side友梨佳 第10話
6月、日本ダービーの翌週、東京競馬場には朝から小雨が降ったりやんだりしていた。陽は出ていないものの蒸し暑く、湿った空気が身体にまとわりついてくる。
地下にある検量室は空調が効いているはずだったが、パドックや馬場に通じる通路からは生温かい風が流れ込み、そこに騎手やバレットたちの熱気が加わっていた。空間はじっとりと重く、肌にまとわりつく。
リアンデュクールのための鞍を抱えた友梨佳は、額にじっと汗を浮かべながら立っていた。
そこへ、シュバルブランの勝負服を身にまとった茜が検量室に入ってきた。白地に緑の山形一本輪、青い袖――雪と空と大地を象徴する勝負服。山形は日高山脈をイメージしたものだと遥が話していた。決して派手ではないが、友梨佳はこのデザインを気に入っていた。
鞍を茜に手渡すと、茜は係員の前に進み、体重計に乗った。
「52キロ、丁度です」
係員が告げる。茜は頷くと、受け取った10番のゼッケンを手に友梨佳の方へ向き直った。
言葉は交わさずとも、互いの気持ちは分かっている。茜が右の拳を突き出すと、友梨佳も迷わず拳を合わせた。
静かな決意を交わした瞬間、茜は軽やかに装鞍所へと向かっていった。
もう、レースが終わるまで友梨佳にできることはない。
友梨佳は近くの椅子に腰を下ろすと、尻のポケットから折りたたまれたレーシングプログラムを取り出し、静かに広げた。
第5競走 メイクデビュー東京 芝1600m 5枠10番 リアンデュクール
友梨佳の指先が、その文字をそっとなぞる。
高辻牧場の生産馬の新馬戦は何度も見届けてきた。けれど、泰造の想いが詰まったリアンデュクールだけは特別だった。
(どうか無事に戻ってきますように)
友梨佳は胸の奥で静かに祈った。
「友梨佳ちゃん、新馬戦まで少し時間あるでしょ。今のうちにお昼食べよ?」
バレット仲間の女の子3人が声をかけてきた。
「うん、行く」
友梨佳は穏やかに微笑み、立ち上がった。4人は連れ立って検量室前を離れていった。
一方、地下馬道を見下ろせるホースプレビューのガラス前では、小田川が陽菜に声をかけていた。
「行かなくてよかったの? 馬主関係者なら検量室前にも行けるでしょう?」
陽菜は車椅子をゆっくりとUターンさせながら、小田川の顔を見上げた。
「友梨佳にはバレットとして大切な仕事がありますから。それを優先してほしいんです。レースが終わったら、また会えますから」
「そりゃそうだけど……」
「本当は検量室のモニターで一緒に見ようかとも思っていたんです。でも、バレットとして働く友梨佳の姿が格好良くて。邪魔しないでおこうって思ったんです」
陽菜の声には、静かな尊敬がにじんでいた。
「もちろん、リアンが勝ったら駆けつけますよ!」
「そう。それならいいんだけど」
小田川は頷きながらも、口元に薄く笑みを浮かべた。
「小田川さんこそ、口取り式の抽選に申し込まなくてよかったんですか? 当たってたかもしれませんよ」
「新馬戦の口取り式なんて興味ないわ。私が狙うのは日本ダービーだけよ」
その言葉に込められた自信は揺るぎない。
「余裕ですね」
陽菜が笑うと、小田川は肩をすくめた。
「馬主を何年やってると思ってるの? さ、席に行くわよ。暑くてメイクが崩れるわ」
「ですね」
そう言って、ふたりは並んで馬主受付へと向かっていった。
その途中、ふとパドックに目を向けると、新馬戦に出場する16頭の馬たちが次々と姿を現した。
リアンデュクールの透き通るような白い馬体に、観客席からどよめきにも似た歓声が湧き起こる。
電光掲示板に映し出されたリアンデュクールの単勝オッズは、1.1倍。
期待と興奮が入り混じる空気の中、リアンデュクールは静かに首を振りながら歩を進める。まだレースは始まっていないのに、彼の存在感はすでに群を抜いていた。
