side友梨佳 第13話
朝靄のかかるイルネージュファーム。
視界が白く煙るなか、静寂を破るように馬の蹄音がリズムを刻んでいた。周回コースでは若駒たちが、それぞれの背に調教騎手を乗せて黙々と走り込んでいる。
その大外を、友梨佳を背にリアンデュクールがひときわ伸びやかなフォームで駆けていた。
他の馬とは明らかに違う。脚の伸び、背中の使い方、推進力——すべてが一段階、上のレベルにある。
周囲の馬たちを次々に抜き去り、その走りには迷いも力みもない。
手前の切り替えも、以前はぎこちなさが目立ったが、今は嘘のようにスムーズだ。洗練された走りに、友梨佳も思わず手綱を緩めた。
耳に装着されたインカムから、大岩の落ち着いた声が響く。
「それじゃあ、併せるぞ」
内ラチ寄りを走る、小林が騎乗した馬との併せ馬だ。リアンデュクールは3馬身後方から、じわじわと間合いを詰めていく。
コーナーを回り切ると、大岩の指示通り一杯に追う。
風を切り裂く音が大きくなる。馬体が並びかけたその瞬間——
小林の馬がわずかに進路を寄せてくる。
すると、リアンデュクールの脚がふいに止まる。ピタリと加速をやめ、まるで走るのを拒むかのようだ。
友梨佳が手綱を押し、軽く鞭も入れてみるが、反応はない。
もう一度、鞭を入れようとした瞬間、リアンデュクールの耳がピクピクと動いた。
それは彼の“我慢の限界”を告げるサインだった。
イライラしている——そう感じ取った友梨佳は、追うのをやめ、馬を流すように走らせた。無理に追えば逆効果だと悟ったからだ。
その後も、同じパターンを3回繰り返した。 結果は、すべて同じ。リアンデュクールは、馬体を併せられた途端に脚を止めてしまう。
「もういいぞ。あがれ」
再びインカムから大岩の声が聞こえ、友梨佳は静かにうなずいた。
洗い場に戻り、リアンデュクールをつなぎ、馬具を一つひとつ外していく。汗をかいた馬体はうっすらと湯気を立て、少し興奮気味に鼻を鳴らしていた。
そのとき、後ろから重い足音が近づき、大岩が声をかけてくる。
「どうだ?」
「変わんない。馬体が離れてるときはすごくいい。でも、併せられた瞬間に……ピタッと止まる」
「遊んでるつもりなのか?」
大岩は眉をひそめ、腕を組む。
友梨佳は首をかしげながらも、言葉を選びながら答えた。
「うーん……そういう軽い感じじゃない。意図的っていうか、ほんとに“走らない”って決めてるみたいな」
「追いついたら闘争心を無くすとか?」
「いや、それも違う気がする。馬体が離れてるときは、相手の心が折れるくらい突き放そうとするから」
ふたりはしばし、沈黙のまま考え込んだ。
その静けさを破ったのは、車椅子の車輪とカメラのストラップが揺れる音だった。陽菜がカメラを膝に乗せて洗い場まで来た。
「お疲れ様です。リアンの写真、撮らせてください。出資者の人たちが、近況を知りたがっていて」
「成績が悪くて怒ってねえか?」
大岩が冗談めかして言うと、陽菜はにこりと笑った。
「そんな人、いませんよ。お金目当てで出資した訳じゃないですから。みんなリアンのことが心配なんです。怪我したんじゃないかとか、体調悪いんじゃないかって」
「そうか……却って申し訳ねえな」
大岩がリアンの鼻先を撫でながら、どこか寂しそうに呟く。
陽菜がふと、表情を引き締めて友梨佳に問う。
「ねえ、友梨佳。馬って、過去のことって覚えてる?」
「覚えてるよ。インパクトのあったことは特にね。人間と同じだよ」
「過去の出来事が、トラウマになることも?」
「もちろん……。 なんで? なんか思い当たることあるの?」
陽菜はゆっくりと頷いた。
「スローガレットのこと、覚えてる?」
「もちろん。リアンの弟分だったから」
「影山先生の前で、リアンと一緒に併せて、一杯に追ったことがあったよね」
「ああ。あのとき、ガレットは靭帯損傷しちまった……。 可哀想だったけど、あれは仕方ない。この仕事をしてりゃ、よくあることだ」
大岩が呟いた。
「でも……もし、リアンがそのときのことを覚えてて、自分のせいだって思ってたら?」
「……え?」
「併せて全力で走ったら、相手が怪我をするかもしれないって。だから、あえて脚を止めてるとしたら?」
一瞬、空気が凍りつく。
友梨佳が口を開こうとしたが、言葉が出てこなかった。
その代わり、大岩が深く息を吐き、顎に手を当てて考え込む。
「……まさかとは思うが、あり得るな」
友梨佳が真剣な表情で続ける。
「もしそうなら、ただの技術的な問題じゃないよね」
「単に競争能力の問題なら、調教でどうにでもなる。だが……メンタルの問題となると、不可能とは言わんが……相当時間がかかる」
