調に進んでいます」
遥は弓の表情を探るように視線を注ぎながら、慎重に答えた。
「ふふっ、そんなに警戒しないでください。別にスパイに来たわけじゃありませんから」
弓が冗談めかして笑った、その時――。
厩舎内に甲高い馬のいななきと、何かが倒れる激しい音が響いた。
三人が顔を見合わせ、音のした馬房へ駆け寄ると、若い男性スタッフが床にうずくまり、腰を押さえているのが見えた。すぐ傍では、一頭の馬が前脚で床を掻き、興奮した様子で首を激しく上下に振っている。
「す、すみません……。気をつけてはいたんですが、突然暴れて……」
スタッフは立ち上がろうとしたが、強い痛みに顔をゆがめ、再びその場にしゃがみ込んだ。
「無理しないで。病院に行きなさい。加耶に車を回させるから」
遥が即座に指示を出す。だが、スタッフはそれでも不安そうに言葉を返した。
「ですが……こいつ、マルスの調教は……。今日、乗り手は皆出払っていて……」
遥が思案に沈む中、ふと視界の端に弓の姿が映る。
「私が、乗りましょうか?」
弓が静かに微笑みながら、まっすぐ遥を見た。
「天野さん……」
桐島が制止の声を上げる。
「大丈夫よ」
弓は軽く返すと、遥を見つめたまま一歩前に出た。
「ですが、こんなに気性の荒い馬に……」
遥は戸惑いながらも、弓の瞳から目を離せなかった。その奥に宿る静かな自信――それは、ただの好奇心や親切心ではない何かを感じさせた。
一瞬、視線を暴れる馬へ移す。
そして再び、天野弓の姿を見つめる。
(この人が、どうやって乗りこなすのか――見ておく価値はあるか)
遥は言葉にはせず、そっと息を吐いた。
マルスに跨った弓が、乗馬用のキュロットに長靴、プロテクターを身につけて、ゆっくりと周回コースへ姿を現した。
「……誰、あれ?」「天野弓じゃない?」「うそ、マジで?」
その姿に気づいた牧場スタッフの間にざわめきが走る。
「本当に大丈夫なんですか?」
桐島が鞭を手渡しながら、慎重に尋ねた。
「心配しないで」
弓は軽く微笑みながら答え、鞭を受け取った。
「天野騎手、これを使ってください」
陽菜がスマホと接続されたスマートグラスを差し出す。
桐島がその中継役をし、弓に手渡した。
「これは……?」
「スマートグラスです。馬の速度、心拍数、ラップタイムが表示されます。スマホと連動していて、インカムで会話も可能です」
弓はそれを興味深げに眺め、ゆっくりと装着した。
「へえ、面白いわね。友梨佳ちゃんが使ってたのも、これだったのね」
「あれ、天野さん……?」
馬に跨った友梨佳が弓の姿に気づいて近づいてきた。
「友梨佳ちゃん、久しぶり。会いたかったわ」
その言葉に、陽菜の眉がほんのわずかに動いた。
「どうしてここに?」
「ちょっと近くまで来る用事があってね。そしたらこの子が暴れて、乗る人がいなくなったって聞いたから、代わりに私が乗ることになったの」
「あー、なるほど。マルスは気性が荒いから、くれぐれも気をつけて。前に馬がいると我を忘れて突っ込むクセがあるの」
「そう。だから天野さんにはマルスに我慢を教えていただきたいの。友梨佳の後ろについて15-15で走らせていただけますか?」
遥が弓に歩み寄って言った。
「ええ、お安い御用です」
弓はそう言うと、軽く手綱を引き、マルスをゆっくりとコースへと誘導した。友梨佳もそれに続く。
「さあ、お手並み拝見といきましょうか」
遥がインカムに指示を送る。
「友梨佳、天野さんの前に出て」
その指示に従い、友梨佳が弓を追い越して先頭に立つ。
途端に、マルスが前の馬を追いかけようとし、ぐっとハミを取ろうとした。
「ダメよ、焦らないの」
弓は重心をわずかに前に移し、馬の肩に体重をかけて推進力を抑える。さらに、手綱の微妙な操作で、マルスがハミを噛もうとする動きを封じる。
それでもラップタイムは正確に200メートル15秒。友梨佳の馬との距離も、ぴたりと一定を保ち走り続けた。
「かあー……やっぱ違うな。近くで見ると、トップジョッキーの乗り方は別格だわ」
弓の騎乗フォームを見た大岩が感嘆の声を漏らす。
「本当ですね。上半身がまったくブレない。驚異的な柔軟性と体幹です」
小林が、弓のスマートグラスから送られてくる映像をモニターで確認しながら言った。
「父が言ってたわ。理想の騎手の姿勢って、逆さにした二等辺三角形の定規のような形なんだって。頂角が鋭ければ鋭いほどいいって。天野騎手はまさにその形よ。マルス、多分自分が人を乗せてることに気づいてないわ」
