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side友梨佳 第12話

 梅雨のない函館は、今日も青く澄み渡っている。洋芝のターフは、真夏の陽射しを浴びてキラキラと光を反射させていた。吹き抜ける風はひんやりと心地よく、火照った肌を優しく撫でる。

 函館競馬場のスタンドには、多くの観客が詰めかけていた。馬券を握りしめたギャンブラーたち、家族連れでレジャーを楽しむ人々――誰もが思い思いに競馬を満喫している。

 第4レースを制したのは、影山厩舎に転厩した後藤の持ち馬。その背中にいた茜は、見事に転厩初勝利を飾った。

 ウィナーズサークルで口取り式を終えた茜は、スタンドの柵越しにファンの求めるサインに応じていた。今まさに、目の前の小学生くらいの女の子のキャップに、ペンを走らせたところだ。

 次の騎乗は第6レース。リアンデュクールに跨る予定だが、まだ時間には余裕がある。そんな茜の様子を、友梨佳は検量室脇のベンチに腰掛けて見守っていた。

 サイン攻めがようやく一段落すると、茜が勝負服を脱ぎながら友梨佳のもとへ歩いてくる。友梨佳はそれを受け取ると、新しい勝負服――シュバルブランのものを手渡した。

 茜は新しい勝負服に袖を通しながら、ふっと顔を上げる。

「やっぱり、都会とは空気が違うわね。北海道に来たって感じがする」

「でも、あたしにとっては函館も結構都会の空気だよ」

「舞別は違うの?」

「うん。潮と牧草、それから馬糞の匂いがする」

「馬糞は嫌だなぁ」

 茜はアハハと声を上げて笑った。

「ねえ、舞別って、どんなところ?」

「牧場と自衛隊しかない小さな町だよ。でも、総合病院の神経内科は全国的にも有名みたい。遠くからわざわざリハビリに来る人もいるんだ。陽菜もそうだったよ。そのおかげで、出会えたんだよね」

「へぇ、そんなに有名な病院があるんだ」

「うん、それとアルテミスリゾートホテルもあるよ」

「ふーん。一度行ってみたいわね」

「えー、茜っち、どんだけあたしのこと好きなの?」

「勘違いしないでよ! 生産牧場の様子を見ておくのも騎手として大事だと思っただけ」

「だったら、早来とか安平でもいいっしょ? うちの方まで来る必要なくない?」

 友梨佳がニヤニヤしながら突っ込むと、茜は途端に目をそらした。

「う、うるさいわね! なんとなくよ!」

 そのとき、視界の隅で何かが動いた。茜が先ほどサインをした女の子が、妹らしき子とキャップを取り合っている。

 茜はスタンドのそばまで行くと、妹が被っていたつば広の帽子を指差し、優しく言った。

「それ、貸してくれる?」

 女の子は少し驚いたような顔をしたが、大人しく帽子を差し出す。茜はそこにサインを入れると、にっこり微笑んで帽子を返した。

「ありがとう!」

 二人の女の子は満面の笑みを浮かべながら、お礼を言って駆けていった。

「私ね、四人兄弟の末っ子なの。上の三人がみんな男だったから、あんな可愛らしい妹がいたらなって、ちょっと憧れる」

「確かに、茜っちって兄貴っぽいよね」

「ちょっと、どういう意味?」

「そのままの意味」

「むぅ……。ねぇ、友梨佳には兄弟いるの?」

「いないよ。一人っ子」

「そっか。妹とか欲しいと思ったことは?」

「妹はないかな。あたし、けっこう妹気質だからね。むしろ姉が欲しかったかも」

「……ふーん、そうなんだ」

「なんで?」

「べ、別に……」

 そのとき、場内に入場行進曲が流れ始めた。第5レースの出走馬たちが、次々と検量室前を歩いていく。

「さて、そろそろ控室に行ってくるわ」

「うん、リアンをよろしくね」

「任せて」

 グータッチを交わし、茜はパドックへと向かっていった。

 友梨佳はその背中を見送ると、自分も仕事に戻ろうと立ち上がった。だが、その瞬間――

「高辻さん」

 背後から声をかけられた。

 振り返ると、そこには横溝が立っていた。

(……っ)