「ダービーどころじゃなくなっちゃうね」
友梨佳がぽつりと漏らす。
誰もが口をつぐみ、リアンデュクールの方へと視線を向けた。
リアンデュクールは、静かに鼻を鳴らしながら、自分の馬房の方向を見つめていた。
その眼差しは、どこか遠く、何かを想うように揺れていた。
***
相泊漁港で車を降り、弓と桐島は波の音を頼りに海岸沿いを歩いた。冷たい風が潮の香りを運んでくる。30分ほど歩いたところで、川が海に注ぎ込む場所にたどり着き、弓は立ち止まった。
周囲には民家どころか、人の気配すらない。あるのは、朽ち果てた鰊番屋がひとつ、打ち捨てられたように佇んでいるだけだった。
「ここですか?」
弓に追いついた桐島が、足を止めて声をかける。
「どうだったかしら……もっと先のような気もするし、通り過ぎた気もするし。でも、これ以上は進めないから、ここでいいわ。知床には変わりないもの」
弓はそう言って、手に持っていた花束を波打ち際にそっと置いた。
「桜じゃなくて申し訳ないけど……」
「……桜、ですか?」
「ええ。『知床の桜の下で死のう』って、4月に来たのよ。馬鹿でしょう? 北海道の桜なんて、5月じゃなきゃ咲かないのに。でも、仕方ないわよね。中学を卒業したばかりの子供だったから」
「どうして、知床だったんですか?」
桐島はタバコに火をつけながら尋ねた。
「児童養護施設で、知床のDVDを観たことがあったの。自然と動物が大好きだった真子と、いつか一緒に行こうって約束してたのよ」
「“死出の旅”で叶えたんですね」
「そうね。私は……逝けなかったけど」
波が寄せてきて、弓が置いた花束をさらっていく。花びらがばらばらになって、波の中に溶けていった。
「真子はね、知床そのものになりたがってたの。死んで朽ちて、養分になって、大自然の一部になりたいって。……あんな風に」
弓が顎をしゃくる先に、エゾシカの白骨化した頭蓋骨が転がっていた。
「二人で海に飛び込んだまではよかった。でも、私は波に打ち上げられて、漁師に助けられた。真子は……東京で荼毘に付されて、無縁仏として納骨されたわ」
弓はふうっと、長く吐息を漏らした。
「上手くいかないものね。結局、真子の望みは何一つ叶えてあげられなかった。せめて一緒に死んであげられていれば」
「でも、天野さんが生きていて、救われた人もいると思いますよ」
「……?」
「少なくとも、僕はそうです。あの日、歌舞伎町の裏路地で天野さんと出会わなければ、今ごろ僕は東京湾の魚のエサになってました」
弓はクスッと笑った。そして、海の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
「夏休みって、いいわね」
「……騎乗停止処分は夏休みとは言いませんよ」
弓は先の函館開催で、1日に斜行を4度も繰り返し、1か月間の騎乗停止処分を受けていた。
(夏休みといえば……茜が乗っていた白毛の馬。確か今は放牧に出されていたはず)
「ねえ、桐島君。イルネージュファームに行けたりする?」
「行けますけど、今からだと日が暮れますね。近くのアルテミスリゾートホテルに知り合いがいるので、部屋をとれるか聞いてみましょうか」
「そんな人がいるの?」
「経営企画室の室長なんですが……あ、もしもし富樫さん」
桐島はスマホを耳に当てて通話を始めた。弓はその間、波打ち際をひとり歩き回っていた。
ふと、胸に違和感を覚えた。息苦しさが襲い、呼吸ができなくなる。膝が崩れ、砂の上に倒れ込む。手足がこわばり、まるで自分の体でなくなったようだった。
目の前が真っ白になる。意識が遠のく。
次に見えたのは、長い白髪の少女の姿だった。
「……真子……」
弓がかすかに囁くと、少女はやさしく微笑み、右手を差し伸べた。
その手を取ろうと、弓は手を伸ばす——。
「天野さん!!」
桐島の叫び声とともに、現実に引き戻された。
弓は桐島に抱きかかえられていた。胸が大きく上下し、ようやく呼吸ができる。
だが、手足のこわばりは残っていた。
「救急車、呼びますか?」
真剣な声で桐島が問う。
「いいえ、大丈夫。ふふ……真子が、待ちきれなくなったのかしら。メコバラミンの効果もここまでみたいね」
そう言って、弓はゆっくりと起き上がった。
「ホテル、取れた?」
「……はい。1部屋だけですが」
「気にしないわ」
「僕もです。それと、富樫さんがイルネージュファームの代表、青山遥さんを紹介してくださるそうです」
「是非お願い」
「では、そのように」
桐島が再びスマホを操作するその傍らで、弓はただ静かに、知床の海を見つめていた。