Side陽菜 第3話
「お待たせいたしました。シュバルブラン事務局、主取でございます」
イルネージュファームの事務室内。陽菜はデスクで電話対応をしていた。
クラブ法人シュバルブランは、イルネージュファームを母体として二年前に設立された小さな法人である。社員もファームと兼務のため、事務局はイルネージュファームの事務室内に置かれていた。陽菜は主にシュバルブランの事務を担当している。
「二歳馬ですと、現在五頭の募集枠がございます。出資金額は二十万円から三十五万円です。その他の費用としましては、入会金三万円、会費は月額三千円、預託料の分担金が一口五千円となっております。はい、それでは資料をお送りいたします。よろしくお願いいたします。失礼いたします」
受話器を置いた陽菜は、すぐに宛名ラベルを印刷し、パンフレットを入れた封筒に貼り付けた。素早い対応は、仕事を効率よく進めるコツだと高柳に教えられていた。
高柳はトシリベツ教会の牧師だが、元は企業弁護士である。四年前、イルネージュファーム、高辻牧場、アルテミスリゾートの業務提携に陽菜とともに尽力した。現在は東京で保護司として活動しているが、シュバルブランの法務アドバイザーも務めている。一口馬主法人とはいえ、法律上は商品ファンドを扱う第二種金融商品取引業者であり、金融庁の監査や指導を受けるため、金融法務に強い高柳は適任だった。
今日の午後も、高柳からWebで金融商品取引法に基づく勧誘活動のレクチャーを受ける予定だ。
「おはようございます!」
イルネージュファームの従業員、加耶が二歳になる息子・大樹の手を引いて事務所に入ってきた。
「あ、陽菜ちゃん。友梨佳ちゃん、来てる?」
「友梨佳なら今日は高辻牧場ですよ」
友梨佳はイルネージュファームの社員ではないが、求めに応じて育成馬の馴致に来ている。
「そっかぁ。大樹を見てもらおうと思ったんだけどな⋯⋯。 旦那が急に訓練に呼ばれちゃってさ」
「自衛隊も大変ですね」
「ユーカたん、いないの?」
大樹が加耶の袖を引っ張る。
「友梨佳ちゃん、お仕事だって」
「良かったら私が見ていましょうか?」
明らかにがっかりした表情の大樹を見かねて陽菜が申し出ると、大樹はじっと陽菜を見たまま固まった。あと10センチでも近づいたら泣き出しそうな気配だ。
大樹は極度の人見知りで、他人にはなかなか懐かない。しかし、なぜか友梨佳には懐いていた。
「しょうがない、高辻牧場に預けてくる。代表に少し遅れるって伝えておいて」
「それなら私も一緒に行きます。高辻牧場に用があるので」
陽菜が椅子にかけた上着を取ると、大樹はサッと加耶の後ろに隠れた。
加耶の運転する車から降りると、四月の緩んだ風が陽菜の頬をなでた。
駐車場の前にはカフェテリア兼売店のログハウスがあり、その隣には観光用の放牧地が広がっている。アルテミスリゾートの宿泊プランを利用すると、割引料金で乗馬体験ができるため、宿泊客に人気のスポットだった。
加耶がチャイルドシートから大樹を降ろしたとき、スノーベルに乗った友梨佳が観光客を乗せた二頭の馬を先導しながら戻ってきた。
観光客が満足そうにログハウスへ入るのを見届けると、友梨佳は陽菜たちのもとへ小走りで駆け寄った。
「どうしたの? みんな揃って。あー、大ちゃんもいるー!」
友梨佳がしゃがんで両手を広げると、大樹はぱっと表情を明るくし、友梨佳の胸に飛び込んだ。
別に子供に好かれたいわけではないが、ここまで露骨に態度が違うと、陽菜も少しショックを受ける。
「陽菜ちゃん、気にしないの。大樹はうちのおじいちゃんを見ても泣くくらい人見知りなんだから。友梨佳ちゃんが特殊なだけ」
加耶が陽菜の肩をぽんぽんと叩いた。
「そうですね」
少し羨ましくもあるが、友梨佳は誰とでもすぐに仲良くなれる。陽菜は素直に尊敬していた。彼女の裏表のない自由な心が、周囲の人を引きつけるのだろう。
「それで、今日はどうしたの?」