 一瞬、胸の奥がズキンと痛む。

「あ……この前はすいませんでした」

 友梨佳は思わず頭を下げた。

「いやいや。こちらこそ、ついカッとなってしまって……。 後で家内に叱られましたよ。『いい歳して何を言っているんだ』ってね」

 横溝は、自分の頭をポンと叩きながら苦笑した。

「叱られたといえばね。あの日、トレセンから帰る直前に桜木騎手に呼び止められましてね」

「え……?」

「『仕事のミスはいくら叱責してくれて構わないが、容姿のことは謝罪してほしい』と。それができないなら、『騎乗依頼はこちらから願い下げだ』とも言われましたよ」

「……!?」

 驚きに言葉を失う。

「あなたの髪や目の色は生まれつきだったんですね。知らなかったとはいえ、申し訳なかった。本来なら、もっと早く謝るべきでした」

 横溝は深々と頭を下げた。

「あ、いえ……。大丈夫ですから……」

 自分よりずっと年上の大人からの謝罪に、どう反応していいのかわからず、おろおろする。

「また、桜木騎手には騎乗をお願いしたいと思っています」

「ほ、ほんとですか!?」

「ええ、本当ですよ」

 ふっと横溝が目を細める。

「それにしても、いい『お姉さん』をお持ちですね」

「……え?」

「私の妹分を傷つけないでくれ、と真剣な目で言われましたよ。そんなことを言ってもらえるとは、幸せなことですね」

 友梨佳の心に、じんわりと温かいものが広がった。何気ないようでいて、確かにそこにある絆の重みを感じる。

 そっと拳を握りしめると、顔を上げて馬場の方を見やった。


 集合の赤旗が振られると、茜はリアンデュクールをゲート裏へと進ませた。

 芝1800メートル。右回りの小回りコース、4つのコーナーを回る。前回のような失敗があれば致命的だ。

 出走頭数は10頭。リアンデュクールは3枠3番。これなら包まれる心配も少ない。

「今日は馬群につけよう」

 茜は方針を決め、深く息を吸い込んだ。

 ゲートが開く。

 リアンデュクールは、またもやワンテンポ遅れてのスタート。後方3番手につけたまま、1コーナーへと差し掛かる。

 茜は左肩に鞭を入れ、内側へと体重を移動した。リアンデュクールはスムーズに手前を替え、きれいにコーナーを回る。

(勝った!)

 手前さえ替えられれば、もう敵はいない。

 このまま手綱を持ったままで勝てるはず。

 リアンデュクールの滑るような柔らかい走りに、思わず鼻歌を口ずさみそうになる。

 3、4コーナーの中間点。先頭集団のペースが緩んだ。

「そろそろ行こっか」

 手綱を押して合図を送ると、リアンデュクールは馬群を縫うようにスルスルと前へ出た。

 4コーナーを回った時には、前にいるのは1頭のみ。

 茜は手綱をしごき、鞭を入れる。

 リアンデュクールの加速は桁違いだった。瞬く間に先頭馬へと並びかける。

 並ばれた騎手は、馬の闘争心を引き出そうと体を寄せてくる。

(無駄無駄)