ゲートが開くと、リアンデュクールは他の馬よりワンテンポ遅れて飛び出した。
観客のどよめきが検量室まで響いてくる。
友梨佳の両脇で手を握っていたバレット仲間の女の子たちが、揃って友梨佳を見上げる。
「これくらい大丈夫」
友梨佳は努めて冷静に言った。
むしろ、今日は良い方だ。
リアンデュクールは軽やかに他の馬を追走する。
前へ行きたがらないように、茜は巧みに馬群の中へと入れ、前方に壁を作る。
茜らしい、セオリー通りの騎乗だった。
前半800メートルを平均ペースで駆け抜け、3コーナーを回る。
茜はリアンデュクールを馬群から外へ持ち出した。
待ち切れないとばかりに、リアンデュクールは勢いよく先頭を追い上げる。
茜が手綱を動かさずとも、馬は自らの力で先頭集団に並びかける。
「よし、勝った」
バレット仲間が確信めいた声を漏らした。
「あの子、ひょっとして……」
検量室前のモニターに映るリアンデュクールを見て、友梨佳がポツリと呟いた。
4コーナー手前、リアンデュクールが一気に加速して先頭に並ぶ。
――その瞬間だった。
リアンデュクールの体が大きく外に膨らむ。
茜が必死に右鞭を入れるが、馬は言うことを聞かない。
「やっぱり、手前を変えてない」
友梨佳が思わず口にした。
リアンデュクールは強烈な遠心力に抗えず、コースの外側へと流れていく。
外ラチと、それを見つめる観客の驚愕の表情が茜の視界に入った。
茜は手綱を力いっぱい引き、なんとか速度を落とす。
だが、気づけば他の馬たちは遥か左前方。勝負は絶望的だった。
「リアンが飛んだぞ!」
勝ち目はないと思っていた騎手たちが色めき立ち、次々と鞭を入れる。
「くそ! こんなところで!」
茜は悔しさを噛みしめながら手綱をしごき、鞭を振り下ろした。
次の瞬間、リアンデュクールの身体が沈み込み、爆発的な加速を見せる。
茜の上半身が一瞬浮き上がるほどだった。
もう、こうなったら追うしかない。
茜は開き直り、無心で手綱をしごき続けた。
他馬の存在など気にも留めず、ただひたすら前を目指す。
風を切る音が、背後に遠ざかっていく。
リアンデュクールは驚異的な勢いで直線を駆け抜ける。
観客席からどよめきが起こった。
ゴール。
はるか左を走っていた馬の騎手と視線が交錯する。
どんなに接戦でも、どんなに馬体が離れていても、騎手同士なら勝ち負けは一瞬で分かる。
――リアンデュクールは負けた。
頭差届かなかった。
勝てるレースで勝てなかった。この代償は高くつくかもしれない。
1コーナーから2コーナーへ向かうスローダウンの中、茜はうなだれた。
悔しさと無力感が茜の胸を締めつけた。
スタンドにどよめきが残るなか、次々と馬たちが引き上げてきた。
検量室前の枠場には、着順通りに馬が並べられていく。
リアンデュクールを2番枠に停めた茜の表情は、悔しさとも落胆ともつかない。唇を噛みしめ、無言のままゼッケンと鞭を友梨佳に預けると、鞍を抱えて検量室へと向かった。
友梨佳は、彼女にかける言葉が見つからなかった。
「……これも競馬だ。しょうがねえよ」
枠場でリアンデュクールの引き綱をつけながら、亮太が静かに言う。
一方、隣の1番枠に戻ってきた騎手は満面の笑みを浮かべ、出迎えた馬主関係者と固く握手を交わしていた。
「ナイス騎乗でした!」
「いやあ、奇跡っしょ。もってますよ、こいつ」
勝ち馬の馬主は、昨日、京都競馬場の新馬戦で天野弓を背にレコード勝ちしたロイヤルストライドと同じグランエターナルレーシングだ。まさに最高のスタートといえるだろう。
(リアンだって……)
勝てるはずのレースだったからこそ、悔しさが込み上げる。だが、課題は明確だ。手前さえスムーズに変えられれば、リアンデュクールのスピード能力は十分に通用する。それは、最後の直線で証明された。