友梨佳が大樹を抱っこしながら尋ねる。
「旦那が急な訓練で大樹を見られなくなって。友梨佳ちゃん、悪いけど預かってくれない?」
「別にいいよ。今日はもう売店に詰めてるだけだから」
「ありがとー! 助かる! 馬を馬房に入れておいてあげる」
加耶は観光客が乗っていた馬二頭を厩舎へ連れて行った。
「ねえ、陽菜。いいもの見せてあげる」
友梨佳は大樹を降ろしながら言った。
「いいものって?」
「まあ見ててよ」
友梨佳はスノーベルの前足をポンポンと叩く。
「スノー、おすわり」
友梨佳が命令するとスノーベルは両足を押し曲げて腹ばいになる。
「すごい! いつの間に?」
「観光客相手に披露できるかなって、時間見つけて教えてたんだ。スノーは結構頭がいいからすぐに覚えたよ」
友梨佳はスノーベルの頭をなでる。大樹もつられて頭をなでた。
スノーベルは嫌な顔一つせずにされるがままに座っていた。
ログハウスの中は、右手に売店、左手にカフェテリアがある。カフェテリアはアルテミスリゾートが運営し、売店では高辻牧場やイルネージュファームのオリジナルグッズ、地域の特産品を販売していた。
売店の店員はアルバイトやパートでまかない、友梨佳は観光乗馬のインストラクターや厩舎作業を受け持っているが、今日は観光乗馬の予約が午前中に1件のみのため自分も手伝いに入っている。
ちなみに厩舎作業もイルネージュファームからの出向やアルバイトを雇っている。特に日高農業高校馬術部の生徒からは競走馬の生産の仕事に関われてお金がもらえると評判で、馬術部の生徒が交代でシフトに入っている。
陽菜は売店の在庫や売上管理の手伝いのために時々高辻牧場を訪れていた。
観光シーズンから外れた平日の客足はまばらで、たまに来る観光客の接客を友梨佳がしている。
陽菜は帳簿と在庫を照らし合わせながら、売店の窓から放牧地を眺めた。
先月生まれた五頭の仔馬が母親のそばで駆け回っている。白い馬体がひときわ目立つスノーキャロルの仔⋯⋯友梨佳が「マシュマロ」と呼んでいる馬が、一番体が大きく、足も速そうに見えた。
四年前、陽菜と友梨佳は、この放牧地に面した小道で出会った。
あの日の陽射しに照らされたスノーベルと友梨佳の姿を思い出すたび、胸がとくんと高鳴る。
「陽菜! 大ちゃんがウンコしちゃったみたいだからオムツ替えてくる! お客さん来たらレジよろしく!」
変わらないな⋯⋯。陽菜は苦笑しながら、バックヤードへ向かう友梨佳を見送った。
在庫のチェックを終え、陽菜がそろそろイルネージュファームに戻ろうとしていたとき、ログハウスの扉が開いた。パンツスーツ姿の遥が入ってくる。
「ふたりともいたのね。大樹君もいるじゃない」
遥が大樹に手を振ると、大樹はすぐさま友梨佳の足の後ろに隠れた。遥は軽く微笑むと、
「ちょうどよかった。お客さんもいないし、カフェテリアでお茶にしましょう」
二人の返事を待たずにカフェテリアへと向かった。
放牧地が一望できる窓際のテーブルに向かい合わせに座る。大樹は友梨佳の膝の上で、小さく寝息を立てていた。
「マシュマロの様子はどう?」
遥は運ばれてきたコーヒーを口にしながら尋ねる。
「元気だよ。全体のバランスもいいし、トモの長さもありそう。もう少し成長を見ないとわからないけど、背中からお尻にかけてのラインはノルデンシュバルツに似てるかも」
"走る馬は父親に似ることが多い" という泰造の言葉を思い出し、陽菜の胸が躍った。しかし、友梨佳の「ただ……」という言葉に期待は一瞬で冷める。
「ただ?」
遥が尋ねた瞬間、放牧地から激しいいななきが響いた。
マシュマロが他の仔馬を追い回し、逃げ遅れた仔馬に体当たりしている。驚いた母馬がマシュマロを追い払おうとするが、マシュマロは後ろ脚で立ち上がり威嚇した。群れはパニック状態になっていた。
「ヤバ! ちょっと行ってくる!」
友梨佳は大樹を遥に預け、ログハウスから駆け出す。騒ぎに気づいたバイトスタッフも駆けつけた。
