side友梨佳 第9話
雨が降り続けるなか、友梨佳はずぶ濡れになりながら影山厩舎に戻って来た。途中、いくつかの厩舎に立ち寄り、馬主に茜への騎乗依頼を頼んだものの、色よい返事はひとつももらえなかった。
事務所の扉を開けようとしたその瞬間、中から影山の謝罪の声が聞こえてきた。
「申し訳ありません。このようなことがないように本人には伝えておきますので……はい、失礼いたします」
「友梨佳の件ですか?」
茜が、またかというような口調で尋ねる。
「ああ。沖村先生からだ。友梨佳が沖村厩舎と懇意にしている馬主に騎乗依頼を頼み込んで、困っているって苦情だよ」
「降ろされた分、新規の依頼を持ってこいって言ったせいです。すみません」
茜は申し訳なさそうに頭を下げる。
「しょうがねえさ。で、どうするんだ? 辞めさせるか?」
「うーん……」
扉の向こう側で二人のやり取りを聞いていた友梨佳は、ドアノブにかけた手をそっと下ろすと、無言のままその場を離れた。
「もう少しやらせてあげてください。このまま辞めさせたら、失敗した記憶しか残らなくなってしまいます。せめて、何か一つでも成功体験を積ませないと、ここに残った意味がありません。責任は私が負いますので」
茜は力強く影山に言った。
「雇い主はお前だ。好きにするといいさ。俺も苦情の電話対応くらい、なんてことはない」
「ありがとうございます」
「しかし、何だな。妹が欲しかったって前に言っていただけあって、良いお姉ちゃんやってるじゃないか」
影山はからかうように笑う。
「あ、あんな奴。妹みたいだなんて思ったことありません! 成果を上げてくれないと、私の商売があがったりになりますから。それじゃ、友梨佳が戻ってきてないか様子を見てきます」
そう言うと、茜は事務所を出て、雨の降りしきるなか馬房の前まで足を運んだ。
そこで、馬房の軒先にしゃがみ込んでいる友梨佳を見つけた。
「友梨佳……」
声をかけようとしたそのとき、彼女がスマホに向かって呟いているのが耳に入った。
「陽菜、あたし髪の毛切って黒く染める……そうしないと、もう……」
『友梨佳。どうしたの? 順に話してみて』
画面の向こうの陽菜は、穏やかな声で優しく語りかける。
友梨佳はバレット兼マネージャーになってからのことをすべて話した。マネージャー業が失敗続きであること、ダブルブッキングで騎乗依頼を失ったこと、茜から新規の依頼を取ってくるよう言われたが上手くいかなかったこと。そして、馬主から髪の色について言われたこと。
「もう、どうしていいのかわかんない。もうやだ……日高に帰りたい……。 あたしにはもう無理だよ……」
ついに堪えていた涙が溢れ出し、友梨佳は声を上げて泣いた。
「陽菜に会いたいよ……おじいちゃんに会いたいよ……」
スマホの画面に涙が落ち、陽菜の顔を濡らした。画面の向こうの陽菜は、変わらぬ優しい眼差しで友梨佳を見つめている。
茜は、友梨佳から見えないように馬房の壁に背中を預け、彼女の泣き声に静かに耳を傾けた。
やがて友梨佳は、鼻をすすりながら涙を拭った。そんな彼女に、陽菜が柔らかな声で語りかける。
「友梨佳、帰っておいでよ。最初の約束はちゃんと果たしたんだもん。誰も文句は言わないよ」
その言葉に、茜はハッとして友梨佳の表情を窺った。
友梨佳は黙ったまま涙を拭く。
「……帰らない。迷惑をかけたまま帰ったら、ずっとそれを引きずることになるから……」
「じゃあ、頑張ってみる?」
友梨佳は鼻をすすりながら、小さく頷いた。
「そう。友梨佳、私ね、まだ仕事で忙しくて電話していられないの」
「え!?」
優しい言葉を期待していた友梨佳は、驚いて声を上げた。
「だから、これから私が言うことを全部やったら、もう一度電話して」
「うん」
「まず髪の毛を拭いて着替えたら、厩務員食堂に行って豚の生姜焼きの大盛りを食べて。その後、トレーニングルームでエアロバイクを30分こいだら、厩舎に戻って熱めのシャワーを浴びるの」