周回コースを走る弓とマルスに目を奪われながら、遥が静かに言葉をつなぐ。
(……友梨佳だって、負けてないはず……)
陽菜はそう思いたかったが、現実は違った。
鐙の長い友梨佳は、どうしても上体がブレがちだ。対して弓は極端に鐙が短く、肩峰から臀部までが一直線に伸びていた。力みも揺れもない、まさに教科書通りの騎乗フォームだった。
『天野さん、ありがとうございました。クールダウンしてから戻ってください』
遥がインカム越しに告げる。
(もう終わりか。……じゃあ、少し遊んでみようかしら)
「友梨佳ちゃん、見てて!」
弓が友梨佳の馬に並び、そう声をかけた次の瞬間、驚くべき光景が広がった。
なんと、弓が手綱から両手を離したのだ。
しかし彼女のフォームはまったく崩れず、馬も乱れることなくスムーズにコーナーを曲がっていく。体重移動だけで制御しているのが明白だった。
「……マジかよ……」
誰かの息を呑む声が漏れた。
それを見た友梨佳も勇気を出して、そっと手を離してみる。しばらくは真っ直ぐ走るが、やがて馬が不安定になり、慌てて手綱を握り直した。
「上手よ、友梨佳ちゃん。もう少し上体が安定すれば、きっとできるようになるわ」
「へへ、ホントに?」
友梨佳は照れくさそうに笑う。
「代表……あれは……真似できません……」
小林がため息まじりに呟いた。
「……そうね」
遥は視線を弓の方に向けたまま、ふと考え込む。
(リアンに天野騎手が乗ったら……)
その想像に、遥の胸がかすかに高鳴った。
***
友梨佳と弓は並んで洗い場までやってくると、馬から軽やかに降り、スタッフに手綱を渡した。
「天野さん、今日はありがとう。すごく楽しかった」
更衣室へ向かいながら、厩舎の中を歩いていた友梨佳が振り返って笑う。
「ええ、私も。久しぶりに、心から乗馬を楽しめたわ」
二人は並んで歩きながら、静かな厩舎の空気に身をゆだねていた。
「友梨佳ちゃん、茜のバレットは続けてるの?」
「ううん、今は辞めてる。バレットの仕事自体は好きなんだけどね」
「そう……それなら——」
その瞬間、弓の足元がもつれてよろけた。
「わっ」
咄嗟に手を伸ばした友梨佳が、しっかりと抱きとめる。
「大丈夫?」
「ええ、ありがと。ちょっと足が……もつれちゃって」
くすっと笑った弓が、ふいに友梨佳の胸に顔を預ける。
「ふふ……友梨佳ちゃん、いろいろ“大きい”から、助かっちゃった」
上目遣いで見上げてくるその瞳に、思わず友梨佳の胸が高鳴る。弓の髪から漂うほのかな香りが、鼻先をくすぐった。
「あ、あの……」
「ごめんなさい。もう少し、このままでいさせてくれる? すごく、落ち着くの。……嫌?」
見つめ返された友梨佳は、頬を赤らめながら小さく首を振った。
「い、嫌じゃないけど……」
「ねえ、さっきの話の続きをしてもいい?」
弓の声は柔らかく、でもどこか真剣だった。
「私のバレットになってくれないかしら?」
「えっ……!?」
友梨佳は目を見開いた。
「バレットの仕事は嫌いじゃないんでしょう?」
「そ、そうだけど……。 おじいちゃんの体調があまりよくなくて、牧場の仕事もあるし……」
「それなら、おじいさまも一緒に来てくださればいいわ。信頼できる医者も紹介するし、住む場所も用意する。牧場の仕事だって、茜のときみたいにやりくりすれば——」
「……おじいちゃん、人の世話になるの、あまり好きじゃないの。牧場の仕事も迷惑かけたくないし……だから、行けない。気持ちはすごく嬉しいけど」
「……そう。残念だわ」
弓の肩がわずかに落ちた、そのとき——
「ちょっと、何してるんですか!」
厩舎の入り口から、鋭い声が響いた。
陽菜だった。車椅子を勢いよく操り、二人の間に割って入る。
「足がもつれちゃって、友梨佳ちゃんに支えてもらったのよ」
弓がにっこりと微笑みながら説明すると、陽菜はじっと友梨佳を見つめた。
友梨佳はこくこくと真面目に頷く。
「……まあ、いいです。天野さん、更衣室で着替えたら事務所まで来てください。代表が、お礼をしたいそうなので」
陽菜はつっけんどんな口調で告げると、ぴしゃりと視線を切った。
「ありがとう。分かったわ」
弓は小さく手を振り、再び厩舎の奥へと歩いていった。
その背中を見送りながら、友梨佳も手を振り返す。……その瞬間。
脇腹に鋭い衝撃が走った。
「痛った……!」
陽菜が、無言で肘鉄を食らわせていた。