 茜は突き放すためにもう一度鞭を入れた。

 ――だが、リアンデュクールは応えない。

「え……?」

 手綱をしごき、繰り返し促す。それでも反応はない。

 茜の背筋に冷たいものが走る。

 後続の馬の足音が迫る。

 茜が焦りを感じつつ再び鞭を入れた瞬間、リアンデュクールの耳がキョロキョロと動き――

 突然、急激に内側へとよれた。

「っ……!!」

 茜の右足首が柵にぶつかる。

「桜木!  斜行だぞ、ふざけんな!」

 進路を妨害された騎手から怒声が飛ぶ。

 リアンデュクールは失速し、次々と後続馬に抜かれていく。

 必死に体勢を立て直すが、ゴールした時には8着だった。

 呆然とする茜。

 何が起きたのか、まったく理解できなかった。

 気がつくと、他の馬はすでに引き上げていた。

「……帰らなきゃ」

 リアンデュクールを歩かせると、スタンドから罵声が飛んでくる。

 検量室の前には亮太と友梨佳の姿があった。

「茜っち、大丈夫?」

 申し訳なさで目を合わせられない。

「……ごめん」

 絞り出すように呟くのが精一杯だった。

 リアンデュクールから降り、右足を地面についた瞬間――

「っ……!!」

 激痛が走り、その場に倒れ込む。

「茜っち!?  誰か!」

 友梨佳が呼ぶより早く、係員が担架を持って駆けつける。

 友梨佳は慌てて茜のヘルメットを外し、勝負服の首元を緩めた。

 茜の顔色は蒼白。脂汗で濡れ、息も荒い。

 彼女の足首が折れていることは、一目瞭然だった。


 函館駒場中央病院の病室の窓から、茜はベッドに横たわったまま外を眺めていた。窓の向こうには、函館競馬場の直線コースが広がっている。

 昨日のレースが脳裏に蘇る。リアンデュクールは、スタートを除けば完璧だった。手前の替えもスムーズだった。しかし――。

 先頭に並んだ瞬間、リアンは走るのをやめた。

 ソラ(遊び癖)を使ったわけでもない。むしろ、後方に控えているときは前の馬を抜こうとするのに、いざ先頭に並ぶと、その勢いがふっと消える。

 なぜ?

 考えれば考えるほど分からなくなる。

 茜が小さくため息をついたとき、病室のドアが開いた。

「茜っち、大丈夫?」

 友梨佳が明るい声で言いながら、ベッドサイドの椅子に腰を下ろす。

「痛む?」

「鎮痛剤を打ってるから大丈夫。でも、全治3か月だってさ。復帰は秋かな」

「そっか……」

「リアンは?」

「うん、全然平気。あのあと、飼い葉もぺろっと食べちゃったくらい」

「そう……。なら、よかった」

 茜は安心したように微笑んだ。

「テキがね、リアンを放牧に出して立て直すって。明日、函館から舞別に運ぶの。美浦に戻るのは10月くらいかな」

「……うん。賢明な判断だと思う」

 茜は静かに頷く。

「昨日のレースの敗因は、正直、私にもよく分からない。でも、もし精神的なものだとしたら、放牧に出すことで何か変わるかもしれないから。友梨佳、リアンを頼むね」

「……え?」

「帰るんでしょ? リアンと一緒に」

「……」

「向こうで調教に関わりたいんでしょ?」

「……分かってたの?」

 友梨佳の目が驚きに見開かれる。

「3か月も一緒に働いてれば、それくらい分かるわよ。今までありがとう。よく頑張ったわね」

「……茜っち」

 友梨佳はぎゅっと拳を握りしめた。

「あたしの代わりは、茜っちが復帰するまでに見つけておくから」

「いいよ、そんなこと気にしなくて」

「え?」

「バレットをつけるつもりはないから」

「……?」

「私のバレットは、友梨佳以外に考えられない」

「え……」

「だから、気が向いたらいつでも戻ってきなさい」

 その瞬間、彼女は勢いよく茜に抱きついた。

「……ありがとう、お姉ちゃん」

 一瞬、茜の身体が強張る。しかし、すぐにそっと友梨佳の背中に手を回した。

「……あんたみたいな妹を持つと、苦労するわ」

 友梨佳がくすっと笑う。

 2人は、いつまでも抱き合っていた。

 病室の窓の外、函館競馬場の直線コースが夕陽に染まり始めていた。


 友梨佳は馬運車の後部座席の窓から顔を少し出し、新冠川の河川敷を眺めた。

 7月の乾いた風が、ポニーテールにした髪をそっと揺らす。

「たった三ヶ月なのに、ずいぶん久しぶりな感じ……」

 友梨佳がリアンデュクールと共に舞別を発ったときは、まだ所々に雪が残っていた。しかし今は、木々はすっかり緑に覆われ、新冠川の河川敷には色とりどりの花が咲き乱れていた。