「うん」
「最後にホットミルクを作って部屋に戻ったら電話して」
「うん。わかった」
「じゃあ、待ってるね」
陽菜が通話を切ると、友梨佳は立ち上がり、涙をもう一度拭った。そして、決心がついたかのように、急ぎ足で茜の方に向かって歩き出した。
慌てた茜は馬房の中に隠れる。友梨佳が厩舎の2階に上がっていくのを見届けると、茜は小さく息をついた。
「陽菜さん、さすがね。さて、私にできることをしときますか」
そう呟きながら、茜は傘をさして雨の中を歩き出した。
***
ホットミルクを作って部屋に戻った時、友梨佳は心地よい疲労感に包まれ、ぐちゃぐちゃだった頭の中が少しずつクリアになっていくのを感じた。
机に座り、ビデオ通話をかけると、陽菜はすぐに応答した。画面越しの彼女の背景は、相変わらずイルネージュファームの事務所だった。ずっと待っていてくれたのだろう。申し訳ない思いがこみ上げる一方で、陽菜の優しさに胸が詰まった。
「落ち着いたみたいだね」
「うん。とりあえず、大丈夫」
友梨佳はホットミルクを一口飲み、少しだけ息をついた。
「じゃあ、今後のことを話そうか。まず、馬主さんにすぐ謝罪したのはいい判断だったと思う」
「でも、許してもらえなかった……」
「そこはもう馬主さん自身の問題だよ。友梨佳がいつまでも悩んでも仕方ない。大事なのは次にどう動くかだから。それより、スケジュール管理だけど……アプリを使った方が確実だね。私が使ってたやつ、教えてあげるよ。入力さえすれば、アプリが自動的にスケジュールを調整してくれる。予定が重なったらアラートも出るから、桜木さんに指示を仰ぎながら進めればいい」
「うん。ありがとう、陽菜」
陽菜の落ち着いた声に耳を傾けていると、友梨佳の心はふわふわと穏やかになっていく。
「それから、騎乗依頼の新規獲得の件だけど、既に厩舎と強い繋がりがある馬主さんを当たるのは効率が悪いと思う。私なら、新規の馬主さんを狙う。それも、馬主歴3~5年目くらいの人がベスト。経験を積みつつも、まだこの業界の慣習や人脈に苦労していることが多い時期だから。そういう人たちは、新しい風を求めていることが多いよ。そこに友梨佳が入り込むの」
「でも、どうやって?」
「難しく考えなくていいよ。普段通りの友梨佳で大丈夫。馬のことで悩んでいる様子があれば声をかけたり、世間話をしたりするだけでいいの。人との距離感がバグってるくらいのコミュ力お化けなんだから、絶対うまくいく」
「……それ、褒めてるの?」
「もちろん。周りを見てごらんよ? 知り合いだらけでしょう? 遥さんから聞いたけど、最近、綿貫厩舎に入り浸ってご飯を食べてるんだって? 気がつけば友梨佳の周りには人の輪ができてる。それってすごいことだよ」
「……そ、そうかな?」
陽菜に褒められ、友梨佳は照れくさそうに頬を赤らめた。
「でも、都合よくそんな馬主さんがいるかな……?」
次第に瞼が重くなってくるのを感じながら、友梨佳は不安げに呟く。
「調教師の先生や他の馬主さんに相談して、紹介してもらえばいいんだよ」
「……紹介……」
「まあ、でもね。たぶん明日には向こうから友梨佳に会いに来てくれると思うよ」
「……なんで……そんな……こ……」
友梨佳の言葉は途切れ、そのまま机に突っ伏して眠ってしまった。スマホ越しに穏やかな寝息が聞こえてくる。
「おやすみ、友梨佳」
陽菜は優しく微笑み、通話を切った。
翌朝、昨晩の雨が嘘のように晴れ上がった空のもと、友梨佳はリアンデュクールを厩舎の前で曳き運動させていた。
ぱっと見では普通に曳き運動をしているように見えるが、リアンデュクールの場合は少し特別だった。
この馬は、人間の支配下に置かれることを何よりも嫌う。無理に先に行こうとしたり、綱を強く引っ張ったりすると、たちまち前脚で蹴ったり、噛みついたりするのだ。