「父親の血統が強く出ちゃったか……」
遥は大樹を抱きかかえながら、友梨佳たちが必死に馬たちをなだめる様子を見つめ、つぶやいた。
「マシュマロのお父さんって、そんなに気性が荒かったんですか?」
「ノルデンシュバルツ自体はそこまででもなかったわ。でも、その父、つまりマシュマロの祖父のサンデーサイレンスは気性難で有名だったの。飛んだり跳ねたり、噛みついたりと厩務員泣かせだったって話よ」
サンデーサイレンス。その名は血統に詳しくない陽菜でも知っていた。日本の競馬界を一変させた大種牡馬である。
「さらに、サンデーサイレンスの父のヘイローはとんでもなく荒っぽくてね。厩務員を振り回して叩きつけたとか、鳥を捕まえて水桶に沈めたとか、猫を殺そうとしたとか……。 逸話には事欠かないわ。そのまた父のヘイルトゥリーズンも仔馬の頃から誰彼構わず喧嘩を吹っかけて、生傷が絶えなかったらしいし」
「筋金入りじゃないですか……」
陽菜は頭がくらくらしてきた。レースでまともに走ってくれるのだろうか。
「その気性を中和するためにアウトブリードしたんだけど、そううまくはいかないわね。気性難と闘争心は紙一重だから、あとはうちの牧場でしっかり矯正していきましょう」
「えっ、ということは……?」
「さっき泰造さんと話をつけてきた。シュバルブランがマシュマロを買ったわ。1億で募集をかける」
「一口100万ですか……」
クラブ法人によっては1000口以上で募集するところもある。それなら出資しやすいが、賞金の配当は少なくなり、口取り式や馬名命名の倍率も上がる。
シュバルブランでは、馬主としての醍醐味を味わえるように1頭100口の募集制を採用していた。シュバルブランの平均の一口あたりの出資額は40万円程度だが、それでも満口になったことはない。ましてや、マシュマロは桁が違う。設立間もないクラブ法人で、まだ活躍馬もいない状況で出資が集まるのか──。
「マシュマロ、いくらで買ったんですか?」
「6000万よ」
牡馬の場合、種付け料の3倍が相場だという。ノルデンシュバルツの種付け料は2000万円。つまり6000万円は妥当な価格だ。しかし、一口100万円で60口以上集めないと赤字になる。一口40万円の馬でも満口にならないのに、なぜこんなに利益をのせたのか。
「大丈夫。他の募集馬の利益が出るから、マシュマロに出資が集まらなくても大赤字にはならないわ」
遥は陽菜の不安を見透かしたように言った。
それでも、"他の募集馬に出資が集まれば" の話だ。陽菜の胸に動悸が広がる。
「陽菜の心配はわかる。私だって、ようやく軌道に乗り始めたところで無謀な賭けはしたくない。でも、これは泰造さんのたっての願いなの。『うちで買ってほしい』って」
「シュバルブランで、ですか?」
「マシュマロをセリに出せば、1億は下らない。流れ次第では2億に届くかもしれない。それを相場で譲ってくれた。なぜかわかる?」
「マシュマロを他人に渡さないため……?」
「そう。マシュマロをうちで繋養すれば、将来的にその仔を募集できる。間違いなく満口になるでしょうね。それに、マシュマロを見学に来る観光客がアルテミスリゾートや高辻牧場にも流れる。マシュマロの種を求めて、多くの人と馬とお金が地域全体に集まる。泰造さんの夢は、ただ強い馬を作りたいっていう個人的なことだけじゃない。この地域全体を活性化させることよ」
遥は放牧地を見つめた。友梨佳たちの尽力で、馬たちは落ち着きを取り戻している。
「もちろん、これはマシュマロが最低でもG1をひとつは勝つことが前提。でも、マシュマロは泰造さんが培ってきた知識と経験の結晶よ。その夢に乗っかる価値はあると思わない?」
遥はいたずらっぽく笑った。
そこまで言われたら、陽菜には何も言い返せない。マシュマロの調教は友梨佳や専門家に任せ、自分は営業を頑張ろう。
でも、と陽菜は考える。
今年のボーナスは、あてにしないほうがいいかもしれない……心の隅でそう思った。