(次こそは――)
友梨佳が気持ちを切り替え、検量室へ向かおうとしたときだった。視界の隅に、首を下げ、おぼつかない足取りで戻ってくる馬の姿が入る。
――発汗が異常だ。
友梨佳はとっさに水場へ駆け寄り、バレット仲間に叫んだ。
「バケツに水を入れて持ってきて!」
バケツに水を汲みながら、仲間再度叫ぶ。
「馬が倒れそう――!」
馬が検量室前にたどり着くと同時に、騎手が飛び降りた。その直後、馬は力尽きたように地面に崩れ落ちる。
「どいて!」
友梨佳は騒然とする人ごみをかき分け、騎手ごと馬に勢いよく水をかけた。
「おい、君、何を……」
係員が制止しようとしたが、その言葉が終わる前に、バレットの女性が水の入ったバケツを友梨佳に渡す。友梨佳はさらに馬の体に水をかけた。
すると――馬が小さく息をつき、緩慢だった動きに生気が戻る。そして、よろめきながらも、ゆっくりと立ち上がった。
「ちょっと、友梨佳。何やってるの!?」
騒ぎを聞きつけた茜が駆け寄ってくる。
「いやあ、素早い対応で助かったよ! 君はこいつの命の恩人だ!」
厩務員が友梨佳の肩を叩き、感謝を伝えると、馬を獣医のもとへ連れて行った。
友梨佳は汗をシャツの袖で拭いながら答える。
「……馬が熱中症になってたから、水をかけたの」
「それはいい判断だったと思うけど……あれは?」
茜が顎で示した先には、ずぶ濡れの騎手――天野弓が立っていた。
友梨佳は、その場でじっと動かない弓の姿を見て、思わず顔を歪めた。
「……あの人、天野騎手だよね? 怒ってるかな……?」
「分かんないわよ。一緒に行ってあげるから、とりあえず謝りなさい」
友梨佳はおずおずと弓のもとへ歩み寄る。
「……そんなに苦しかったなら、私を振り落とせばよかったのに……」
独り言のようにつぶやく弓に、友梨佳は恐る恐る声をかけた。
「あ、あの……さっきは水をかけちゃって、ごめんなさい」
「『かけてしまい申し訳ありません』でしょ」
茜が後ろから小声で指摘する。
「……かけちゃってしまい、申し訳ありません」
言い直した友梨佳を見て、茜は思わず額に手を当てた。
弓はちらりと友梨佳を見る。
「……真子?」
「……え?」
弓はハッとして、濡れたヘルメットを脱ぐと、セミロングの黒髪を指でかき上げた。
「ああ、これ? いいのよ。ボーッと立ってた私が悪いんだから」
「天野さん、本当にすみません。いくら緊急事態だったとはいえ……」
茜も横に並び、改めて頭を下げる。
「気にしないで。暑かったから、ちょうどよかったわ」
弓は目を細めると、友梨佳をじっと見つめた。
「この子、茜のバレット?」
「はい、そうです」
茜は肘で友梨佳を小突く。
「あ、高辻友梨佳……です」
「そう。これだけ馬のプロが集まってる中で、あなたがいち早く適切な行動を取れたのは素晴らしいわ。それに……」
弓は一歩近づくと、友梨佳のスマートグラスに手をかける。
切れ長の目が射抜くようにこちらを見つめ、友梨佳は動けなくなった。
そっとグラスを外し、弓は友梨佳の青い瞳を見つめる。
「……とても綺麗」
「あ、あの……」
思わず口ごもる友梨佳の前に、茜が素早く割って入った。
「お話は以上です。この件は、私から厳しく言っておきますので。天野さん、次の騎乗があるんじゃないですか?」
「ああ、そうだったわね」
弓は友梨佳の手にスマートグラスを戻し、指先でそっと触れるように添えた。
「友梨佳ちゃん。あなた、気に入ったわ。また会いましょう」
ニコリと微笑み、弓は検量室へと消えていく。
「……やっぱり、あの人苦手。友梨佳も何ボーッと突っ立ってるのよ」
茜は腕を組み、ぶつぶつと言った。
「ごめん……なんでか、動けなかった……」
友梨佳は手の中のスマートグラスをじっと見つめ、そっと息を吐いた。