かといって、あまりに下がりすぎれば、勝手に好きな方向へ歩いていってしまう。リアンデュクールの意思を尊重しつつ、しっかりコントロールを効かせる。その絶妙なバランスを掴むまでに、友梨佳や亮太は何度も蹴られ、肩を噛まれたものだった。
今朝、友梨佳は早速、陽菜に教えてもらったスケジュール管理アプリを使い、茜にスケジュールを共有した。思いのほか簡単に操作でき、拍子抜けするほどだった。もっと早く知っていればよかったとは思ったものの、ITに疎いこともあり、そもそもそんな余裕はなかったのだ。
(陽菜が最後に「向こうから会いに来る」って言ってたけど……)
リアンデュクールを曳きながら考え込んでいると、茜が声をかけてきた。
「友梨佳」
「茜……桜木さん。おはようございます」
リアンデュクールを止め、友梨佳は少し緊張した面持ちで挨拶した。声のトーンもどこか低い。
「何よ、その言い方。いつも通りに話しなさいよ」
「でも……」
「私が良いって言ってるの」
「……うん」
友梨佳の冴えない表情に、茜はため息をついた。
「まあ、いいわ。スケジュールの共有、ありがとう。とても分かりやすかったわ。やればできるじゃない。これからもよろしくね」
「え?」
「バレットとしては申し分なし。苦手だったスケジュール管理も改善されてきた。辞めさせる理由なんて、どこにもないでしょ」
「でも……新規の騎乗依頼がまだ……」
「それについてなんだけど――」
その時だった。
「高辻さん! 探したよ!」
茜の言葉を遮るように、大きな声が響いた。厩舎前に停めた車から、昨日見た男性――後藤が降りてきた。
「あ、昨日の……」
「誰?」
茜がいぶかしげに友梨佳に尋ねる。
「コンサイニングしすぎの馬を掴まされた馬主さん。昨日、向島厩舎でテキに食って掛かってたの。多分、牧場とテキがグルだったんじゃないかな」
「ああ、なるほど」
茜は事情を察したようにうなずく。
「高辻牧場の話だけして消えちゃうから、調べて問い合わせたよ。それで影山厩舎にいるって聞いて……あ、申し遅れました。後藤と言います」
そう言って、彼は名刺を差し出した。
「今日は、高辻さんに影山先生を紹介していただきたくて」
「テキを?」
「うん。申し訳ないけど、昨日の件で向島先生はもう信用できない。だけど、高辻さんの馬を見る目や馬への接し方には感心した。こんな人がいる厩舎なら、安心して馬を預けられる」
――昨日、陽菜が言っていたのはこのことだったのか。
「紹介するのは構わないよ。今ならテキもいるし」
「ありがとう。もし転厩を受けていただけるなら、桜木さんに騎乗をお願いしたいのですが」
「ええ、私でよければ喜んで。依頼については高辻に言っていただければ」
茜はさらりと答え、隣の友梨佳を軽く肩で小突いた。
「やるじゃない」
喜びが溢れた友梨佳は、思わず茜に抱きついた。
「茜っち~!」
「ちょ、ちょっと! 離れなさいよ!」
「え~? さっき『いつも通り』で良いって言ったっしょ?」
「抱きついて良いとは言ってないわよ。ほら、早く後藤さんを案内して。失礼でしょ」
そう言って茜はリアンデュクールの引綱を手に取った。
「ほら、リアンは私が見てるから」
「うん、ありがとう。後藤さん、こっちだよ」
「いいねえ、こういう雰囲気」
後藤は笑いながら、友梨佳の後に続いた。
「茜っち! 後ろにいすぎると引っ張られるから気をつけて! あと、前に出すぎると噛まれるからね!」
友梨佳が思い出したかのように振り返って叫んだ。
「はぁ!? そういうことは早く言いなさいよ!」
言うが早いか、リアンデュクールは茜を引っ張って勝手に歩き出した。いくら綱を引いても止まる気配はない。
「ちょっと、止まりなさい! リアン!」
叫ぶ茜を引きずりながら、リアンデュクールは影山厩舎を飛び出し、トレセン内を思う存分散歩したのだった。