「それだけ、経験を積んだってことだな。久しぶりに会ったら、見違えたよ」

 運転席でハンドルを握る根本が、バックミラー越しに友梨佳を見ながら言った。

「綺麗になった?」

「へへ、そういうところは変わらねぇな。大人になったって言うんだろうな。人として成長したよ」

「そっか……よかった」

 友梨佳は小さく微笑みながら、再び窓の外へ視線を戻した。

 馬運車がイルネージュファームの厩舎前にゆっくりと停まる。

 根本が後部扉を開けると、友梨佳に曳かれてリアンデュクールが静かに降りてきた。

「友梨佳ちゃん、お帰り!」

 真っ先に駆け寄ってきたのは加耶だった。

「友梨佳、お疲れ!」

 小林がすかさず引綱を受け取る。

「お疲れ様、友梨佳。よく頑張ったわね」

 遥が穏やかな笑みを浮かべながら歩み寄る。

「うん、ありがとう……おじいちゃんは?」

「いま、陽菜が車で迎えに行ってるわ。……ほら、来たわよ」

 泰造を乗せた車が、ゆっくりとイルネージュファームに入ってくる。

 車が止まると、後部座席から泰造が杖を突きながら降りてきた。

 三ヶ月ぶりに見る泰造の姿に、友梨佳はふと、少し小さくなったような気がした。

 泰造はゆっくりと近づき、何度も頷きながら友梨佳の肩を叩いた。

「よく帰ってきた」

 その声はどこか優しく、力強かった。

 次の瞬間、泰造は友梨佳の頭をくしゃくしゃと撫でた。

「えへへ……」

 友梨佳は自然と顔をほころばせた。

「友梨佳、俺はもう帰るけど、最後に一緒に写真撮ってくれねぇか? 娘に自慢するんだ。なんたって、美しすぎるバレットで有名だからな!」

「オッケー、いいよ!」

 根本は笑いながら友梨佳と並び、自撮りをすると、そのまま馬運車に乗り込んだ。

「じゃあ、またな!」

 エンジン音が静かに響き、馬運車はイルネージュファームを後にする。

 リアンデュクールの周りでは、大岩と小林、そして泰造が馬体の様子をつぶさに観察していた。

「ねえ、陽菜は?」

 友梨佳が辺りを見回すと、車の中で車椅子を降ろそうと悪戦苦闘している陽菜の姿が目に入った。どうやら車椅子の車輪が座席に引っかかっているらしい。

 友梨佳はため息をつきながら助手席のドアを開け、車椅子を外へ引き出した。そして運転席側に回り、しっかりと設置する。

「ありがとう。あ、お帰りなさい、友梨佳」

「まったく……本来なら陽菜が真っ先に来るべきなんじゃない?」

「だって、しょうがないじゃない。車椅子が引っかかっちゃったんだもん。それに、先月会ったばかりだし、そんなに慌てなくてもいいでしょ?」

 そう言いながら、陽菜は自分の首筋をトントンと叩く。

 友梨佳は、はっとして顔を赤くし、慌てて手で薄く残っているキスマークを覆った。

「さあ、久しぶりに全員そろったんだから、今日は友梨佳の慰労会にしましょう!」

 遥が手をパンパンと叩きながら声を上げる。

 皆が歓声を上げながら事務所へと入っていく。

 風に乗って、潮と牧草と馬糞の匂いが運ばれてくる。

(ああ……帰ってきたんだなあ……)

 友梨佳は胸の奥にじんわりと広がる温かさを感じながら、皆の後を追って歩き出した。


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